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農文協トップ主張 1986年02月

バイオテクノロジー
生命科学を罪の科学にしないために

目次

◆限りなく水耕に近づく品種と栽培
◆根は微生物の協力を得て生きる
◆微生物との共生関係を断つ今の品種改良
◆共生関係の中で品種が育まれる
◆今のバイテクは生命力を弱体化させる
◆豊かな科学知を死蔵するな

 優良な品種の開発、そして高度な微生物利用技術。“バイオテクノロジー”は農業の将来を謳《うた》う言葉であり、新しい科学の象徴でもある。

 このバイテク=先端的生命科学は、農耕を、自然を、さらには人間を、本当に豊かにするのだろうか、今月はこの点を考えてみよう。

限りなく水耕に近づく品種と栽培

 今、水耕栽培が野菜や花を中心に新しい形で増えつつある。今から十数年前の盛り上がり、哀退に続き、水耕栽培の第二の波といわれる動きである。

 その波の震源地は、園芸国オランダだ。オランダではここ二〜三年、ロックウールという素材を培地に使った水耕栽培が倍々ゲームで増えているという。これには環境問題などで土壌消毒剤の臭化メチルの使用が禁止されるという背景があった。土つくりや輪作による病害回避も考えられるが、土壌消毒剤のような速効的な効果は期待できないし、それにかかる手間と経費を考えれば、水耕に切りかえたほうが効率的だというわけである。

 そしていま、土壌病害が深刻化している日本の施設園芸でも、この方式による水耕栽培への感心が高まっている。

 こうした状況の中で、水耕栽培用の品種の育成が進んでいる。この品種はどのような特徴をもっているか。水耕用の品種改良が最も進んでいるトマトでみると、従来の品種との一番のちがいは根の形、形態にある。一見したところ根量は多く見えるが、根毛の発達が極めて少ないのである。細根は多いがその表面の根毛は少なく、ノッペラな感じの根になる。

 根毛が少ないということは、つぎにみるように、これまでの根と土との関係に大幅な変更が加えられることを意味する。ここが重要だ。

根は微生物の協力を得て生きる

 根が土の中で発育し活動するうえで、微生物が大きな働きをしていることが、近年の微生物研究において、あざやかな形で示されるようになってきている。とくに、根の内部や根のすぐ近くにすむ微生物(根圏微生物といわれている)の行動や働きが注目されている。

 それは、こういうことだ。根は根毛などからさまざまな物質を分泌し、また、根の組織の一部を離脱させる。これらは土の微生物にとっては栄養分に富んだかっこうのエサであり、根の表面にはそれをもとめてたくさんの微生物が集まり、非根圏(根から離れたところ)の何倍もの密度で生息する。

 これらの根圏微生物も、アミノ酸、脂肪酸、ビタミンや酵素など、さまざまな物質を分泌し、それらは根に吸収されたり根に刺激を与えたりして根の活力を高めるのに一役買う。

 そのことはたとえば、つぎのような試験例からもうかがえる。微生物の分泌物が多いと土と少ない土を用意し、そこにタネをまく。幼植物のときに葉を除去して根の伸びを調べると、分泌物の少ない土では根の伸びはすぐにとまるが、多い土ではさらに二〇〜三〇cmも伸びる。微生物の分泌物は発根を促す力があるということだ。

 このように根と微生物はもちつもたれつの関係、共生の関係をとりむすんでいるのだ。

 根が分泌する物質はかなりの量にのぼると考えられている。確定的な数値ではないが、作物がつくりだす光合成生産物のうちの一〇%以上が根から土へ出されているらしい。そして、根が分泌する物質の量や種類は、作物がおかれた気象条件や土壌条件、作物や品種、生育段階でも変わってくる。

 たとえばリン酸が少ない土では、アミノ酸などの分泌量が増加するという。根が分泌量をふやすことによって、根圏微生物の繁殖が旺盛になる。それらの微生物は土の中の溶けにくいリン酸分を溶けやすい形にする力があるから、根へのリン酸の供給が高まる。根は自分のおかれた状況を感知し、微生物の協力を得て、生きぬこうとするのである。

微生物との共生関係を断つ今の品種改良

 さて、微生物の話はこのくらいにして、品種の話にもどろう。

 水耕用品種は根毛が極めて少ないということを述べた。根の表面が細かい根毛でおおわれているからこそ、根面に独自の環境がつくられ、これまで述べたような部と根圏微生物の共生が成り立っているのである。その根毛が少ないということは、微生物との共生関係を必要としないということだ。

 実際問題、必要な養水分を与え続けるという水耕栽培では、微生物の協力は必要ないであろう。その場合の根は、作物を支える土台(支持体)としての役割と、人為的に与えられる養水分を吸い上げるポンプの役割を果たしているにすぎない。作物自身が微生物の協力を得て発揮するさまざまな調節機能は、もはや必要としない。それは、さまざまな環境に対応して生きぬく作物の生命力の退化を意味するであろう。水耕はあくまで施設という人工環境を前提にしている。

 しかしこの問題は、水耕用品種に限ったことではない。今の品種改良は、水耕用品種に限りなく近づいているからである。たとえば多肥で能力を発揮するという耐肥性品種や、特定の病害に対する耐病性品種は、一般に根が粗硬である。微生物との微妙なやりとりを行なうような能力は低下してきている。だから、耐病性品種は特定の病気には強くても、一般の病害には案外弱いといったことがおこりうる。最近注目されているアブラナ科野菜のネコブ病抵抗性品種もその一例だ。ネコブ病には強くても、ふつうの病害に対しては従来の品種より弱いものが多いといわれている。微生物の協力を得て発揮される作物の自己調節機能の低下が、その背景にあるにちがいない。

 こうした品種改良の背景には、もちろん栽培そのものが水耕に近づいていることがある。

 多様される肥料や農薬、除草剤は、確実に有用な根圏微生物の活躍の場をせばまる。これらは農業などの人工物質に対する耐性が弱いものが多い。逆に土壌病原菌はしぶとく生きぬく性質が強く、これらの資材を多用すればするほど有害菌が優位にたった土になっていく。そうなれば、根の分泌物は悪い菌を増殖する結果をもたらし、共生とは逆の関係がつくり出されることになる。そうなれば、よい菌も悪い菌もふくめて、微生物の影響そのものを受けない栽培や品種を求めざるを得なくなる。かくして、品種も栽培も限りなく水耕に近づくということになるわけだ。

共生関係の中で品種が育まれる

 微生物を相手にしない、微生物の協力をあてにしないということは、一面ではたしかに効果的なことである。

 トマトを例にとると、水耕栽培では生育テンポが早く一般より収穫開始が早まり収量も高まるという実績がある。微生物との関係を断たれて、むしろのびのびと育つということであろうか。

 逆にいえば、微生物との共生をとり結びながら生きていくということは、作物にとって、一面ではわずらわしいことなのである。共生とは相手と共に生きるということであり、一方的なわがままは許されない。相手の状況の変化を待たなければならないこともあるであろう。

 しかし、その非効率性こそ、自然の安定性の原理でもある。無数の生きものがお互いに関係をとり結びつつ、ある意味では耐え忍びつつ、すみ分け生きぬく自然界が、そのことを証明している。そして、農業も、自然の安定性の原理をふまえずしては成りたたなかった。農耕という人間の働きかけは、自然の安定性に学びつつ、作物と微生物の共生関係を強化していく行為だと思う。そして育種はその一環であった。

 本誌十二月号で紹介し反響を呼んだ千葉県の田島敏明さんは、元肥を前作の収穫後に施すという。

 ダイコン収穫後の残根、残葉などとともに油粕、骨粉、米ヌカなどを施し土になじませる。はじめはカビが繁殖し、その後それをエサに放線菌などの菌が繁殖する。こうしてダイコンにとってよい微生物状態にしておいて植付けるわけだ。作物と微生物の共生をとりもつ、そこに農業技術の真髄がある。

 その田島さんが、大変興味深い実践を行なっている(二六二ページを参照)。それは最近の品種だけでなく時々古くからの在来種を作付けすることだ。ダイコンとしては連作だが、品種でみると新品種と在来種の輪作になる。それが収穫後の元肥施用とともに、三〇年連作でも安定している要因になっている。

 品種の輪作が連作障害の回避につながっているとすれば、それは品種によって微生物に与える影響がちがうことを意味する。つまり品種によって根の分泌が異なり、その結果、根圏微生物の相もちがってくる、それが新品種の連作による微生物相の単純化、片よりを緩和し、連作障害の回避につながると考えられる。

 品種によって根の分泌物や微生物に与える影響がちがい、さらに在来種でその効果が大きいということはなおいっそう興味深く、品種とは何かを考えるうえできわめて示唆的な事実である。

 品種はその品種固有の分泌物をだし、固有の微生物と共生しながら生きていく、その性格は長年その地で生きぬいてきた在来種ほど強い。在来種がその地に根づくということは、その地に自ら生きる場をつくるために、共生微生物を育てていくということなのかもしれない。あるいは逆に、その地にすむ微生物が共生する相手を求めて品種をつくり変えていくことなのかもしれない。おそらくはその相互作用、調和の中で在来種が確立されてきたのであろう。

 そう考えていくと、新品種どうしでは、たとえ品種がちがっていても、連作障害緩和の効果は少ないことが考えられる。全国一律に通用する品種とは、逆にいえば共生関係をカバーするのが、肥料、農薬というわけだ。そしてこれらはさらに作物と微生物の関係を弱める。

今のバイテクは生命力を弱体化させる

 バイテク的育種は、生命力の弱体化を招く現在の品種改良の路線を、より徹底しておし進めるにちがいない。

 ひとつは微生物との共生の中で環境を生きぬく品種の強さを奪いとる形で、そしてもうひとつはムレ(仲間)の中で強められる生命力を奪いとる形で、である。

 まず、第一の点を考えてみよう。

 作物(品種)は微生物の協力を得て、自ら生きる場をつくっていく。作物は単に環境に反応しているのではない。自ら生きる場をつくりつつ、環境をその場に受け入れ生きていく。作物は主体的に自己運動している。そのことをふまえるのでなければ、本当の育種はできないのではないか。

 品種を遺伝子という微少な単位まで分解し、それを切ったはったで入れかえたり、くっつけたりというバイテク的育種で、生命としての品種、農耕の一環としての品種ができるとは思わない。優良の遺伝子は集まったが、生きる力が弱い、ひ弱な優等生的品種がつくりだされる。

 農家的育種は、自己運動する作物の生きざま、それが時時かい間見せる形態的変化を見ぬくことによって行なわれてきた。果樹の変わり枝から新しい品種を育成する行為の中には樹を見るとすぐれた目がある。一本の樹のどの部分からでるどのような変わり技が有望かは、自己運動する樹と人間との共感の中から生まれる。

 それは育種に限らず、作物を育てるという行為そのものだ。ダイコンに間引きという技術がある。間引きの第一回目は本葉の二枚目がでて三枚目がでる前に行われる。この時期は乳児から幼児に変わる境目であり、そのころにもって生まれた個性が一番あらわれるという。それを見ぬいて間引いていくことが、品種を成立させることにもつながっている。

 不良な形質の株を間引くと同じように、育種は人間にとっての優良な遺伝子を残し、そろいをよくしていく行為である。しかし農家的育種は、一方的な押しつけを行ってきたのではない。形がよく、そろいもよくなるようにダイコンのタネとりを行なうが、それを進めていけば病気に弱くなる。そこで時々は形のあまりよくないダイコンを採種圃に入れ、品種の均一化からくる生命の弱体化を補う、これが伝統的な品種維持の方法である。

 そこには多様性に富んだ集団であるムレとのかかわりにおいて示す品種の生命力への配慮があった。先の間引きという技術は、ムレを生かす技術でもある。

 タネを多くまくことによって小さなダイコンはお互いにセリ合うように育つ、その中で一株一株の個性も浮きでてくる。はじめから一粒まきで育てると、仲間の中で刺激しあいながら育つことができないので、株はひ弱になり、その個性も表面にあわられてこない。バイテク的育種は、こうしたムレとしての強さ、ムレの中での個性の発現という視点が欠落している。それが第二の問題点である。

 組織培養という、同じ遺伝子をもったクローン作物の大量作出技術は、あくなき均一性を追求する。

 バイテク的育種は作物の生命力の土台である二つの共生関係(微生物との共生、ムレとの共生)を掘りくずすことによって、作物を大地から切り離すのである。

豊かな科学知を死蔵するな

 今、微生物と品種への感心は、農業技術のいきづまり、問題の深刻化を背景に急速に高まっている。バイテクブームがそれに寄与していることも事実である。

 育種と微生物利用の研究は、農業分野における二つの柱である。そしてわれわれも、この二つの柱での研究が進むことを多いに期待している。しかし、問題はどのような方向にむかって研究が進むかということである。バイテク的育種の研究は、これまで述べたように、作物の基本的な生命力を低下させる方向で進められているように思える。

 一方、バイテク的微生物研究は微生物がつくりだすさまざまな物質をとりだし、それを資材化する方向で研究が進んでいる。生命力が低下する作物を、これまでのような化学的手法ではなく、生物的手法でカバーしようということであろうか。その意味では、バイテク的育種研究とバイテク的微生物研究はみごとに軌を一にしている。

 そして、そこには二つの死蔵(私蔵)が生まれる。ひとつは、農家と品種との豊かな関係がたち切られ、作物を育てる目が長年かけてはぐくんできた品種が、研究の名によって死蔵されられることである。そしてもうひとつは、作物を介してくりひろげられる農家と微生物とのかかわりを断つことであり、微生物がこれも研究の名によって死蔵されることである。それは企業による品種や微生物の私蔵につながる可能性がある。

 農家がはぐくんできた農耕の土台となる技術が発展することなく、研究室内にとじこめられる。そこから生みだされる技術は、ごく一部の人工栽培の優良事例をつくることはできても、農家を豊かにすることにはならないだろう。

 今必要なことは、性急な技術化ではなく、バイテク研究において明らかになった豊富な科学知を、農民的バイオテクノロジーの再生、創造にむけて提供することだ。

 遺伝子や微生物の研究は、一方では農家が、人間が生命の豊かさに思いをはせるうえでの素材をもたらしてくれる。日本の農法を根底からくずす危険をはらんだバイテクではあるが、その使い方次第では、自然と人間のまとうなかかわり合いに科学的な光をあて、農法と人間の生き方の再生、創造にむけたひとつの力になる可能性も秘めている。せばめられた実利主義、哲学なき技術主義がその道をはばんでいるのである。

(農文協論説委員会)

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