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農文協トップ主張 1987年02月

いまの品種ブームは味覚と料理法の退歩

目次

◆外見のわかりやすさと味のわかりやすさ
◆多様な品種を食べ分ける
◆品種は食べる側の都合だけでは決まらない
◆「舌で感じる味」と「体で感じる味」
◆農家こそ本当の「グルメ」

ダイコンの“青首ブーム”にトマトの“桃太郎ブーム”、最近野菜の品種がブームになることが多くなった。こうした品種ブームの特徴は、そこで“味”が問題にされていることにある。 市場関係者はいう。

「これからは味がよいとか健康によいとかの強いプラスイメージがないと、売れないですよ。これまでの品種改良や選択は、農家の都合というか、多収性やら耐病性といったつくりやすさに重きをおいて進められてきたけれど、これからは消費者ニーズに合わせた特色のあるものでなければダメです」

“一億総グルメ時代”といわれる昨今である。「味にうるさい」消費者に「わけあり野菜」を届けることが、市場や産地の戦略になってきている。

 だが、それがほんとうに品種を豊かにし、食生活を豊かにしていくことにつながっていくだろうか。

外見のわかりやすさと味のわかりやすさ

 ダイコンの“青首ブーム”はすさまじかった。なにしろ、初夏から冬まで、そして北から南まで、「青首でなければダイコンにあらず」といわれるほど一品種が全国を覆い尽くしたのだから。

 なぜ、これほどまでのブームになったか。タネ屋と市場が仕掛けたものではあろうが、仕掛けるだけではブームにはならない。実は、ブームを支えた食べる側の事情があった。それはどのようなものであったか。

 この青首ブームを担った宮重系の改良品種「耐病総太り」は確かに「うまい」。「辛みが少なく、甘みが強くて、おろしにしても煮ものにしても子どもに好まれる味」は、当時のダイコン市場に一種の衝撃を与えた。

 その味の甘さと、「首が青い」という外観とがつながったところに、この品種の強みがあった。外見的なわかりやすさ(これがいわゆる「差別化」につながる)がなかったら、これほどまでのブームになることはなかったろう。

 外見的なわかりやすさと、甘さという味のわかりやすさが、食べる側から青首ブームを支えた。だが、そこに問題がある。

 わかりやすさが大手を振って歩くようになったのは、品種と食べ方がぶつかり合う中でつくられる複雑さがわからなくなったからである。そこに“食べる力”の衰弱を見ることができる。

多様な品種を食べ分ける

 農文協が発行を続けている「日本の食生活全集」の『岩手の食事』につぎのような一文がある。

「つぎに、時無し大根がとれる。これも、種播きの時期をずらして、秋の初めまで収穫できるようにする。おろしや煮ものにしたり、味噌汁の実、当座漬にしたりする。葉も利用し、とくに塩漬にしたものは、緑が美しい。

 ほかの大根は、秋の終わりに収穫する。用途により、方領《ほうりょう》、練馬、青頭《あおがしら》を使い分ける。方領はやわらかいもので、おろし、味噌汁の実、寒干し(凍み大根)、浅漬、がっくら漬、味噌漬などに使う。練馬はたくあん用、青頭はおろし用にする。かて飯には、これらのうち、形の悪いものを使う。大根は、主食のかて飯、副食のたくあんの原料として最も重要な野菜である。大根の葉も汁の実、漬物、干し葉として全部利用する。」

 (『岩手の食事』より)

 日本人はダイコンと古くから深いかかわりをもってきた。そのかかわりのなかで、人々はダイコンの多彩な利用法をはぐくんできた。

 練馬、方領、聖護院といった有名品種だけでなく、その地に古くから伝わる地大根も含めて、農家は多様な品種をつくり、使い分け、食べ分けてきた。それぞれの品種に応じた食べ方を工夫するだけでなく、同じ品種でも部位によって食べ方を変えるというほどの芸の細かさまであった。とくに冬大根は部位によって水気、甘み、辛みのちがいが大きい。首の部分は固いので味噌汁の実などにする、それより少し下は甘みが強くおろしや酢のものにする、さらに中間の部分は煮るとおいしく、尻の部分は辛みがあるので煮るときに濃いめの味にするとよい、といったぐあいだ(『健康食だいこん』より)。

 さらにダイコンは間引菜という形で生育途中でも利用される。それも、育つにつれて内容が変化していくから食べ方も変化していく。まずはじめはカイワレ菜で、ひたし物や汁の実に使う。まだかぼそいから、サッと煮るか、熱湯をかけるだけの料理が歯ぎれよくうまい。本葉三枚ぐらいからはつまみ菜になる。これは良質のタンパク質含量が多く薬物的効果があり、主にひたし物にして食べる。本葉五枚ごろの抜き菜は、ぼつぼつ葉先のチッソが多くなってきて、ひたし物の味がおちてくる。しかし塩もみの浅漬けは抜き菜のころからうまくなる。さらに大きくなった中抜き大根のもみ漬けの味は格別である(『旬を食べる』より)。

 こうした素材の微妙なちがいを見分け、食べ分けていく巧みさは、青首ダイコンの“うまさ”にひかれて青首ブームができるといったていの当世のグルメの世界とは全く異なる。どこがどうちがうのか。

品種は食べる側の都合だけでは決まらない

 昔のグルメつまり農家は、品種に大いにこだわり、また大いにこだわらなかった。細くて長さが一・五m以上にもなる守口大根という品種がある。掘りとるのも大変なこの大根の食べ方は、ただただ漬物にするしかない。それでも守口大根の漬物を食べたくて、多大な労力をかけるのだから、もうこれはたいへんなこだわりである。品種にこだわり、その品種特有の味にこだわる。

 だが一方で、昔のグルメはまったく品種にこだわらない。そこにはどんな品種でもうまく食べてやろうという大胆不敵さがある。それは、品種は食べる側の都合だけから決めるわけにはいかないからである。自分の畑の土質にあった品種を選ばないと栽培に苦労するし、味より量の確保を優先して栽培しなければならない事情もある。こうしてできたものを、あらゆる食べ方を駆使して食べるのである。

 つくることと食べることとは不可分一体のものである。野菜は食べるためにつくるのだが、きちんとできなければ食べられないから、一方的に、食べる事情をつくる事情に押しつけることはできない。

 多くの品種をつくるのは、いろんな品種を食べたいからだけでなく、季節ごとに畑の性質を見きわめていろんな品種を配置していかないと、うまくいかない(確保できない)からでもある。間引くのも食べるためと同時につくるためである。少しずつ間引いていくことが、競いあって育つダイコンの生育によいからである。

 つくることと食べることのこのぬきさしならない関係の中で、品種は多様化したのだし、料理法も多彩になってきたのである。その中で味覚もしぜんにつくられた。

「舌で感じる味」と「体で感じる味」

 味には「舌で感じる味」と「体で感じる味」がある。そして今、われわれは「舌で感じる」ことが多く、「体で感じる」ことを忘れてきているのではないか。

「体で感じる味」は生きることに直結した味である。それは大胆かつ繊細である。

 長野の野沢菜はもともと京都のカブからつくられたものである。青ものが不足する冬になんとか青ものを食べたい、そんな人々の願いが大胆にも根を食べるカブを葉を食べる菜っぱに変えてしまった。

 だが、青ものならなんでもよいというわけではなかった。

「周囲の山が白くなり、霜が二、三回降りるとお菜とりがはじまる。この野沢菜は霜にあうとあくが抜け、のり(ぬめり)が出ておいしい。そのころあいを見て、お菜の株を包丁で切りとる。

 とったお菜の株元を丸く形を整え、家のまわりに広げて干し、少ししなっこくなったところを水で洗う。大きな半切れに水をいっぱいにくみ、この中へ入れて洗う。手がちぎれるほど冷たいので、いろりにお湯をわかしておき、少し冷ました湯に手を入れて温めながら、一日中洗う。

 桶の底へ野沢菜を一株並べにおいては、塩を霜ふりていどにふりながら、ところどころへこしょう(赤とうがらし)を入れ、桶の縁までいっぱいに漬ける。上へ中ぶたをし、大きな石をのせる。重石はなるべく重いものをし、一晩で水が上がるようにする。そうでないと、お菜の茎がつぶれてしまう。水が上がったら、重石を半分にする。上がたくさんあくので、その上へだんだんお菜を足していく。家によっては、重石の下へ布袋に入れた味噌を置き、味を工夫している。」

 (『長野の食事』より)

 霜が三回おりると味がのるという自然と菜の出合いを見ぬき、凍てつく寒さの中で菜を洗い、塩や重石の加減で味を調整する。こうしてできた野沢菜を氷ごと食べる。自然と労働と技術とを、丸ごと体で感じながら食べていく、それが農家の人にとっての野沢菜である。野沢菜をお茶うけに出すとき、そのすべてが話題になる。

 今、人々は、この丸ごと体で食べる感覚を失いかけている。そして、この大人社会の状況は子供たちに反映する。

 ある中学校の家庭科の先生の話である。野草を食べる授業をやっているのだが、最近の子どもたちは野草を気持悪がるという。少し前までなら「こんな野草も食べられるのか」「案外うまいな」といった驚きが主な反応だったが、最近は「足でふんづけている野草を食べて気持悪くなった」といった反応が返ってくるという。自然を体がこばむ。

 食べる力が低下すれば、食べものには、ひたすらやわらかさ、食べやすさが要求される。そして、わかりやすい「舌で感じる味」が求められる。

 青首ブームはその象徴である。料理法もとおりいっぺんだし、季節による素材の変化を見きわめて料理を工夫するといったこともない。「甘さ」というわかりやすい味だけが先行する。

 青首ブームの背景には、料理法の退歩がある。多様な食べ方があれば、一つの品種がそれも季節を問わず全国中を覆うなどということはおよそ考えられない。料理手法の多様さは品種の多様さを求める。その逆もまた真である。品種の単純化は食べ方の衰弱のあらわれである。

農家こそ本当の“グルメ”

 料理する力が衰弱する中での「舌で感じる味」の追求は、品種の価値を不当に一面化していく。「あれがうまい」「これはまずい」といった話がもっともらしく語られるようになる。品種に優劣がつけられ、それが結果として農家と品種のその地で生きることを基本としたぬきさしならない関係を無視し、こわしていく。「ササ・コシ信仰」で、日本のコメの生産と食べ方がどれだけ一面的で貧弱になっていることか。

 そもそも品種に優劣はない。丸い桜島大根も細長い守口大根も中太りの三浦大根も、みんな作物と地域特有の環境と人間の体とがなじみあってできた歴史の産物である。この”なじみあい”によってはじめて、品種は味として実現する。品種自体だけをあれこれ論じて、うまいまずいといえる筋合いのものではない。

 もし品種に優劣があるとすれば、それは、その品種が地域環境と人間にどれだけなじみあっているかという、その度合にある。品種はなじませることによって特徴が生きる。そして、人間の側からみれば、味は利用法における成熟度にかかっている。

 農家こそ、品種を地域になじませ、味をつくりだす担い手である。本当の“グルメ”は農家なのだ。

「舌で感じる味」には輸入農産物でもなんでもうまけりゃよいといういい加減さがあるが、農家の「体で感じる味」は地域にどっかりと根を下ろす。

 そして何より、「体で感じる味」こそ、本当にうまいのだ。本当のうまさを忘れた人間が、やたらと味を問題にするから、世の中がおかしくなる。 

 引用した本

(1)日本の食生活全集『岩手の食事』 一五四ページ

(2)同『長野の食事』 二八三ページ

(3)畑明美・中山光義・福井功・小室美智世著『健康食だいこん』四五、六、八ページ

(4)藤井平司著『旬を食べる』 九九ページ (いずれも農文協刊)

(農文協論説委員会)

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