「総合的な時間」の総合誌
農文協
食農教育  
農文協食農教育2004年11月号
 

食農教育 No.37 2004年11月号より
[特集]農家に学ぶ「いのちの授業」

いのちをいただく

アイガモのいのちをいただくまで
――私たちが考えたこと

鹿児島市立川上小学校の実践 編集部

 教師の課題

東睦美先生と宮下博子先生
川上小時代にアイガモ農法の実践にとりくんだ東睦美先生(右)と宮下博子先生

 5年前の2000年4月、川上小学校の東睦美先生(現草牟田小学校)は、「アイガモを“食べる”ことを中心に据えて、一年間のお米学習を組み立てよう」と心に強く決めていた――。

 農家の橋口孝久さん夫婦と意気投合し、はじめてアイガモ農法による米づくりを行なったのは、さらにさかのぼること5年前。1年生の親子レクリエーションでのことだった。米づくりをとおして、田んぼや用水、川、海、森の働きを学ぶ環境学習を行ないたい。無農薬のアイガモ農法はそんな東先生のねらいにピッタリだった。その後二年間五年生を受けもった東先生は、橋口さん夫婦とタッグを組んで、やはり社会科で米づくりの実践を重ねていったのだった。

どうしてカモはダメで、ブタならいいのか?

 でも、東先生にはある心残りがあった。環境を学ぶという当初の目標は達成できたものの、カモの命を引き継ぐことはしていなかったからだ。イネ刈りのときにカモ汁を食べようと計画するのだが、いつも迷ったあげく、ブタ汁を食べてしまっていたのだ。

学校にてアイガモの飼育
学校にてアイガモの飼育(2003年度のようす、以下※も)

 「学校教育で生きものを殺生してもいいのか?」「ショックで肉を食べられなくなる子どもが現れたら……」。そんな気持ちが心をもたげる。子どもたちに投げかけたこともあった。「いやだー、そんなのダメ!」。思いのほか強く拒否する子どもたちの前に、どうしてもその一線を踏み越えることができないでいた。

 その後、2年間5年生の担任を離れたのだが、「どうしてカモはダメで、ブタならいいの?」という橋口さんの問いかけに答えられない自分。ちょうど17歳の少年事件が世間で取りざたされた時期でもあった。自身、川上小に勤めて10年目を迎え、転勤は目前。いままで側面から最大限のサポートをしていただいた橋口さんにお返しするには、やはり授業実践でしかない。そんなある種、思いつめた気持ちのなかでの出発だった。

授業づくりに専念できるしくみ

 川上小のお米学習は、うまく役割が分担されている。アイガモのふ化や育すう、田んぼの水管理など専門的技術が必要な部分は橋口さんが受け持ち、担任と子どもたちは種モミの塩水選からはじまり、田植え、田んぼに放したあとのカモのエサやり、カモの入らない実験田の観察、田んぼの草・虫の観察、水の行方調べなどの学習を行なう。だから、教師は子どもをイネやアイガモにどう向き合わせるか? という授業づくりに専念できるのだ。

 さて、3クラス分24羽のアイガモは、田植え後すぐに10aの田んぼに放される。その後、子どもたちは当番で毎日エサやりをする。カモが長いクチバシで雑草を食べたり、足をバタバタさせて泥をかき混ぜるさまを、夏休み中も当番でエサやりしながら観察するのだ。そして8月末にイネの花が咲くと、カモを田んぼから引き上げる。

先生は残酷だ、冷酷人間だ!

 例年なら、そこでカモは橋口さんに引き取られる。しかしこの年、東先生は2学期早々にカモの小屋づくりを行なった。子どもたちが設計図をつくり、PTAから木切れを集めてもらう。風が吹いたら壊れてしまいそうな小屋だけど、いままで田んぼで働いてくれたカモのために思いを込めてつくった小屋だ。

 その後2週間、子どもたちはカモと思いっきり遊んだ。朝学校に来ると、カモを抱っこして「ガー子、ここが川上小だよ」と話しながら校内を歩く子どもたちの姿。1学期からアイガモは家畜であることを言い続けてきた東先生に、「先生、ピー子は愛玩動物になったよ」と声をはずませる。「名前までつけてかわいがるカモを食べる。これをどう乗り越えさせたらいいのだろう?」と東先生は苦悩した。

 そして9月の4週目、ついにそのときがきた。

 「いままで勉強してきたように、このカモは家畜です。10月のイネ刈りのあとにカモ汁にしてみんなでいただこうと思います」。

 「いやだー。そんなのできない! 先生は残酷だ。冷酷人間だー!」。

 カモは家畜であるというこれまでの学習は、子どもたちにはたんなる一般論としか受け止められていなかった。「このまま突っ走ってはいけない」。目の前のカモを食べることは、子どもたちの想像をはるかに超えるものだったことを東先生は思い知らされた。

 変わる子どもたち

食べものになる前の姿を調べる

 東先生には、年度当初より心に決めていたことがいくつかある。(1)カモといっしょに遊ぶ時間を十分とる。(2)身の回りの食べもの調べをする。(3)橋口さんの話を聞く。(4)討論の場をもつ。(5)全員が納得したら食べる。一人でも嫌な子がいたら食べない。

 ただ、これらをどの時点で行なうかはまったく計画されていなかったのだが、「人間が生きものを食べているのを学ばせるのは、いまだ」とそのとき直感したという。

 そこで、まず1週間かけて子どもたち一人ひとりに朝・昼・晩、毎日の献立調べを行なわせた。次に、調べた献立から食材を一つ選び、それが食べものになる前の姿をグループで調べることにした。ジャガイモ、肉、味噌、米、ポテトチップス、野菜などを調べるほか、狩猟生活から定住し農耕を営むようになったヒトと食の歴史を調べたグループもあった。

生きていた食べもの、働く人の気持ち

古川匡玄くんのおばあちゃん
こうじを混ぜる古川匡玄くんのおばあちゃん

 子どもたちが大きく変わったのは、この食べもの調べをとおしてだ。肉グループは、牛肉がどこからきたのかをスーパーの店長さんに取材。佐賀牛であることを聞き出し、出荷元のJAに電話をする。すると、昨日牛をト殺・解体して鹿児島に送ったという。目の前の肉は、なんと昨日まで生きていた牛だったのだ。さらに、牛を育てた人、殺した人、解体した人、運ぶ人、切り身にした人、包装した人……と、おいしい肉を口にするまでに何人もの人の手間がかかっていることを教えてもらい、またビックリする。

 味噌グループは、いまも味噌を手づくりする古川匡玄くんのおばあちゃんへの聞き取りを行なった。こうじは、灰を入れた水に米と麦を漬けたあと、大きな釜にのせた蒸籠で蒸し、菌をふって一日がかりで培養する。ムシロの上のこうじが熱をもち、だんだん真っ白くなっていく。そして、煮つぶした大豆と塩をあわせ、こうじを混ぜてからツボに押し込む。もう忘れてしまっていたが、匡玄くんが小さいころいっしょに味噌をつくっていたことも教えてくれた。釜に残った火で団子を蒸し、カカラン葉(サルトリイバラ)や竹の皮でくるんで食べていたことも。

 「みんなこんなにもしてるの?」「昔の人はみんなこうして自分でつくったから味も一つずつ違う。こうじづくりのときは、まーちゃんがおいしく食べるのを思いながら、こうやって混ぜているんだよ」。そんなおばあちゃんの言葉に匡玄くんは感動する。

 こうした調べ学習をとおして、子どもたちはどんどん変わっていった。まず、給食の残飯が限りなくゼロに近くなっていく。家庭での会話にも変化がでてきた。親や兄弟に「残したらダメ。野菜も生きていたんだから」といった話をすすんで語りかけるようになっていったのだ。

 揺れる親たち
         元PTA役員 山下泰子さん

山下泰子さんと古川由美子さん
山下泰子さん(左)と古川由美子さん(匡玄くんのお母さん)

 はじめて東先生から米づくりの全体像の説明を受けたとき、「えー、おもしろそう。それなら役員する」って思ったんです。米づくりからアイガモを食べるところまでなんて、いまの生活のなかで自分では到底できないですから。

 でも、猛反対した人もいましたよ。「とんでもない! 学校でカモを殺すなんて! 残虐な事件が起こっているのに」って。ほかの人たちも本当に食べられるのか? 食べさせられるのか? まだよく意味がわからず納得しきれない雰囲気でした。

子どもの変わりようを見て

 学習が始まると、子どもたちはまっすぐ家に帰らずに田んぼに寄ってきます。オタマジャクシを競争してつかまえたり、アイガモと追いかけっこしたり。受け取り方は親によってさまざまでしたが、なかにはだんだん不安になってきた人もいました。「小さいころニワトリをさばいて食べてたから当たり前と思ってたけど、ピーちゃんピーちゃんって、子どもがあんまりに仲良くなりすぎてだんだん心が揺らいできた」と言うんです。

 でも、親の心をさらに揺さぶったのは、やっぱり子どもたちの変わりようでした。ある日カレーを食べていたら、子どもが「ねーお母さん、このジャガイモどこでとれたの? ニンジンは? 豚肉はどこで誰が育てて、誰が殺したんだろう?」って言うんです。「あっ、アイガモを食べるか食べないかって、そういうことだったのか」ってそのとき気づきました。

 猛反対していた人も、子どもの変化とか、旦那さんとの会話のなかで気持ちが変わっていったようです。旦那さんに「家畜やって食べんこて(家畜だから食べて当たり前だろー)」とサラっと受け止められると「えっ、そんなもんなのかな?」ってね。いままで学校教育だからとか難しく考えていたけど、肩すかしにあった感じでしょうか。

子どもに試されているよう

 学習のようすは週報でも届きます。おばあちゃんの味噌づくりに感動した匡玄くんや、小屋に入っているアイガモの気持ちを思いやる子のようすを知って、「おー、この子はここまで行き着いたのねー」っていっしょに感激するんです。だんだんよその子もかわいくなってくるんですよね。私自身、新聞でも「命」という言葉がすぐに目に飛び込んでくるようになりました。

 子どもは「どうして食べなきゃいけないの?」「食べようけ。いや、やっぱり食べない」と相変わらず悩んでいます。ふだん思いもしなかったことなので、親が子どもに突きつけられる、というか試されているようでもありました。

 中止、そして決断

教師の使命とは

 食べもの調べのあと5年生では「アイガモを食べるか食べないか考える会」をもった。全体でそれぞれ調べたことを発表し、農家の橋口さんの話を聞いたあと、クラスに分かれて討論する場をもった。

 東先生の2組でも、活発な意見が交わされたが、ここでも古川くんの発言がみんなの心を揺さぶったという。

 「ある獣医さんが、いま動物を捨てる人がいるけど、動物を飼うということは、最後までその命を守ることだ、とテレビで言っていた。最後は食べるという覚悟がないと飼う資格がないって」。この発言で「食べる」意見が増えたのだが、3〜4人はやはり「食べたくない」と言う。

 このとき、東先生はアイガモは食べないと腹を決めた。教師としての使命は「子どもに何を伝えるか」だ。食べたら伝わるわけでもないし、食べなかったら伝わらないわけでもない。それまでの過程に、環境を学んだり、生産者の気持ちを考えたり、労働の大切さを学んだり、命をいただく意味を学んだ。それで十分じゃないか――。そうして、10月6日のイネ刈り後にはまたブタ汁を食べることとなった。

命を引き継ぎたいという気持ち

 しかし、カモはまだ小屋にいるし、学習は終わったわけではない。その後も親子セミナーを開いてこれまでの学習を劇で発表したり、鹿児島大学の萬田正治先生を招いて環境問題とアイガモ農法、家畜とペットの違い、命の循環についての話をしてもらった。

 そんななか、3学期に入ると子どもたちの気持ちがまたふくらむようになる。

 「先生は食べないという子の気持ちばかり考えてるけど、食べて命を引き継ぎたいというぼくらの気持ちはどうなるの?」。また匡玄くんの発言だった。この声につられて、意見が大きくなるのを待って、もう一度話し合う機会をもとう――。そして1月末、さらなる討論会が開かれることになった。

 このときには、カモは1年〜1年半が食べごろで、それを過ぎると肉が硬くなってしまうこと、来年度はいいとしても、中学生になったら誰が面倒をみるのか? といった現実的な問題も踏まえた議論となる。そんななか、「私は食べないけど、ほかの子は食べてもいい」と食べない子の気持ちにも変化が現れるようになっていた。

 東先生はまだ迷っていた。職員会議で「本当に食べることが大事ですか?」と何度問いかけただろう。そのたびに、翌年度からこの実践を引き継ぐこととなる宮下博子先生(現隼人町立宮内小)たちが背中を押してくれ、気持ちが落ち着いたという。そして、決断した。

 (1)2月26日(土)に親子レクリエーションとして行なう。(2)育てたカモは、一度橋口さんに引き取ってもらい、橋口さん宅のカモも合わせたなかから20羽ほどとってさばく。(3)食べる子も食べない子も、もう一度親子で話をして親子で参加する。(4)食べない子は来てもいいし、来なくてもいい。

 農家の思い
         農業 橋口孝久さん

アイガモが価値観を転換させた

橋口孝久さん
橋口孝久さん(アイガモをいただく会にて※)
毛をむしる子どもたち
毛をむしる子どもたち(※)
しっかりした処理技術でことを進める
しっかりした処理技術でことを進める(※)

 私は水俣の隣にある出水市の出身で、体内の水銀量が8ppmと、ふつうの日本人の倍くらいあります。50ppm、80ppmとかの水俣病患者とは比べものになりませんが、そんなわけで関西にいた大学時代に水俣病患者の支援活動をしたり、瀬戸内海汚染総合調査団に入ったりしていました。水俣病患者は結婚すると病気が移るなどと言われ地元では村八分、大阪や東京にたくさん移り住んでいたからです。

 反公害の活動をするなかで、福岡正信さんの『わら一本の革命』に出合ったり、魚という食べものが原因で病気となった患者と接し、だんだんと農業の大切さ、食べものこそが生命の原点だということが見えてきたんです。

 それで30歳で就農して有機農業をはじめた。はじめは雑草との戦いで、さんざんでしたよ。売れるようなものはできないから、ニワトリを飼って現金収入とした。91年にはアイガモと出合いました。古野隆雄さんの田んぼを見て、「すごい! これならできる!」と思いました。価値観がまったく転換されたんです。雑草は余計なもの、手でとるものと思っていたのが、カモのエサとなって共存できる。雑草や害虫も必要だから生きている。土づくりでも菌と共存するという世界が見えてきたんです。

粛々とことが進む、場の雰囲気

 私は堆肥置き場でカモをさばくんです。そこでカモの血も毛も皮もガラもムダなところは一つもない。すべて肥料になって、次の野菜の命につながって返ってくるんだよ、と子どもたちに説明します。場の雰囲気が大切なんです。熊本や宮崎からもアイガモ水稲会のメンバーを呼んできます。しっかりとした処理技術をもった人が数名いて、なるべく子どもといっしょに解体できるようにです。

 カモの首を切って動きが止まる3〜5分くらい、子どもたちは2mくらい離れたところから沈痛な面持ちで見ています。お湯の中に入れて毛をむしり始めると少しずつ近づいてきます。「こうしてむしるんだよ。やってごらん」と声をかけながら。「カモちゃん苦しかったでしょう」「私のためにありがとう」と泣きながらむしる子もいます。

 解体するときは「これが肝で刺身で食べるとおいしいんだよ、これが砂ずりだよ、これが心臓、卵だよ」と淡々と説明していきます。きれいに、おいしそうにさばくことが大切です。すると子どもたちもスッとそこに入ってきて、だんだん肉になるにつれて表情が明るくなっていくんです。

 半年間悩みながらも、肉になって食べる。わだかまりがスパッと抜けていく瞬間です。私が学生時代に葛藤しながら乗り越えたのと同じものを、このときの子どもたちに見るんです。そしてその場のみんなが「よかったね」と感動する。

 粛々とことが進む、その雰囲気が大切です。言葉ではない。それが地域のもつ教育力だと思うんです。いま、川上小学校周辺では25軒がアイガモ農法を取り入れるようになっています。

 継続の力

 食べる会を終え、解体のときの写真を貼り、コメントを書く子どもたち。

 「『食べる』ということは、その動物の命をいただいて、自分のなかでその動物の命が活用してくれて、それで自分が生きていることだと思う」。

 みんなそれぞれが悩み抜いて出した結論。それをサッと書き込む姿に東先生は感動した。みんな自分のなかで整理をつけたんだなー、と。

「私が責任をもって解体します」
「私が責任をもって解体します」(※)

私が責任をもって解体します

 あれから4年。東先生の実践はカリキュラム化され、その後3年間宮下先生に引き継がれ、今年は大山トモコ先生が奮闘中だ。宮下先生は、毎年「本当にここまでしないといけないの?」と自問しながらも、食べる体験のもつすごさも身にしみて感じるという。

 はじめから「食べる」と言っていた子も、最後に「怖い思いをした。なんで食べると言ったんだろう」と苦悩する。「これはアイガモじゃない。肉だ肉だ」と思いながら身を切り、最後は心から「ごちそうさま」と言えるようになる。食べる体験のもつ底力だ。

 いっぽう東先生も今年2月の「食べる会」を訪れた。血を抜かれたカモ一羽を抱いて「私が責任をもって解体します」という一人の子の姿が印象に残ったという。初年度は吊されたカモにはまだ誰も近づけなかったのに……。実践が継続されることの力を、その姿に感じとったそうだ。

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