【新連載】幸せな母牛でラクラク一年一産!
一年一産はこんなに儲かる
岐阜・中根まき子
筆者。画面左側が母牛と哺乳子牛の過ごす大部屋。右側は分娩後間もない母子の部屋(すべて大西暢夫撮影) 30年連続で一年一産を実現し、子牛の成績も抜群、夫婦2人で75頭もの繁殖母牛を飼う中根まき子さん。「牛が幸せなら飼い主も幸せになれる」と確信し、子牛はもちろん母牛のストレスも極力少ない飼い方を独自に追求してきました。
今月号から連載で、その考え方と方法を詳しく紹介していただきます。
(12月号の中根さんの記事もご覧ください)
必死で助けた子牛「もも」が私を牛飼いにした
まずは私の自己紹介として、どうして和牛繁殖という職業に至ったかを手短に書いてみたいと思います。
当時28歳の私は、5歳、4歳、2歳と、年齢差の少ない3人の娘を持つ、ごく普通の兼業農家の嫁という立場にいました。夫は町外に勤務するサラリーマンで、義母は64歳。その義母が飼っている子取り和牛を手伝い、夫の日曜百姓である稲作も見よう見まねで手伝っていました。
翌年は末娘も3歳になり保育園に入園することが決まったので、何か内職的な仕事を始めたいと考えていた矢先、2頭いる和牛の1頭がある朝、双子の子牛を産んでいたのです。
1頭はすでに冷たくなっていましたが、もう1頭は小さいながらもかすかに呼吸をしていました。せっかく生まれてきたのに、一度も母親のオッパイを飲むこともなく死なせてしまうにはあまりにも可哀想過ぎて、私はもう必死でした。
納屋にストーブを運び、その前に毛布にくるんで寝かせました。
「頑張って! ちゃんと立ってお母さんの美味しいオッパイを飲むよ!」大きな声で励ましながら一生懸命全身をマッサージします。母乳を搾って注射器でほんの少しずつ口の中に垂らしていきます。夜中にも何度も起き出し、それを繰り返します。
翌朝、私の願いは天に届いていました。子牛は首をもたげ、ぱっちりと目を開けて私を見つめてくれたのです。
「よし! 本腰を入れて牛飼いを職業にしてみよう」
今思い出しても涙が込み上げてくるその時の感動が、私を牛飼いへと大きく突き動かしました。
「もも」と名付けたこの子牛は、いつまでたっても甘えん坊で、馬せん棒をくぐり抜けては洗濯物を干す私を邪魔したり、娘たちと追いかけっこをしたりして日々大きくなりました。
市に発つ朝、私はただただ涙ばかりで「もも」の乗るトラックの後ろをついて行きました。わが家始まって以来の高値でセリ落とされたときには、周りの目も気にせず、大きな声を上げて泣いてしまいました。
そんな「もも」の後押しを受けて、私の気持ちは揺るぎのないものになっていきました。
1年目で繁殖素牛16頭を一気に導入
牛にも妻にも優しい夫・義治。わが家の授精業務を一手に引き受けている 年が明けて昭和56年春、真新しい20頭規模の牛舎で、ぴかぴかの新米牛飼いが2頭の古参牛と16頭の若牛の計18頭を相棒にし、飛び跳ねるように始動しました。
1円の自己資本も持たないまるっきりの素人牛飼いです。牛舎も、導入した子牛もすべて借金、あるのは「やる気」だけです。それでも何の不安も心配もなし、若さの持つ特権というのか「怖いもの知らず」そのものでした。
導入した繁殖素牛は、よいも悪いもわからない素人の自分と夫が、自らの手でボタンを押して購入した牛たちです。「安いこと」を最前提で選んだので、平均には程遠く、みな痩せてみすぼらしい牛ばかりでした。
それでも私にとっては念願かなって手にした大事な大事な宝物であり、その牛たちを眺めること、ブラシ掛けをしてやること、世話をすること、旨そうに夢中で食べてくれる草を刈ること、そのどれもが楽しく嬉しくてたまらない日々でした。
みんなが笑ったみすぼらしい牛たちだって、一生懸命愛を注いで飼ってやれば、やがてはきっと立派な子牛を産んで、私にもっと笑顔をもたらしてくれる。そう信じていたのです。
全頭「安福」出荷は、一発でタネがついたから
そして、それは意外にも早くに訪れました。
5年目となった昭和61年、あの名牛「安福」の子牛たちが一気に高値を呼び込み、ほとんどの子牛が50万円以上で売れたのです。
16頭分の農協有牛の償還期限が迫っていましたが、ラクラクでクリアーでき「牛飼いになって本当によかった」と実感し、お腹の底から笑うことができました。
この結果は、受胎率がよく全頭安福産子での出荷を成し得たことが基本にあります。というのも、岐阜県は安福精液の配布に「母牛1頭当たり1本」の制限を課していたからです。市場出荷する子牛がすべて安福ということは、全頭が確実に1回の授精で受胎している証です。
発情を見逃すなんて、ありえない
牛は裏切りません。真剣に向き合い、自分にできる最大限の努力さえ惜しまなければ、いつでもたいていのことは教えてくれます。ただ、牛は言葉で伝えることができないため、こちらが「読み取る」「察してやる」ということが必要ですけどね。
繁殖経営にとって一番基となる「発情を見つける」作業においては、横着者の私たち夫婦は、この大事な仕事も手抜きを貫き、「自分で見つける」なんて面倒なことは一切しません。牛が懸命にアピールしてくれるので、二日酔いでどんなに意識が怪しい時でも「見落とす」「見逃す」はありませんよ。
たとえその日にタネ付けする体力が残っていなくても大丈夫。翌日になってもちゃんと判るようお尻にサインを残しておいてくれます(尾根が赤むけになっている)。
ちなみに、わが家の種付け適期は牛の乗駕行動から何時間というのではなく、授精師(夫)の手の空く時間帯なのです(夫は平成元年、私が体調を崩して寝込んだのをきっかけに勤めを辞め、専業になるべく授精師の資格を取得しました)。多少タイミングが早かろうが遅かろうが、発情がしっかりしていればタネは確実にとまります。
10年間で子牛30頭分の差
「一年一産」は、30年前私が牛飼い人生をスタートさせた時点でも何かにつけて叫ばれており、その頭には「目指せ!」が必ずといってよいほど付けられていました。
当初まるっきりの素人だった私は、その言葉の意味さえ深く考えず、縁あってわが家の一員となった牛たちがただただ愛おしく、彼女らが喜んで食べてくれる草を腹いっぱい食べさせてやりたい、その思いだけで日々を精一杯過ごしていました。
そして気付いたとき、すべての牛が前年よりも早い分娩予定日を迎えていたのです。「これが一年一産なんだ。なんて普通なことなんだろう」と率直に思いました。
その頃の私にとって唯一の師は、ゴマすりでも何でもなく「現代農業」だけでした。まっさらな白紙状態の私の頭は、どんなこともどんどん吸収し、やれることは何でも即実行する優秀な生徒でした。
生来の動物好きが幸いし、いつも牛の立場に立って物事を考えていました。
私の場合「一年一産」は、目指したのではなく後からついてきてくれたものだったのです(平均分娩間隔は約350日)。
「一年一産」がどれほど大きな価値を持っているのか、具体的な例で説明してみます。
259ページの表を見てみてください。平均分娩間隔が350日のA農家と、410日のB農家(どちらも飼養頭数は20頭、子牛の平均販売価格は50万円)では、ほとんど同じ経費と手間をかけながら152万円もの所得差があることがわかります。これはたった1年間の話で、10年間だとその差は1525万円となり、A農家は高級乗用車を何台も乗り換えられることになります。子牛の頭数では、A農家はB農家よりも10年間で30頭も多く生産しています。
一年一産できている農家、できてない農家の所得はこんなに違う!!
A農家 (一年一産を達成) 平均分娩間隔:11.5カ月(350日)
B農家 (たいていの県の平均分娩間隔) 平均分娩間隔:13.5カ月(410日)
※共に飼養頭数は20頭、子牛販売価格の平均は¥500,000とします。子牛の販売価格は同じなので、市場成績だけを見ていると一見両者に差はないように見えますが、年間売上金額には歴然とした差があります。
母牛1頭当たりの年間の稼ぎを比較すると、その差がよくわかります。A農家の母牛は、1頭の子牛を生産するのに350日を要しています。
¥500,000÷350日=¥1,429 …母牛1頭の1日当たりの稼ぎ
1年分を計算すると
¥1,429×365日=¥521,585 …母牛1頭の1年の稼ぎです。![]()
同様にB農家は
¥500,000÷410日=¥1,220 …母牛1頭の1日の稼ぎ
¥1,220×365日=¥445,300 …母牛1頭の1年の稼ぎ母牛20頭分の1年の稼ぎを比較すると
(¥521,585−¥445,300)×20頭=¥1,525,700
A農家 B農家これこそわが家が、補助金に頼らず、思い描いた通りに規模拡大を続けてこられた大きな要因なのです。
(岐阜県恵那市)
※次回(2012年3月号)は、一年一産を実現する母牛の飼料給与について掲載予定。
この記事の掲載号『現代農業 2012年1月号』特集:農の仕事は刃が命
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