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Ruralnet・農文協食農教育2003年7月号

食農教育 No.28 2003年7月号より
[特集]お店屋さんには知恵がいっぱい

 

雪谷のお店屋さんに聞きました

 

他人の飯を食って苦労しなきゃダメ

 

三福菓子舗 成田 弘次さん

成田 弘次さん

成田弘次さん(昭和5年生まれ)

どの学校区にも商店街のひとつくらいはある。
そば屋や寿司屋があり、豆腐屋があり、クリーニング屋やスーパーマーケットがある。
東京・大田区の雪谷小学校もそんな学校区のひとつだ。 
でも、この学校の先生と子どもたちは商店街を通して、「今に続く」昔をさぐりあて、人々の暮らしのこだわりを掘り起こした。
その手法をつかむために、私たちは雪谷を訪ね、子どもたちと同じように学んでみようと思う。
取材協力 大田区立雪谷小学校

一日中モチを蒸かしていたころ

昔はみんなよく和菓子を食べたもんだよ。とくに終戦後だね。5月の節句なんか、ほんとに忙しかったねー。柏もちやちまきを買いに、朝の9時半からお客さんがつめかける。午後2時ごろまで行列ができていたよ。

 オレはちょうど目黒の玉川屋に丁稚奉公に行ってたんだけど、レンガ積みのでっかい竈が2つあって、その上に米3升が入る蒸籠を5枚積み上げて、朝から晩まで蒸かしっぱなしだ。モチは機械で搗いていたけど、手返しのために埼玉の田舎から2人ほど来ていたなー。蒸気がもくもくとでるもんだから、夜中に仕事が終わると、服が糊で固まっちゃって、手で押さえるとバチバチっという音が鳴るほどだったよ。

仕事は手で覚えるもの

三福菓子舗

 柏もち1つとっても店ごとに流儀がある。あんを包むと半円形になるだろ? あんで膨らんだ頭を小さくするか、大きくするかも店によってちがう。

 大きくするなら、手のひらのつけ根でギュッと押さえつけるようにして生地をくっつける。小さくするときは、両手をポンっと重ね合わせる。それだけでハマグリの形になっちゃう。一瞬だよ。手の形がそのままハマグリの型になってるんだ。簡単なようで、なかなかできない、職人の技だね。

 いかに早く、ていねいにつくるか。柏もち1日500個じゃダメ。1000個できたら一人前って言われるな。はい40g、はい60g、って手が覚えてるんだ。目方なんて量らなくても、ピッタリ合うよ。

 練りきりの型にしてもいろいろある。スズラン、バラ、アサガオ、ナデシコ……。ぜんぶ自分でデザインするんだ。ビワは手でつくるけど、芯とその周りの部分をどうつくるか。ハサミで切る人もいれば、手でやる人もいる。オレは箸の棒を突っ込んで回りをつぶして芯をつくる。色は、白あんに黄色の色粉を入れて、赤を少しだけ入れるのがコツだな。すると、ビワのなんともいえない、いい色がでるんだ。

 いや、なんでもとことん追究するタチでね。魚が好きなもんだから、鮎をつくったこともあったけど、お客さんから「生ぐせー」って文句言われちゃった。「生ぐせー」までつくりこんじゃダメだろうが、創意工夫して自分で自分のお菓子をつくる。これが、なんともいえずおもしれえねぇ。

子どもの仕事、小僧の仕事

 オヤジは川崎の百姓の出で、オレが5歳のときに、東雪谷に移ってきた。

 オヤジは、五反田の三福という駄菓子屋に修行にいったあと、そこの品物を流してもらいながら商売を始めた。そのうち大森のある店から和菓子を売ってくれないか、と言われて売り出した。ところが味が悪いときた。で、お客さんから「自分でつくったらどうだい」って言われたのがきっかけで、花園という和菓子屋に修行にいったというわけ。五反田の三福のオヤジさんのつてだな。

 もちろん、オレも子どものころから手伝わされたよ。蒸かした熱いまんじゅうを竹で編んだスダレの上に並べていくとか、多摩川の土手に行ってモチクサ(ヨモギ)をとってきて洗ってゆでたりとか。そんなことしながらも、学校は大学までいかせてもらった。法政の経済学部。でも、家を継ぐつもりだったから、22歳で玉川屋へ小僧として修行にいった。

 いやー、玉川屋のオヤジさんはこわかったよ。やり方が悪いと竹べらで手をたたかれたもんだ。和菓子屋の世界はね、封建的というか、上下関係が厳しい。職人さんは板張りの上で仕事をするが、小僧は土間。樽を2つ並べてその上に板を敷くんだ。それを机代わりにして作業をする。

 オレは器用だったけど、もう一人の小僧がヘタクソでね。形のいいのと悪いのが、板の上にだんだんできていく。でも、その小僧、要領はよくってね。オヤジさんがくると板の向きをひっくり返して自分の前にきれいなのを持ってくるのさ。まあ、オヤジにはバレて「またやりやがったな」なんて叱られてたけどね。

雪谷小の子どもたちの聞き取りより

 1.お店を開いた年 昭和9年
 2.もののねだん 昭和22年 千とせあめ 1本3円50銭
 3.使われていた道具 ・5つだまそろばん、帳面、きょうぎ(品物を包む、はじめは木のうすぎりや竹の皮、今はビニール)、おかもち、一合・五合・一升マス、天秤ばかり(量り売り)、茶箱を、モナカ入れに使っていた(湿気ない)、ガラスの入れ物におせんべいなど入れていた
 4.お店のつくり ・今とほとんどかわらない、裏でいろいろな和菓子をつくっていた、
・燃料はまき→石炭、灯油、ガス
 5.お客さんのようす ・昔はおいわいごとやおそうしきなどのしきたりが多く、たくさんの注文があった
 6.ほかの店や道路のようす ・八幡神社の森が、道のすぐそこまできていて、木がうっそうとしていた。前の坂道はもっと急、店から南がわは畑が続いて、本文寺の森が見えた。石川台からこちらは店が3軒だけ
 7.お店を開いたときの気持ち ・先代なのでよくわからないが、和菓子の修行をして店を開いた
 感じたこと・考えたこと わがしのしゅ行をして店を開いたなんて、すごい

技を盗む場は自分でつくった

 和菓子屋は、それぞれが秘伝をもっている。それを小僧に教えてくれるなんてことはぜったいないよ。だから、いつもノートを持って、人の仕事を見ていたよ。盗むしかないんだな。

 「あっ、きれいだね」って言って職人のそばによって羊羹を練るようすを見たりして。夜になると、「おごってやるから、一杯飲みに行こう」って屋台に行ったりもしたよ。学校でたての小僧がいっぱしの職人を誘ってね。そこで、粉の配合具合だとか、形、色なんかを聞き出す。すると、仕事をやるうえでもいい。職人から、「ちょっと、まるめるの手伝ってくれないか」と声をかけられたりするようになる。個人指導が受けられるようなもんだ。

 今は豊かになっちゃって、自分で“ヤロー”というのがなくなっちゃったんじゃないかい。「生え抜きはダメだ。他人の飯を食って苦労しなきゃ」って昔は言ったもんだ。お菓子をつくるのも、お菓子づくりを学ぶのも、苦労して、自分で工夫することなんだな。オレはお菓子が大好きだから。自分のお菓子を考案して、お客さんが喜んでくれる。これがうれしくって、いままでやってきたようなもんだよ。


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