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農文協トップ主張 1985年03月

おコメの収量と天候
去年と同じ技術では今年は豊作にならない

目次

◆「大豊作」は異常天候の落とし子?
◆これまでの豊作年とちがう去年の気象
◆58年と59年、夏の好天は同じなのに収量はまるでちがう、なぜ
◆「絶妙な天候の操作」がもたらした59年の成育
◆いまの技術では万に一の偶然

「大豊作」は異常天候の落とし子?

 「天候がよければ豊作になる」そんな楽観ムードが流れている。あの端境期の危機的米需給、不作に悩んだ四年間、それらがみな遠い過去の話になりそうなこの頃だ。

 五十九年春、思い出しても深刻な作立ちだった。異常寒波で年が明け、それに加えての豪雪の余波は太平洋側にも及び、さらに融雪の遅れに重ねて寒い春、育苗は大幅に遅れた。作業の混乱のなかでようやくすませた田植えの後も異常低温はつづく。

 そんななかで気象庁は、五月に冷夏予報を出した。冷たい気流を吹きつけるオホーツク海高気圧が例年になく頻繁に現われ、寒流が異常に南下し近海域は低水温となり、北日本は再び「冷たい夏」になるという。

 田植えの遅れと活着不良の影響は六月にはいってもなおつづき、凶作の不安は消えない。それが、七月、八月の好天で一気に回復し豊作となった。

 あの生育前半の辛かった気持ちを考えると、ほんとうにうれしい出来秋だったと思う。そして天候の力の大きさを実感させられた年でもあった。

 昔から七、八月の天候のよい年はコメはとれるといわれている。去年はその通りになったが、はたして言い伝えのような結果であったのかどうか。作立ちの出遅れに加えて初期の生育不良は、全国的だったというのに、結果の収量は史上最高という。つまり、生育全般を通して絶好調の天候でなかったのにもかかわらず大豊作というところに疑問を感じないわけにはいかない。「春先は異常天候にはじまったが、これまた異常好天に恵まれて」などと好天も異常だったといわれるように、戦後一級、三〇年に一度という異常つづきの気象だったのである。暖地の降雪量は明治四十年以来、春の寒波による遅れも最晩記録を更新し、さらに夏の猛暑は過去最高、台風上陸ゼロなど記録ずくめ。この異変にくらべれば、過去四年の異常さは小さく感じられるのだが、にもかかわらず収量差が大幅に開いたのはなぜか。

 去年は、農家も指導機関も例年にない熱気で取り組んだ年、基本技術の徹底が好天に支えられて成果を上げたのも確かだ。しかし、生育前半のあの状態をみて、かりに天候が回復したとしても全国的な規模でこれほどの成果を上げられるとは誰も予想できなかった。前半好調、後半も好調だったにもかかわらず見かけ倒しに終わった五十八年のイナ作を思うと、後半の異常好天もまた安心材料ではなかったはずだ。

 おそらく大方の農家は、適切な管理によって得られた結果でないことを感じておられると思う。あれよあれよと思っているうちに終わった一年、ずっしりとした増収の手応えの裏で一抹の不安を抱かれたのではないか。天候にゆさぶられる確信のもてないイナ作、五十九年の大豊作は万が一の偶然の要素に救われた結果のように思う。

これまでの豊作年とちがう去年の気象

 豊作・不作といっても全国一律という例は少ない。個々の地域や農家に立ち入ってみれば、それぞれちがう。近年の例でみても五十五年は作況指数が八七で不作の年だったが、東北では太平洋側の凶作に対して、日本海側では指数一〇五の良作地域がある。指数九六の五十六年では東日本と西日本では大きな落差があった。

 詳しくみれば、山間部と平坦部、個々の農家によってもちがう。天候と作柄とは本来そういうものなのだが、去年の豊作は、全国一律だったというところに特徴がある。

 農水省発表によれば、全国平均作況指数が一〇八、反収でみると五一七kgとなっている。

 県単位でみても、わるいところで一〇二、環境条件のよくない北海道で一一四ということで北から南までおしなべで平年作をこえている。しかも各県で史上最高を記録したところが三五県で、七四%にも達したのもめずらしい。それにここ数年不作つづきの青森県が全国一位の六二一kgを出したのも注目したい。

 さらに地域に入って聞いてみても、例年低温気象で停滞ぎみだった山間地が大幅に上昇していて、立地条件に関係なく増収している点も特徴とみることができる。では、このような恵みを与えてくれた天候のほうはどのようなものであったか。

 ここ数年の天候の特徴を、宮城農試の資料をお借りしてみると四九ページの図のようであった。この図は宮城県での豊作の年と不作の年とを区分したもので、全国に共通するものではないが、天候タイプと作柄との関係を比較しながらみてみると、実にいろいろなことが読みとれる。

 白い山が、平年に比べて気温が高いことを示し、黒い谷間が低いことを示したものだ。作柄を考える場合、日照量や降雨量も重要な要素ではあるが、温度だけでも作柄との関係が読みとれる。それほどに天候に左右されやすいイネつくりになっている。

 さて、この図を眺めながら、その年々のイネの生育経過を思いおこしてみよう。原因と結果がどのように結びつくだろうか。まず不作年をみると、どの年をとっても黒い谷間の部分が多く、低温が生育に影響し減収の要因になっていることがわかる。五十五年は最も重要な幼穂分化から減数分裂期にかけての低温・日照不足が原因といった考察になるし、五十六年は五、六月の低温が初期の分けつ発生を抑えて、穂数不足による減収であった……といった具合に解釈され、それはそれで納得がいく。

 では、豊作年をみるとどうなるか。豊作年は、いずれの時期も平年より気温は高く日照量も多い年。過去の例では、五十、五十三、五十四年ということで、確かに好天という実感がわいてくる。それに比べて五十九年はどうみたらよいのだろうか。六月までの前半の黒々と描かれた気温の谷間、これはどうみても豊作タイプにはみえない。むしろ右側の不作年に置きかえて「この年は生育前半の異常低温が原因で、茎数は不足し、さらに加えて八月の異常高温は稲体を消耗させ登熟不良をおこし、それらが原因で不作となった」そんな考察がついてもおかしくないようなタイプの天候であった。いずれにしても、他の豊作年とは著しくちがった気象パターンであったことは確かだ。

五十八年と五十九年、夏の好天は同じなのに収量はまるでちがう、なぜ

 好調だった七、八月の高温多照、その後の秋の天気を増収の原因に上げるのは容易だ。しかし夏の猛暑は五十八年よりはるかに高く長かったのに、「稲体の消耗による高温障害」もなく経過している。そこのところを問題にしないで、結果がよかったからといって異常高温を「好天」にしてしまい、増収の決定的な要因にするのは大いに疑問だ。そのことは「見かけの豊作・中身の不作」だった五十八年と比較してみればよくわかる。

 両年の天候を図の天候のタイプで比較してみると、前年の天候がわるく後半好天という点では全体の中では最もよく似ている。とくに重要だといわれる八月も五十八年は豊作年に比べても見劣りしないほどなのに、五十九年は豊作、五十八年は不作。ここのところをどうみるかによって去年の成果がはっきりみえてくる。

 五十八年は「見かけの豊作」といわれたように、短稈多けつでしかも後期は好天の増収タイプのイナ型になったにもかかわらず、後半のスタミナ切れが原因で弱小茎はクズ穂となり登熟不良で「中身の不作」に終わった。つまり、前半の生育がすすみすぎ、茎数過多になると、後半どんなによい天候でも回復できない。そればかりか、スタミナのないイネにとっては温度の上昇はかえってマイナスになる。生育中期の気温は五十九年より低かったのに「高温障害が原因して登熟不良を招いた」と不作の原因に上げているが、それでは五十九年はどう説明がつくのか。

 むしろ五十八年の問題点は四、五月のスタート時点の好天条件にある。好天で滑り出しが順調のところにさらに積極的な生育促進管理が重なって生育は地上部優先、途中の低温期も勢いで乗りきり、茎数過多のまま中期に滑り込んでしまった。しかも生育転換期にデンプン蓄積を促すような好天がワンテンポずれたのも不運。根づくりの態勢ができないままに中期を経過し弱小分けつの多発を招いて減収。これが五十八年の特徴であった。

「絶妙な天候の操作」がもたらした五十九年の生育

 それに対し五十九年はどうだったのか。

 「結果よければすべてよし」というのであれば、図にみられる前半の黒々とみえる谷間(低温)を不良条件とするわけにはいかない。田植えの遅れ、初期生育の停滞をみて凶作の予兆とみたのは人間の心理のほうであって、イネにとっては天候に見合った順調なスタートだったとみることもできる。これは五十八年とは対照的なスタートであった。

 六月中旬頃までは短稈少けつで経過したものが、その後の天候の回復により草丈が伸びはじめるのだが、中期を迎えるこの間の生育も幸いしている。初期はゆるやかに態勢をととのえ、そして伸びのびと生育する過程にはいり、イネ自身の力に応じた分けつの発生。その結果長稈少けつの太茎コースのスタイルで中期を迎えることになった。その背景には冷夏予想でチッソをひかえた点も作用している。

 さらに幸運だったのは、生育転換期から以降の好天である。初期ゆったりの生育は、土壌チッソの消耗が少なく、中・後期にかけて発現してくる。葉色の経過も五十八年とは対照的に濃い目の色が持続した。この持ち越しが例年なら過繁茂徒長に作用し、調整に苦労するのだが、生育転換がスムーズにいって、弱小分けつは斬り落とされた。この切り替わりのよさが、昨年度最大の特徴点といってよい。

 成り行きとしては、遅発分けつの発生による長稈多けつの最悪の状態が心配されたが、スパッと変身させてしまったこの“天の絶妙な操作”はみごとであった。この天候とイネとのみごとな関係は、これからの技術を考えるうえでのポイントではないかと思う。

 さらに後半の生育の促進は驚きであった。幼穂分化で五日、出穂期で七日、玄米の太りが七日も早く、出穂の前進と合わせると平年比二週間も促進したという例もある。猛暑が一〇日もつづけば稈疲れをおこすのだが、高温障害もなく、好天をみごとに生かしきったスタミナはどこからきたのか。この点も忘れてならないポイントの一つだ。

 いずれにしても昨年のイナ作をみると、イネの生育にとって節目になる部分で、その都度天候が有利なほうに作用しイネを変身させてきたと思う。

 いつもの年なら生育中期の調整技術で勝負が決まるのだが、人為の無力さを感じさせられた年となった。

 そして、収量構成要素に現われた結果は、穂数は少なめ、一穂の粒数は例年になく多く、しかも登熟歩合は抜群によかった。このような少穂数・大穂の姿は、現代の技術では安定イナ作のタイプではないとされている。この通説も再検討が必要のようだ。

 また品種の面では東北地方で広がりをみせている穂重型のアキヒカリが、他の穂数型品種に比べてきわだって増収率が高かった例もある。

いまの技術では万に一の偶然

 去年の気象変動の異常さに比べれば、これまでの四年続きの不作年の天候は、一部冷害地を除けばむしろ平常だとみたほうがよい。不作はむしろ、あまりにも人為的な調整技術が天候に耐えられないイネにしていることが原因だ。

 現代の調整技術は早期茎数確保の穂数主義。前半の生育促進に力を入れ、確保された茎数を後半の根づくりで稔らせようとする。そして、このような発想から導き出された「理想の生育コース」がしっかりと前提にすえられている。これでは、気象変動の許容幅は狭くなるばかりだ。しかも、この狭い軌道をはずすような天候はすべて異常な気象ということにしてしまう。

 その典型例が五十八年。姿・形だけからみれば豊作タイプの生育だったのに、後半の好天を生かせない。これは「穂数主義=前半促進型」のイネつくりの限界を示している。重要なのは「理想の生育コース」という狭い軌道を描くのではなくて、イネ自身の「活力」に眼を向けることだ。

 気温が低ければ低いなりに、高ければ高いなりに対応し健全さを維持していくのはイネ自身なのである。そのような対応自在なゆとりをもたせながら、目標に向けて助力する。それが全天候型イネつくりの基本だ。

 五十九年の生育タイプは、調整技術の「理想の生育コース」とはちがった「前半ゆっくり=穂重型」となった。これは、スタート時点のわずか一カ月、天候が強制的に生育を抑制してくれた結果、活力本位の態勢ができたのである。つまり、五十九年は初手から天候が人為的調整技術を無力化しリードした年であり、その後の活力優先の態勢をつくり出した。後半の活力向上を決定的にした土台は中期の生育転換期の態勢だが、これも「長稈少けつ」で通説通りの「理想コース」ではなかった。頭に描いていた姿に調整できなかったほどに天候の力が強く作用したのだ。

 現代指導されている稲作の中心をなす調整技術、人為的操作を無用なものにしてしまった天候、その結果の大豊作。これは万に一つの偶然とみなければならない。と同時に、どんな天候にも耐えるイネつくりとはなにかが自ずと明らかになる。

 ◇

 このところの天候の変動は激しい。年によって全く逆なタイプがやってくる。だから、今年、天候をあてにしてイナ作を考えるわけにはいかない。

 まして、去年のような、今のイナ作のひ弱な調節技術を根こそぎひっくり返してくれるような天候は、ゆめゆめ期待できるものではない。だから、いかなる天候のもとでも、イネの生育と収量が安定するイネつくりに切りかえなければならない。その方向性を、五十九年のイネの育ち方が教えてくれている。

 今のコメ事情は、作況一〇八でも端境期には不足するという危険な状態だ。わずか一年の、しかも全く偶然の豊作で不足基調が簡単に変わるものではない。どんな天候にも耐える技術、全天候型安定イナ作を確立しない限り、コメ輸入の危機は再びやってくる。

 米の輸入問題は、需給がギリギリのところから発生することは去年の例で明らかになった。米をたくさん作ること、穫ることが輸入を阻止する最大の抵抗なのだ。

(農文協論説委員会)

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