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Ruralnet・農文協食農教育2004年5月号

食農教育 No.34 2004年5月号より
[特集]お母さんを学習応援団に

交流のひろば

この人に聞きたい!
全体計画を立てると授業が窮屈になりませんか?

文部科学省視学官 嶋野道弘さん

◆計画と実際にずれができるのは当たり前

――今回の学習指導要領の総則の一部改正によって、「総合的な学習の時間」については各学校において全体計画を作成することが明記されました。これによって、一部には計画にしばられて臨機応変に授業をしていくことがやりにくくなるのではないか、という懸念があるようです。このあたりをどう考えたらいいでしょうか。

嶋野道弘
しまの・みちひろ 埼玉県熊谷市生まれ。埼玉県公立小学校教員、埼玉県教育局主任指導主事などを経て、現職。主な著書に『生活科の子供論』(明治図書)、『「総合的な学習の時間」―実践へのアプローチ―』(全国教育新聞社)など。

嶋野 計画があると柔軟に授業ができないというのは、まったくの誤解です。全体計画というのはその学校が「総合的な学習の時間」をどう組み立てていくかという構造を示すものです。また、指導計画というのは単元や授業についての仮説・見通しです。しかし実際には、授業というのは生きものなので、計画通りにいかないことが多いのです。だから計画を立てる必要はないということにはなりません。授業というのはそのときの子どもの状態など、さまざまなものの影響を受けるわけです。それが自然なわけで、それをよくとらえながら、その場でその場でよりよい方法を選びとっていくものです。ですから、全体計画とは何かということと同時に、授業とは何かという授業論がしっかりしていれば、計画があるからそれにしばられて臨機応変にできないというのは筋ちがいであることが理解できると思います。

 全体計画がない指導とある指導とを比較して、どちらが価値的に高いかといえば、無計画な指導では、結果としてうまくいったとしてもそれは教育論にはなりません。それに対して、いまもっている事実や情報をもとにして計画を立て、その計画に基づきながらもよりよいものを目指して柔軟に対応していくほうが価値が高いといえます。そのときに大事なのは計画と実際のズレです。このズレは教育論からすればけっして悪いことではなく、自然なのです。そのズレをきちんととらえてよりよい方向に変えていけるか。そこが非常に大事です。

――たしかに、食農の教材を扱った場合、計画通りいかないことのほうが多いですね。

嶋野 作物や動物を育てるときは、天候や作物の状態をよく見て、それに適切に対応していくことが大切です。農業では二度と同じことはできない、マニュアル通りにはいかない、ということがよくいわれます。経験知が働いて、米づくりや野菜づくりに精通した人はだれでも納得するような知見というものをもっています。子どもがそういうものを学ぶことも重要な食農教育なのです。

 農業においても、それまでの知識や経験を集めた一定のマニュアルが必要で、それはそれで価値がある。農家の人も農業日誌などをつけながら、時期時期の作業を考えている。その意味ではそれぞれマニュアルをもっているのです。と同時にそのマニュアルに固執してばかりいたらだめなので、それに基づきながらもそのときそのときの現場の状況をよく見極めて対応する。それがいまこれからの教育でも一番大切なのではないか。

 そうなると、もうこれでいいということはなくて、つねに真剣に対応していく。だからものづくりの世界に一度入った人は夢中になっていくのです。

◆農家に学びたいPlan-Do-Seeの精神

――なるほど、農家が農事日誌をつけるのと、学校の計画づくりには通じるところがあるのですね。

嶋野 全体計画が重要なのは、何年か続けていくうちに学習指導に関するいろんな「範例」ができていくことです。今年は天候が不順で何年前と状況が似ているとか、この作物を育てたら、子どもたちからこんな探究が生まれてきたとか。そういう範例はつぎの指導を行なうときの非常に重要な参考や資料になります。農家の人が農業日誌を大事にしたり、料理人が調理ノートを大事にするのは、それが次の計画を立てるときの参考資料になるからです。こういう「学び方」を、ぜひ子どもたちにも学ばせたいものです。作物を育てたら、ときどきは生育状況や作物とのかかわり方を振り返って、ノートにまとめてみる。そのノートを通してわかったことを、その後の学習の参考や資料にできるようにするのです。その場その場で世話だけをしていても学習としての価値は薄い。そういう意味でも全体計画を立てる必要があります。

――全体計画を立てる場合に、学年によって取り上げるテーマを固定することについてはどうお考えですか。

嶋野 食農にかかわるテーマは、毎年同じテーマでやっても子どもが変わり、その興味・関心が変わり、その年その年の天候が変わってくれば、そのつど新鮮なのです。同じテーマでやっても同じ結果になるわけではないし、同じテーマでやると子どもの意欲が薄れるというのは杞憂のことであって、「来年、四年生になったらダイズを育てるんだ」といったようなあこがれをもつようになる。そのような、意味のある繰り返し≠つくっていくためにも全体計画は重要なのです。米づくりにしても「去年の五年生はこうやったから、今年はこうやってみよう」とか、「困ったことがあったら、六年生に聞いてみよう」とか、そういう次の学年の活動への関係をつくりだす意味でも全体計画は重要です。そうなると教師もまたほかの学年の活動にも関心をもっていくでしょう。それが集大成されて学校の力になってくるのです。

 そう考えると、全体計画をしばりつけるものだという考え方は払拭したほうがいいと思います。むしろ全体計画があったほうが教育の質が高まるのではないでしょうか。その場合、大事なことは、計画と実践にはズレが生じますから、それを振り返り評価し、次年度に生かすという Plan-Do-See を欠かさないようにすることです。これがないと全体計画があることによって画一化を起こすおそれが出てきます。

 ものづくりをする人たちもみな Plan-Do-See をしていると思うのですね。農家の人は、「今年、米の出来が悪かったのはなぜだろう」と振り返って、「来年はこうしよう」と考えている。そこに学ぶべきだと思いますね。

 命あるものを対象にした学びというのは、こまめな記録が必要です。そういうものは学校に残されていっていい。(談・文責 編集部)

この続きは雑誌でご覧ください。


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