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農文協トップ主張 1987年05月

「国際化」の時代こそ地方の出番
地方を土台に「儲けの論理」の克服を

目次

◆「地方の時代」から「地方試練の時代」へ
◆地方に重くのしかかる「経済の国際化」
◆円高は経済国際化の政治的強制
◆経済の国際化は自然を壊し暮らしの土台を壊す
◆「地方」を土台に「暮らしの論理」に基づく国民経済へ

「地方の時代」から「地方試練の時代」へ

 保守、革新を問わず、「地方の時代」を大合唱したのが、前々回五十四年の統一地方選だった。あれから八年。このスローガンはほとんど死語になり、聞こえてくるのは「地方試練の時代」(平松守彦大分県知事)といった地方を取り巻く環境の厳しさを強調する声ばかりだ――三月十日付読売新聞は統一地方選に関する解説記事でこのように報じていました。

 平松大分県知事といえば一村一品運動の提唱者として、この数年、村おこし、地域おこしの先駆的役割を果たしてきた人物です。その平松氏をして「地方試練の時代」と嘆かしめるのはいったい何なのか。一一回目をむかえた統一地方選を目前に控え、今月は、これからの地域おこしと地方政治のあり方をめぐって考えてみたいと思います。

地方に重くのしかかる「経済の国際化」

 なぜ「地方の時代」があえなくスローガン倒れに終わり、「地方試練の時代」になったのか。この問題を考えるには、地方を取り巻く日本と世界の状況がどう変わってきているのかを見きわめなければなりません。地方の問題は日本(中央)とつながっているし、日本の問題は世界とつながっているからです。

 八年前、「地方の時代」が叫ばれた頃に比べて今日の特徴は何か。それは、「経済の国際化」がいちじるしく進んだことです。

 経済の国際化といえば何となくスマートでカッコよく聞こえますが、要するにこれは、世界の国同士、お互い自分の国で高くつく産業はやめにして、それを安くあがる国にまかせましょうということにほかなりません。鉄はA国が、コンピュータはB国が、牛肉はC国が、コメはD国が、それぞれ生産性が高く安くつくれる。それなら各国は関税障壁などを取り払い、それぞれ安くつくれるものを自由に貿易させることによって、お互い全てのものを安く自国の国民に供給することができる。高くつくものを何も自分の国でつくりつづける必要はないという理屈です。

 これは、一九世紀の初めリカードという経済学者が提唱した経済理論で、一般に、比較優位の原則に基づく国際自由貿易論といわれているものです。

 リカードの時代に比べ、第二次世界大戦後エネルギー革命やIC革命を経て生産力が飛躍的に発展した今日では、比較優位の原則に基づく自由貿易の推進、すなわち「国際化」の圧力ははるかに高くなりました。国際化せずには生産力のハケ口がない、よりもうけの大きい投資先がない。そのような過剰生産恐慌(あり余ったカネがモノの生産に向かわずマネーゲーム、地価や株の高騰に乱舞している姿を見よ!)のハケ口を求めての熾烈な競争=国際化の時代に世界の資本主義国は到達したのです。

 国際化とは、自由貿易の強制競争にほかなりません(これはまた、戦前の過剰生産恐慌が、保護主義の台頭によって自由貿易がはばまれ、世界じゅうを巻き込んだ市場再分割戦=第二次世界大戦に至ったことへの資本家的反省です)。

円高は経済国際化の政治的強制

 今日、この国際化が急激に進展する画期となったのが一昨年九月の五カ国蔵相会議、いわゆるG5です。八〇年代前半、高金利・ドル高政策によって極端な輸出不振にあえいでいたアメリカは、一方で鉄やクルマで日本に侵略され、他方ではお得意の農産物輸出もままならないという苦境におちいっていました。

 アメリカの力が衰え、日本や西ドイツの経済が急成長し、アメリカはとうとう借金国になってしまった。一方日本は、イギリスも抜き世界最大の債権国になった。力の弱くなったアメリカと協力して世界の不景気を克服するリーダーシップを日本はとらなければならない。そのために、より一層の市場開放と内需拡大、海外経済援助の飛躍的推進を――、そんな議論がG5でなされ、ドル安・円高にもっていく政治的合意にこぎつけたのです。

 日本にとっての経済国際化の本格的始まり、それはまた未曾有の円高不況の始まりでもありました。急激な円高化のもと、輸出産業はいうに及ばず、およそ国内にあるあらゆる産業が国際競争、生産性の国際比較のもとにさらされ、輸出が困難か、国内での操業が困難またはウマ味が少ない産業は海外に移転するかスクラップか、という岐路に立たされることになったのです。

 競争淘汰による経済構造調整――いわゆる産業の空洞化がこうして起こってきているのです。

 その結果、石炭は相次ぐ閉山、産業のコメといわれる鉄もあちこちで高炉の火が消され、輸出依存型のオモチャ、精密機器、工芸品などの中小地場産業もバタバタと倒産、廃業。何万、何十万という人が首を切られ、あるいは一時帰休させられるという事態になってきました。

 コメの問題も例外ではありません。比較優位の原則に基づく自由貿易の推進という立場から言えば、アメリカの一〇倍も高くつく日本のコメを市場開放しないのはもってのほかというほかありません。食管攻撃が日に日に激しさを増すのも理の当然といえましょう。

 そして、このばあい重大なことは、コメ=農業にまでこの比較優位の原則に基づく自由貿易の推進、経済の国際化が押し寄せてくるならば、他産業のように海外移転による空洞化ではすまされないということです。

 農業は、どこの国のそれであろうと、自国の土地を生産の土台としています。土地そのものが生産の相手です。その土地は、生産性が低いから海外移転するなどということがそもそもできる代物ではありません。とするならば、農業に残された道はただひとつ、スクラップ化しかないということになってしまうのです。

経済の国際化は自然を壊し暮らしの土台を壊す

 一国の農業、食糧生産まで根こそぎこわしてしまうこのような比較優位の原則に、私たちは身をゆだねることができるでしょうか。いや、そもそも比較優位の原則に基づく自由貿易推進の果てに、はたして、恒常的に安定的で平和な国際分業体制ができるのでしょうか。

 比較優位の原則に基づく経済の国際化なるものは、初めにとにかく分業ありきで、一国の国民経済がどうバランスよく再生産をとっていくかということへの配慮を全く欠いた理論です。しかも、「国際化」といってもそれは一種のフィクションあるいは比喩であって、国家の枠なり、国民経済の枠なりが全くなくなるわけではありません。したがって絶えず、「国際化」するもの同士の対立、あつれきを起こしながらの、共食い的な矛盾に満ちた国際関係をつくりだしていくだけでしょう。

 それだけではありません。この国際化は、人間と自然の関係を全地球的規模で悪くしていく道でもあります。

 比較優位の原則に基づき、生産力の高いものを国際分業でやっていく、それを世界的に広めていくというのは、一方で非常に能率的、効率的な産業経済の仕組みをつくっていくことであり、他方からいえば非常に片寄った、今述べた国民経済の再生産バランスを欠いた産業経済の仕組みを各国がつくり上げていく道です。

 特化した産業構造がどんなにその国の自然をこわし、国民の暮らしを土台からこわしていくか、今では私たちは多くの実例を知っています。アフリカのモノカルチャー農業しかり、「緑の革命」の失敗しかり、専作化・単作化した近代農業が土の荒廃に反撃をくらっている状況、またしかりです。

 産業経済というものは、その国の自然のうえに成り立っています。その国の自然と風土、人と資源が仲良く組み合わされることによって種々の産業が成り立っていく。大きいものは大きいものなりに、小さいものは小さいものなりに、自ずから然る種々の産業がバランスよく国のすみずみに成り立っていく。こういう調和のとれた産業構造をつくっていくことこそ、自然と人間の関係をこわさない、安定的で平和な国際関係を築く土台となるものです。

 特化した、一つひとつをとってみれば非常に生産性が高いが、トータルとしてみればたいへんな資源のロスと自然の破壊を招く経済の仕組み、そんなものに私たちの未来をゆだねることはできないのです。

 このようにみてくると、経済の国際化を認めるか否かということは、例えばコメの問題でいえば、単にアメリカのコメを食べるのか日本のコメを食べるのかというにとどまらない、もっと根本的な問題だといえるのではないでしょうか。すなわちそれは、世界の自然をこわしていく方向で当面当面の生産性の高さに依拠した、砂上の楼閣の豊かさを追い求めていくのか、それとも、自然と人間が末永く仲良くやってゆける調和のとれた国民経済をどうつくり上げていくのか、どちらの道を私たちは選び取るのか、という問題なのです。

「地方」を土台に「暮らしの論理」に基づく国民経済へ

 今日の日本は、明らかに過剰生産恐慌の段階に突入しています。前述したようにモノの生産にカネが向かわず、為替の売買や土地投機、株の高騰に乱れ飛んでいる姿が、それをよく表現しています。日産が限定予約販売した新型車が、発売終了直後に中古車市場に出回り二倍近いセリ値で買い落とされた(「読売」三月十七日付)に至っては、狂気の沙汰というほかありません。

 この過剰生産を、調和のとれた生産につくり変えることが、今求められているのです。過剰といっても、人間にとって必要なものが過剰になっているのではありません。大企業にとって儲けの大きいものだけが過剰になっているのです(だから「国際化」を進める)。「儲けの論理」に支配されたモノとカネの過剰、これを「暮らしの論理」に従うモノとカネの使い方に変えていく。この転換が今の日本に強く求められているのです。

 モノとカネの使い方を「暮らしの論理」に従う形に変えていくこと、それは、「暮らしの論理」が「儲けの論理」に強く反発している四つの分野――農、食、医、教を中心になされるべきでしょう。あるいはそれに「住」を加えた五つの分野で「儲けの論理」を克服しなければなりません。

 この克服は中央主導ではできません。地方が主体になって初めてできることなのです。「比較生産性」なるものに束縛されずに「暮らしの論理」を追求できるのは、中央ではなく地方なのです。

「ウサギ小屋」と酷評される住の問題。根本は大都市に人口が密集して地価をつり上げているからです。この人口の集中を地方に分散させない限りウサギ小屋は解消できない。この問題を解決できるのは地方への人口の還流です。

 全国画一的で季節性なき食の貧困。こうしたなかで今、「暮らしの論理」に押されたふるさと宅配便やら有機野菜やらの“差別化商品”がしだいに人気を集めている。これら差別化商品を、都会人の遊びでなく、ふんだんな自然な供給にかえていくのは、これまた地方です。

 農業の問題はいうまでもないでしょう。米価が上がることは、国際化を推進する中央にはマイナスでも、農家のふところのあたたかさに期待する地元商店街にとってはプラスです。農業が栄えることは、農産物輸入を増やしたい中央にはマイナスでも、新鮮で安全な食品を国民に供給する手間ひまをもっと欲しい地方にはプラスです。

 カネばかり追いかけるのではなく住や食、健康や教育という生活の基本部分での質の豊かさをつくり上げていく。またそのためにお金を使う。これは地方が主体になって初めて可能なことなのです。「儲けの論理」に支配された過剰な生産を「暮らしの論理」に従った調和ある国民経済へ。この道は、地方が土台になってできるのです。

 与党が完敗した参議院補選。マスコミはもっぱら売上税の問題とからめて論評していますが、この結果は、経済の国際化に押されて高まる一方のコメ攻撃、農業攻撃への農家の反発でもあり、また、地方経済の調和的な発展を願う住民の深部の力の現われとみることができるでしょう。

 たしかに今、地方は試練の時代です。しかしその試練を乗り越えるのもまた地方自身の手によるのでなければなりません。テクノポリスやら国際化に対応した安いコメづくりやら、はては原発誘致やらに希望を託すのでなく、住民の深部の声に耳を傾けた地域おこしに力を注ごうではありませんか。地域地域に根を張った農協は、その組織と事業力を生かし、地域おこしの先頭に立つ名誉あるたたかいを望まれているのです。(暮らしの論理に基づく地域づくりやその中での農協の腕のみせどころについては、農文協文化部著『地域形成の原理』や本誌昨年十一、十二月号、本年一月号、四月号の「主張」を併わせお読みください)

 

(農文協論説委員会)

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