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農文協トップ主張 1985年09月

「核兵器廃絶」運動で平和が守れるか

目次

◆「核兵器廃絶」運動の高まりのなかで◎絶えることのない普通兵器による戦争◎「核戦争」に反対するだけでは第三世界に平和はこない◎普通兵器をどんどん売り込む「死の商人」アメリカとソ連
◆兵器の輸出を禁止するのが世界平和にとって最大の課題◎軍事支出が少なかったことが日本経済繁栄の根本理由◎軍事支出の削減を矛盾なく主張できるのは日本だけ◎ここへきて経済軍事化へ走りだした日本◎兵器の輸出禁止の世論つくりは容易ならざる課題
◆戦争によって飢えはもたらされている
◆人類の未来をきりひらく運動として核兵器の廃絶を

 八月六日、ヒロシマに原爆がおとされ、一四万人が殺された。八月九日、ナガサキに原爆がおとされて七万人が殺された。そして、八月十五日、日本は降伏した。戦死者三一〇万人。ちょうど四〇年前のことである。この号があなたのお手許に届いた日から、ちょうど四〇年前のことである。

 お盆の墓参り。来る年も来る年も、戦争で失った父と兄の冥福を祈るために墓参りに行く。あなたと同じように。戦争がもう少し長びいていれば、私も死んでいたに違いない。お墓への行きかえりに、いつも戦争について考える。それは戦時に生き、かつ死ななかった者の宿命である。

 今月号は敗戦四〇周年にちなんで、四〇年前の八月十五日を再現させる特集を組んだ。本欄では、昔の戦争についてではなく、今の戦争について考えてみたい。

「核兵器廃絶」運動の高まりのなかで

 今年は久々に「核兵器廃絶」の運動が高まっている。今から三五年前、昭和二十五年にも「原水爆禁止」の運動が高まった。「原水爆の禁止」の署名運動(ストックホルム・アピール署名運動)である。それと全く同じ「原水爆禁止」の署名運動(ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名運動)が全世界にひろがっている。

「核実験を停止」する運動や「核兵器を積んだ軍艦を拒否」する運動や「核兵器の配備に反対」する運動、非核都市宣言、非核地帯の設定等々、反核の運動はいろいろあった。しかし、不思議なことに「原水爆」を廃絶する運動は久しくなかったのである。全く久方ぶりに「核兵器廃絶」の運動が高まっている。

 ところが、三五年前に、極めて積極的に「原水爆禁止」の署名運動(ストックホルム・アピール署名運動)に参加した私は、「核兵器廃絶」の署名運動(ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名運動)の高まりを必ずしも、単純に喜べない。むしろ、「いやな予感」さえするのである。

絶えることのない普通兵器による戦争

 昭和二十五年、「原水爆禁止署名運動(ストックホルム・アピール署名運動)は全世界で五億人もの署名を集めた。だが、この「原水爆禁止」の署名運動=平和運動の高まりの中で、あの朝鮮戦争は始まったのである。原水爆禁止の署名運動は、朝鮮での核戦争を防いだのかもしれない。だが、朝鮮での戦争を防ぐことはできなかった。「核なし」で戦争ができるように、原水爆禁止運動はしくまれたのではなかったか。疑い深い私は、その疑念をずっと持ちつづけてきた。

 核兵器は使われなかった。しかし、朝鮮の地で、延々と、アメリカの普通兵器とソ連の普通兵器によって戦争は続けられた。そして、その後三五年、一日としてこの地球に戦争の絶えた日はなかった。

 そして、すべての戦争は朝鮮と同じパターンで戦われてきた。「核兵器ぬき」、アメリカの普通兵器とソ連の普通兵器で戦争が行なわれてきた。場所もきまって第三世界である。国内の内紛の一方の側をアメリカが、そして他方の側をソ連が支持して、アメリカ製の普通兵器とソ連製の普通兵器で延々と戦争が続けられてきたし、続けられているのである。

 核兵器が抑止されているので、「安心」してアメリカ製の兵器とソ連製の兵器で戦争が続けられているのではないか。そして、アメリカとソ連は「お互いの核兵器を抑止するため」に、厖大な税金を湯水の如くにつかって核兵器の生産と貯蔵に励んできたのではないか。今や世界の原水爆は五万発。全人類を何回も皆殺しにするのに充分な量である。だから、お互いに原水爆は使えない。

 この「原水爆の抑止」の上に、第三世界での紛争を、ソ連製兵器とアメリカ製兵器で戦わせているのではないか。ソ連もアメリカも第三世界に、自国でありあまる兵器を売ることによって儲ける。それが現代の戦争の特徴ではないか。

 核兵器を抑止して、普通兵器を売り込む、この米ソ間の「不見識」な協力関係。第三世界での戦争を継続させるための米ソ間のこの関係。この協力関係をなくすことこそが本当に平和を守る運動ではないのか。

「核の平和」は、先進国に「平和」を保証するだろう。しかし、その陰で、第三世界で普通兵器による戦争を拡大する。私の「いやな予感」というのはその点である。かつて「原水爆禁止」運動の高まりの中で、朝鮮戦争が準備された。今「核兵器廃絶」運動の高まりの中で第三世界の戦争の激化がたくらまれているのではないか。

「核戦争」に反対するだけでは第三世界に平和はこない

 原水爆禁止運動が、戦争に反対する崇高な運動であるならば(そうであるはずだ)、なぜ今おきている戦争をやめさせる運動をしないで、「核戦争」だけに反対するのか。「核」があるから戦争が起こるのではない。戦争があるから「核」はつくられるのだ。今、現に戦われている戦争を止めることができなくて、「核戦争」だけを禁止するするというのは、普通兵器によって戦われている、今ある戦争の挑発者を免罪することにならないか。

 かつて、「核実験反対」の国際的世論の高まりの中で「部分的核実験停止」の条約は結ばれた。「大気圏の核実験」は禁止されたが、「地下核実験」は免罪された。「地下核実験」は非難の対象からはずされてしまったのである。第五福竜丸事件で高まった「核実験の禁止」の運動は消滅してしまった。部分的核実験停止条約で免罪されることによって、数限りない地下核実験はつづけられ、原水爆の性能が高められた。そして、高性能化された原水爆は、大量に貯蔵された。どんなに原水爆禁止の署名運動が広がり、仮に原水爆使用禁止の国際条約が結ばれようとも、第三世界に平和はこない。そして今、戦争の危機は第三世界にある。

普通兵器をどんどん売り込む“死の商人”アメリカとソ連

 第三世界での戦争をやめさせるうえで有効な手段は、大国の普通兵器輸出と援助をやめさせることである。その国際的世論を形成することである。悲惨な戦争は、兵器によってではなく、普通兵器によって、今日も戦われている。そして、普通兵器を輸出し、そのために援助しているのは、つねづね平和を口にするアメリカとソ連である。

 この二大国が兵器を輸出・援助しないことに同意しさえすれば、第三世界の平和はすぐにでもおとずれる。大国からの武器の供給がなければ戦争はつづけられない。紛争がつづくだけである。やがて自分たちでケリをつける。少なくとも世界平和を脅かすことはない。

 朝鮮戦争のあった昭和二十五年ころは、第三世界の軍事費が全世界の軍事費に占める比率は五%くらいであった。ところが昭和五十五年ころになると、第三世界の軍事費が全世界の軍事費に占める比重は二五%、全世界の四分の一を占めるに至っている。そして、この軍事費の大部分が、大国からの兵器購入費に充てられている。自国の全軍事費を上回る兵器を借金(借款)で買っている国も少なくない。

 第三世界に兵器を売りつけている国の筆頭はアメリカとソ連。この二大国で兵器市場の七割を占拠している。大変な市場占拠率である。つづくのがフランスで約一割。あとはイギリス、イタリア、西ドイツで合わせて一割。兵器輸出では「二強一中三弱」である。

「輝やける」経済大国日本。輸出一方で世界の評判が芳しくない日本ではあるが、兵器は輸出していない。日本が輸出で一方的に大もうけしていることは非難される。どうして、兵器の輸出で大もうけしている国々は、非難の対象にならないのだろう。口で平和を唱え、兵器を売ってもうけている、これらの国々のエゲツない商法が、どうして非難されないのだろう。日本の経済侵略などそれに比べれば、倫理的にはずっと罪は軽い。

兵器の輸出を禁止するのが世界平和にとって最大の課題

軍事支出が少なかったことが日本経済繁栄の根本理由

 日本の経済の発展の原因はいろいろある。最も肝腎な点は軍事費が少ないという点にある。日本経済は軍需産業に依存していない。日本の輸出は兵器輸出(輸入はしているが)に依存していない。兵器を外国に売ってもうけているという一国の経済にとって最も非経済的なことをやっていないというところに、日本経済繁栄の根本がある。この点こそが、四〇年前にわれわれの同胞が敗戦という代償で購った最大の遺産なのである。この軍事費に依存しない経済の再建によって今日の日本はある。

 日本の一方的輸出による大もうけを非難する前に、普通兵器の一方的輸出によって大もうけしている大国を、なぜ非難しないのか。

 日本の軍事費支出が少ないことを非難するよりも、自国の軍事費を削減することを考えたらどうか。兵器輸出でもうけている先進国の軍事費は、その国の経済を圧迫している。軍事費を減らせば、減税もできれば、民需に資本を投下することもできる。そうすれば、それらの国々の大方の経済的困難は解決することが可能だ。日本の輸出を非難する前にそれをやったらどうか(だからといって、日本の輸出政策に賛成しているわけではない。この点は七月号の主張「市場開放で経済摩擦はますますひどくなる」で、すでにわれわれの考え方は明らかにしている。誤解なきよう)。

軍事支出の削減を矛盾なく主張できるのは日本だけ

 軍需景気によって不景気が克服された。失業者がいなくなった。それは昔の話である。古い経済学は現代に通用しない。

 現代では、軍事支出がふえればふえるほど経済成長率は低くなる。GNPに占める軍事費の比率が大きくなれば、それだけ経済成長率は低下する。政府支出が軍需にまわされる分だけ民需にまわされる分が減るからである。

 昔は、軍需産業と民需産業は密接につながっていた。鉄鋼、非鉄金属、自動車、化学工業などが軍需の主力産業であったし、それらの産業は同時に民需の基幹産業でもあった。

 ところが、朝鮮戦争以降はすっかり様子が変わってしまった。朝鮮戦争までは、兵器調達といえば、戦車、軍艦、銃砲、弾薬等の調達費が、全体の七割から六割を占めていた。ところが、昨今はこれらのものは、わずかに二割くらいにすぎない。代りに、航空機、ミサイル、電子・通信施設等々の「新鋭兵器」の調達費が六割から八割を占めるにいたっているのである。

 軍需に資本と技術を注げば注ぐほど、鉄鋼、自動車、化学などの基幹重化学工業での投資が立ちおくれ、生産性が低下し、価格コストが上昇する。つまり、国際競争力が低下するのである。先進諸国と日本との国際競争力の格差は、根本的にはここから出ているのである。

 軍需を減らすマイナスよりも、プラスのほうが、どこの国でもずっと大きい。先進国はすべて、日本に見習って、軍事費をGNPの一%以内におさえる政策をとるべきなのである。そのことによって経済は活発になり、平和は大きく前進できる。防衛費を増大して国際平和に寄与するという考え方は、いかにも古くさく、かつまちがいである。反対に先進諸国に軍事費の削減を求めることが世界の平和に寄与し、かつ諸国の繁栄に道を開く。そのことを堂々と矛盾なく主張できるのは、世界広しといえども日本だけではないか。

ここへきて経済軍事化へ走りだした日本

 ところが、わが中曽根政府は、四〇年前にわれわれの同胞が敗戦という高価な代償を支払って手に入れた経済の非軍事化という最大の遺産、日本を今日の「繁栄」に導いた最大の遺産を投げ捨て、経済軍事化の方向に一歩一歩とすすんでいる。

 臨調路線で予算が編成されるようになってから、防衛費=軍事費は三〇%を超えて増えている。農業費は一〇%以上も減っているというのに。

 そればかりではない。対米武器技術供与の解禁によって、国民の知らぬ間に日本製の兵器の輸出をするのと同じことが、こっそりとやられつつあるのである。

 兵器の輸出を禁止する国際的世論を形成するうえで、リーダー・シップをとれる日本が、このリーダー・シップをとれる条件を放棄して、軍事経済にまっしぐらにすすむ。レーガン政府の弟分になるなど、まっぴらご免である。今、世界の平和に緊急に必要なことは、大国の兵器輸出の禁止である。大国の国民が、それぞれの政府に対し、「兵器輸出の禁止」を求める運動を展開することこそが、第三世界で現に戦われている戦争を止めることができる。

 第二次世界大戦の責任国にして経済大国日本は、そのことを世界にアピールする責任があるのである。

兵器の輸出禁止の世論つくりは容易ならざる課題

 兵器の輸出を禁止する国際的な世論を形成することこそが、平和にとって「死活の緊急な課題」である。といっても、これは容易ならざる課題である。

 アメリカの国防関連産業に従事する従業員は二五一万人いる。家族を含めると一〇〇〇万人の人が兵器の「景気」で生活が左右される状況なのである。

 原水爆はつくっても売るわけにはいかないが、普通兵器ならつくって売ることができる。第三世界で紛争がある限り、売りつづけることができるのである。

 民需品とは違い、軍需品は戦争がない限り消費されない。たまる一方なのである。第三世界には紛争の火種はゴマンとある。それに火をつけ、兵器を輸出もしくは援助しない限り、兵器の置き場所に困る。戦後四〇年、一日として第三世界に戦火のおさまる日がなかったのは、ここに根本的な原因がある。第三世界同士を戦わせ、兵器を輸出しないことには自国の防衛産業がもたないのである。

 そして兵器でもうけ、第三世界から資源を手に入れる。第三世界には古典的鉱産物資源、石油や銅が豊富にある。核産業に不可欠な放射性重金属ウラニウム・コバルトもある。チタニウム、シリコンなどの新金属もあれば、ダイヤモンド、金などの貴金属もある。兵器でもうけたうえで、資源を手に入れることができる。大国の平和主義などあてにできるものではない。

戦争によって飢えはもたらされている

 七四式戦車は一台四億円。F15戦闘機は一機一一五億円。一方で難民が飢餓救済の食事に行列をつくっている同じ国で高価な近代兵器が購入されている。この兵器を売り込んでいるのが大国。そして戦争によってもたらされた大量の難民を救済しているのも大国。なんともすばらしい人道主義!!

 飢えは天災によってもたらされているのではない。戦争によってもたらされているのである。そして、その戦争は大国の兵器によって戦われている。

 国連食糧農業機関が緊急食糧援助の対象としている国がアフリカに集中している。飢えに苦しんでいる国々のすべてが、政府予算に占める軍事費の比率が高い。

 たどえばエチオピア。ここでは政府支出の二五%が軍事費である。そしてこのエチオピアのGNPにしめる農業の比率は六割である。この農業国エチオピアの農業に対する政府支出の比率はわずかに三%。軍事費が二五%に対して農業費が三%である。防衛予算をふやして農業予算を削る。その結果が戦争と飢えである。

人類の未来をきりひらく運動として 核兵器の廃絶を

 ここまで考えてきて、ハタと思い当たった。中曽根もレーガンもゴルバチョフも、普通兵器の輸出禁止に賛成することはあるまい。しかし「核兵器の禁止」なら、口にもするし、国際世論が高まれば、「使用禁止協定」くらいには調印するかもしれない。もう少し「核廃絶」の世論が高まれば、製造をやめる可能性もある。何人も「核兵器の廃絶」そのものに反対はできないのであるから。そして、核兵器は輸出できない。大国にとっても全くの厄介ものなのだから。毒ガスや細菌兵器を禁止することはできたのだから、世論さえおこせば、核兵器を禁止することはできるはずだ。そう考えると、「核兵器の廃絶」は極めて現実的な運動に見えてくる。

 考えてみれば、「核兵器廃絶」の意味は巨大である。核兵器こそは、人間がつくりあげた文明の「最高の傑作」である。人間が人間自身を絶滅させ、地球を人間が住めない自然に「変革」する文明を創出したのである。それが「原水爆」である。

 考えてみれば、現代の文明は、この「原水爆」に表徴されている。食べると病いになる食物をつくり、土が死ぬほどに化学肥料をふり、医が病気をつくる医源病を生んだ。その表徴的文明が「核兵器」である。その「核兵器」を人間自身の手で破壊する。このことができるとすれば、人間は救われる。人間にとっての新しい時代の第一歩が始まる。文明の時代ではなく、おそらく文化の時代が始まる。

 戦争だけが人間を滅ぼすわけではない。昔の戦争は「国敗れても山河はあった」。今は戦争がなくても「山河は滅びる」。人間が生存する基盤、自然が破壊されているのだ。土が死につつある。それも農耕を営むことによって、土は殺されつつある。それは何も日本だけではない。アメリカもそうだし、第三世界そうだ。人間のつくった文明が、人間を殺しつつあるのだ。その表徴が「核兵器」の存在である。

「核廃絶」の運動は、自らつくった「文明」を自らの手で「廃絶」する運動である。そこにこそ意味がある。人間がつくり上げた文明を文化にまで高め、人類の未来をきりひらく運動としてとらえなおさなくてはなるまい。

「核廃絶」の運動を「核廃絶」だけの運動にとどめてはならない。人類の未来にむけて人類の統一戦線をつくらねばならぬ。平和を守ることと自然を守ることが統一されねばならぬ。

 軍事費がふえて農業費が減る。アメリカもエチオピアも日本も同じだ。世界唯一の被爆国日本は、「核兵器廃絶」運動でリーダー・シップを発揮した。「ストックホルム・アピール」ではなく「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」なのである。世界で唯一の平和憲法をもつ日本。軍縮、兵器の輸出禁止でも国際世論をリードする責任がある。

 農業を守る道と平和を守る道とは一つなのだ。その道こそが、亡き父と兄、戦争で命を失った人々の霊を慰める道なのである。

(農文協論説委員会)

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