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農文協トップ主張 1985年06月

ヤミ米事件はコメ輸入への地ならしだ
食糧自給のための食管論議を

目次

◆なぜ今ヤミ摘発か
◆ヤミがあるから食管廃止か?
◆食管変質、コメ輸入への地ならしはこうしておこなわれた◎コメ不足をつくる◎輸入を前提にした「需給計画」◎管理はしない◎米価を下げる
◆アメリカのセールスマンと化した大新聞
◆今守るべきは食糧自給の砦としての食管だ
◆他用途米を拒否することがコメの自給を守る道

なぜ今ヤミ摘発か

 周知のとおり三月七日、ヤミ米大量売買事件が大々的に報道された。山形県食糧株式会社と株式会社矢萩商店という二つの特定米穀(クズ米)業者が、不正規米(ヤミ米)を大量に売買していた、というものだ。

 かねてからこの事件の“内偵”をすすめていた「朝日新聞」は、他紙に先んじた勝利感も手伝ってか、まるで社会的大犯罪人を仕留めたとばかりの書きっぷりで、一面トップに得々と報じた。

 だが、今なぜヤミ摘発なのか。それは、天下の公器が一面トップで報じなければならないような社会的大不正義の発覚なのか。この業者のヤミによって国民の誰が困っていたというのか。

 *

 こんにちヤミが横行しているのは、まず第一にコメが不足しているからだ。政府・農水省は、四年つづきの不作のなかでも、ガンとして単年度需給均衡方式を改めなかった。去年は豊作とはいえ、すでに一〇〇万tもの早食いがおこなわれている。今年また、遅れている集荷実績を回復し、去年並みの大豊作を期待しなければつじつまがあわなくなると予測される厳しい需給操作(一一二ページ参照)。このようなギリギリの需給操作をおこなっているところに、実需と供給の間に穴があき、さまざまなヤミルートが必然的にできてくるのである。

 もともとヤミとは、モノが不足しているときに多くおこる現象だ。コメが不足しているからヤミがおこなわれているのであって、ヤミがあるからコメ不足になっているのではない。日本の国民は今、コメ不足によって主食の不安にさらされているのであって、ヤミ業者がまかりとおるから主食の不安にさらされているのではないのである。

 それどころではない。綱渡り的な需給計画と、そのワクを前提にした、細分化された種類・用途別供給計画のもとでは、計画と実需に絶えず過不足が生じる。だからヤミや横流しがあって初めて、不足させられているコメの流通が補われ、多少なりとも需給の緊張が緩和されているのである。自然を相手の農産物を、工場の製品と同じように種類・用途別にきっちり生産させようとすることがそもそもまちがいなのであり、ヤミは、そのまちがいから派生する混乱を流通現場で正す役割を果たしているといってもよいのだ。

 こうして、コメ不足の中で、事実上需給の調節弁となっている「ヤミ」行為が、なぜ取り締まられなければならないのか。なぜ社会的大犯罪人のように報道されなければならないのか。

 食糧庁はヤミを摘発するより、これら「ヤミ行為」にヤミででも感謝状を出すべきところではないのか。新聞は、ヤミを糾弾する世論をつくる前にコメ不足を糾弾する世論をつくるべきではないのか。糾弾さるべきは、ヤミという小さな「食管法違反」ではなく、コメを輸入にあおぐ大きな「食管法違反」なのだ。

ヤミがあるから食管廃止か?

 だが、それにしてもヤミというのは正常な姿ではない。一国の主食の流通が、ヤミがなければ成り立たないとは何ともこころもとない。ヤミという「食管法違反」に支えられた食管制度とは、いま何であるのか。

 昭和四十五年以来、農家は「食管を守るため」という「大義」のために減反に協力させられ、自主流通米で産地間競争のるつぼにおかれ、他用途米という買いたたきに協力させられてきた。代々受け継いできた田を荒らされ、つくり親しんできた品種を手放すことを余儀なくされ、輸入されてもなお半値の米をつくれという不義の政治に不承不承協力してきたのも、食管を守るためという大義のためだった。その食管が、いま「朝日」など大マスコミによって日本の食糧問題のガンであるかのごとく、攻撃の的にさらされている。

 今、農家にとって食管を守るとはどういうことなのか。

 ヤミ米売買事件を大々的に報じたあと、「朝日」は次のような食管廃止キャンペーンを展開する。

 現在のコメ流通はヤミ米なしには成り立たないが、これは、とりも直さず食管体制と現実の乖離《かいり》を示すものにほかならない。そしてその乖離のもとで、様々な不正がおこなわれている。卸と小売の二重帳簿をつくっての恒常的過剰購入・横流し、格上げ混米と銘柄米のヤミ流し、消費者に売る場合の表示のごまかし、値段と中身のズレ……。こうして空洞化した食管は、業者や役人の利権とゆ着の温床と化した食管であり、今や農業を守る食管ではなく、食管によって生きている連中のための食管だ。こういう食管は今も本当に必要なのかどうか。

 (「朝日」85・4・2)

 *

 「朝日」の右の主張は、食管体制と現実の乖離、そこから出てくる様々な矛盾、「不正」をそれなりに指摘していることは確かである。だが問題は、なぜそのような乖離が生じてきたのか、一国の主食の流通が「不正」がおこなわれなければとどこおるような状況になぜなったのか、なのである。そこを追求しないで、食管と現実は乖離した、様々な不正がまかり通っている、だから食管は廃止すべきだというのは、いささか近視眼的にすぎはしないか?

 食管と現実が乖離してきたのは、そう乖離するように国が仕向け、食糧政策と食管をゆがめ変質させてきた歴史があるからに他ならない。

食管変質、コメ輸入への地ならしはこうしておこなわれた

 近視眼的な「朝日」などには思いもよらぬだろうが、「食管体制」がこんにちのように現実と乖離し空洞化してきたのは、遠く昭和四十四年の自主流通米制度の発足や、その直後からの減反開始にまでさかのぼる。が、今はそこまでは問うまい。しかし、せめて、その後の事態の推移を法的に認めた「昭和五十六年改訂食管」(とくにその需給計画の面)に、こんにちの混乱の源をさぐってみるぐらいの研究心はもってもらいたいのである。「改訂食管法」は、現行の(つまり旧)食管法は、コメの絶対的不足期に対応するよう仕組まれているもので、こんにちの如き過剰期に適した仕組みが盛り込まれていない、との立法趣旨のもとにつくられた(食糧庁「食管法改正の趣旨及び内容について」一九八一年二月)。

 一国の主食の憲法ともいうべき食管法が、こともあろうにコメ退治を主眼にして仕組み直されたのだ。この改訂は、コメの輸入に道を開く改訂だ。なぜならば、改訂食管の需給計画は、次の四つの点で重大な変質がはかられているからだ。

 第一に、政府が、毎年需給計画を策定するということにかかわる点、

 第二に、その計画のための米穀需給の見通しの根拠にかかわる点、

 第三に、そうした需給計画のもとで、政府が管理すべき米穀の数量を決めるという点、

 第四に、その数量を品質別・流通態様別に定めるという点。

●コメ不足をつくる

 第一に、「政府が、毎年需給計画を策定する」ということは、昭和五十五年から採用してきた単年度需給均衡方式を、単なる行政運用上の措置から、正式に食管法の中にすべり込ませたことを意味する。単年度ごとに均衡をとるとは、コメを不足状況に追い込むことだ。ちょうどよくだけつくろうとするから足りなくなる。農産物とはそういうものだからである。こうして食管は、国民の主食を安定的に確保する食管から、不足を演ずる食管へと大改悪がなされてしまった。

●輸入を前提にした「需給計画」

 第二の、需給見通しの根拠とは、右の単年度需給均衡方式を採るというばあいのその需給の見通しを、どういう根拠に基づいて策定するかにかかわる問題だ。過剰時に対応するという立法趣旨にみられるように、この改訂食管の需給計画は、遠く一九五四年のMSA小麦に始まる大量のアメリカ小麦の輸入と、学校給食法などによるパン食・粉食への国民し好の切り替えという、政策的に誘導され減らされてきたコメ需要を前提として策定される代物だ。

 コメが過剰になったと主張するなら、その原因である大量の小麦輸入を削減するのがほんらい採るべき方策なのに、それにはほおかむりして食糧の外国依存、輸入を前提にした食管に変えてしまったのだ。

●管理はしない

 このことは、第三の「政府が管理すべき米穀の数量」ともからんで、減反や限度数量を食管法の名において、事実上合法化するものとしてしまったことをも意味する。限度数量を合法化するということは、とりも直さず政府のコメの管理責任を縮小していくということにほかならない。全面管理の食管から部分管理の食管へ。これが第三の改悪だ。

●米価を下げる

 第四の改悪は、米価抑制→値下げの食管に変えてしまったことである。コメ減らしを基調にすえたもとで「品質別・流通態様別需給計画を立てる」ということは、減反配分の県別地域別アンバランスを強権的におこない、類別・等級別の格差・差別とその地域的遍重を助長し、よりいっそうの産地間・生産性競争を農家に強《し》いてコメを買いたたく手段にするということだ。農家を守る食管から米価抑制→値下げの食管へと改悪してしまったのだ。

 そしてじつは、この「品質別需給計画」を立てるということが、流通現場の混乱のもとともなっているのである。コメはしょせん自然の産物だ。農家は三等米をつくろうとして三等米をつくっているのではない。市場原理に押しつけられた類別米を好きこのんでつくっているわけでもない。“品質別”とは、計画してつくれるものではしょせんないのである。にもかかわらずそれをおこなう。しかも全体として不足状態にしておいて――ここに卸や小売の過剰購入、横流し、格上げ混米など、さまざまなヤミや「不正」がおこなわれざるをえない背景があるのである。

アメリカのセールスマンと化した大新聞

 「朝日」が攻撃してやまない“食管体制と現実の乖離”とは、大要このようにしてつくられたものだ。

 それは、「国民食糧の安定的確保」という食管から、「赤字」減らしのためのコメ退治と、そのもとでの産地間競争、農家間の生産性向上競争をあおる食管に変質させられてきた歴史にほかならない。いいかえれば、いま食管は、主食の自給を守る食管から、「国際価格並みのコメに早く近づけ――近づけなければ輸入」という主食自給放棄の食管に大きくゆがめられつつあるのである。

 「改訂食管法」の四つのポイント、(1)コメ不足をつくり、(2)麦の輸入をそのまま放置し、(3)政府管理を縮小してゆき、(4)米価を下げる、という四つの手口。このどれをとってもコメ輸入に花道をつくってやるものでしかないことは、誰の目にも明らかではないか。

 かかる本質を見抜けない「ヤミ米事件」の報道なるものは、要するに食管を壊し、コメ輸入に道を開くことに真のネライがあるといってよい。論より証拠、「朝日」記者のある集会での次の発言をみるがよい。

 「日米の貿易摩擦は、アメリカの四〇〇億ドルもの対日赤字となっている。この巨額な赤字圧力は、今レーガンがすすめている大規模な農業補助金廃止政策とも相まって、一層の市場開放を迫るものとなるだろう。コメの自由化論議は必至の情勢だ。その時、日本の食管制度は世界的批判を浴びるだろう」(「朝日」論説委員長谷川煕氏。「商経アドバイス」85・3・28)

 「朝日」はいつからアメリカのセールスマンになったのか。国民一人ひとり一〇〇ドルずつカリフォルニア米を買えとでもいうのか。

今守るべきは食糧自給の砦としての食管だ

 いま食管は、主食の自給を守る精神を根本のところで放棄する政治によって需給調節機能すら失わされ、そのことをまた攻撃されることによって輸入自由化に道を開く改廃論の嵐の中に投げ込まれている。だから問題は、需給調節を守る食管でもなければ、流通を正常にするための食管でもない。ましてや「過剰」をなくすために減反や他用途米に協力して守る「食管」などではない。一国の主食の自給を守るか否か、さらにいえば麦や豆も含めた日本の食糧自給を高めるための食管をどうつくり守るのか、その観点からみていくのでなければならないのである。

 一般に食管は、生産者から高く消費者には安くという、いわゆる二重米価制に本領があると考えられているが、こんにちの情勢ではそれは必ずしも本質ではない。逆ザヤが大幅に圧縮され、かつ国際価格との比較のもとで輸入圧力がかつてなく強まっている今日の情勢では、輸入を阻止し、コメの自給を守る砦としての食管にその本領を発揮させるべきなのだ。

 一国の主食というものを、国際的な市場原理の「自由」に任せることは、その国の主食と農業を壊滅に追いやることだ。そうであってはならないからこそ、コメは国家貿易管理品目に指定されてきたし、今後もされ続ける必要がある。そして、そのためにカネをかけるのは、当たり前のことだし、輸入を支持しない国民が八割を超えるという世論調査(NHK)にみられるように、すでに国民的コンセンサスが得られているといってよいのだ。

 このことはまた、莫大な国家投資をして穀物自給率の回復をはかったイギリスや、主食、その他の主要な農産物を保護するために手厚い関税政策などをとっているEC諸国の例をあげるまでもないだろう。

 食管はコメの自給を守る砦でなければならない。

 農協は、食管堅持論のチャンピオンだが、かかる高い立場からの食管論を展開しているか。遺憾ながら農協は、こと食管問題については、昭和四十年代の第一次減反以来、政府の食管崩し=コメの自給崩しに結果として協力してきた共犯者である。輸入がなされてもなお、半値、三分の一値のコメつくりを農家に押しつけている現状を、農協中央はなんと説明するのか。

 かかる醜態の陰に、今後輸入されるときは全農を指定業者にするから心配するなと“保証”されたというまことしやかなウワサまで流されていることに注意しなければならぬ。このような既得健保守の食管堅持論は、大マスコミからエゴと断罪され、結果として食管の本来的任務=食糧自給を投げ捨てる悪政治に加担するだけだということに思い到らねばならない。

 過剰対策に協力し、コメ不足をもたらすことに協力していて“コメは全量農協に”などと叫んでも、それはヨソモノ排除の発想でしかないと受けとられて当然なのである。農協は国の食糧を自給するという高い立場からの食管堅持論を展開するべきだ。

他用途米を拒否することがコメの自給を守る道

 いま食管は、加工用米「不足」→他用途米制をテコに国際価格に連動した「食管」に変質させられようとしている。農協はこれに協力するのでなく、加工用米が、かつては食管の中に組み込まれ、国の財政負担によってまかなわれていたことを政府に復活させる要求をつきつけるべきである。

 三〇万tのコメを政府が一万九〇〇〇円で買い、五八〇〇円で売り渡しても、その財政負担は六六〇億円、国民一人当たり月四六円にすぎない。これは、今年の政府予算で八一〇〇億円から六九〇〇億円に一五%も減らされた食糧管理費の半分強を復活させるだけですむ額だ。加工用米の実勢価格一万二〇〇〇円で売り渡せば、さらにその半額の三五〇億円ですむ。前年比二〇〇〇億円以上も増額された防衛費に比べ、これはまた何とささやかな復活要求ではないか。

 問題は、そのような当面する政府支出の額だけの問題ではない。食味を問わない超多収の“他用途米品種”でも開発されたのならともかく、同じ手間と生産費をかけて農家がつくっているコメであるにもかかわらず、これは主食米だがこれは加工用米だからということで、半値や三分の一値の価格差を認めるということは、用途によっては生産費を割るコメがあってもそれを承諾しますということになる。また、それを認めることは、そういう値段でも農家はやっていけるのだという宣伝に格好の材料を与えることになりかねない。

 政府にカネを出させる出させないだけの経済闘争の次元の問題ではない。コメの自給をめぐるたたかいなのだ。

 輸入=国際価格に連動した他用途米価格を認めることは、かつての麦がそうであったように、日本人の主食のコメまでが安楽死を強いられることに同意のサインを出すことだ。

 まさに今、加工用米・他用途米問題に正しく対処していくかどうかが、コメの自給を守るか否かのたたかいの、当面する環なのである。

 いま必要なことは、このようなコメの安楽死を意図する加工用米=他用途米政策の撤廃を求めること、そしてそれを実質化させるために、加工用米不足という口実を与えるコメ不足状況を根本から打ち破っていくコメの増産、せめて減反の一〇〇%達成割れを達成することだ。

 輸入圧力がいくら強くても、国内にコメが余るくらいあるとき、輸入はおこなわれない。反対に、輸入反対とネジリハチマキで叫んでも、コメをつくらぬかぎり輸入はなされる。

 コメをつくらぬことが食管を守る道ではない。コメ不足をつくる政治に協力することが食管を崩し、自給を崩す。自給を支持する国民世論に依拠し、今年は思い切ってコメの増産に取り組もう。

(農文協論説委員会)

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