主張
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農文協トップ主張 1988年11月

国の自給率ではなく市町村の自給率を高める
情報の地域化、個性化を

目次

◆下りものがくれば、やがて外国産もくる
◆地域の自給率を調べ、低いものを作る
◆民営の地域市場が復活する
◆「わが家の自給率」と「地域の自給率」にかけ橋をかける

 農業の活力をはかるモノサシに「食糧自給率」というものがある。そして、食糧自給率というと、ニッポン国の食糧自給率が問題にされる。だが、ほんとうは国家の自給率のまえに「地域の自給率」があり、それを「わが家の自給率」が支えているのだ。

下りものがくれば、やがて外国産もくる

 なぜ地域の自給率か。

 そんなにむずかしい話ではない。ものごとには順序のあとさきがある。外国からの輸入農産物と、国内のよその地方の農産物のどっちが先にあなたの地域にやってきたか。

 野菜を例に考えてみよう。

 あなたが東の地方の方なら、青果市場には、まずは群馬、茨城といった関東辺りの長ナスが入ってきて、次は四国の高知、いまでは台湾などから入るようになったはずである。西の地方でも同じことだ。北海道のカボチャのあとにニュージーランド産がやってきた。いきなり外国産がきたわけではない。昔は地物の野菜を旬のときだけ食べていて、それが当たり前だった。やがて、野菜が一年中、全国から供給されるようになり、地物の味へのこだわりも次第に薄れていく。北海道産、沖縄産がやってくれば、メキシコ産、ニュージーランド産がくるのは目前だ。

 いまから三〇年ほど前、昭和三十年代の前半までは、地方都市近郊の古くからの園芸地帯を中心に、農家はありとあらゆる野菜をつくり、地元の需要にこたえていた。こうした地元の少量多品目の産地が、トマトならトマト、キュウリならキュウリと、ひとつの野菜を専門につくる遠隔地の主産地の野菜を優遇したから、地元の産地はすっかり旗色が悪くなり、下りものが大手を振って歩くようになった。

 この主産地育成というもの、そもそもの起こりは急速に拡大した大都市の需要を満たすためのものだった。その地域で最も効率よく生産できる野菜にしぼりこめば、生産性はアップし、供給量も安定する。こうしてできた産地同士で競争することで値段も下がる。それを折から発達した遠距離流通にのせる。農業は自立し、消費者も安い野菜が手に入るからお互いに利益になるというわけだ。

 大都市に安い野菜を、というこの発想は全国津々浦々に広がり、今ではどこの地方都市でも年中あらゆる地方の野菜が手に入るようになった。この理屈でいえば、沖縄でカボチャをつくるよりメキシコのほうがもっと安くつく、ということにもなろう。急に輸入農産物が入ってきたのではない。主産地育成から理屈は一貫している。要は国境を越えるか越えないかだけの違いなのである。

 主産地育成をおしすすめた理屈も、今日の国際「協調」論も、農と食を経済効果からだけ考え、地域地域のトータルな農と食をとらえる視点を欠いていた。その間違いの発端は、すでに主産地育成の理屈のなかにあった。

 輸入農産物を問題にするなら、まず下りもののほうを先に問題にしなければならない。国家の自給率のまえに「地域の自給率」を知らなければならないのである。

地域の自給率を調べ、低いものを作る

 ところが、不思議なことに、国家としての総合自給率とか穀物自給率とかいうものはあっても、人吉市の食糧自給率とか、球磨地方の食糧自給率というものにお目にかかったことはない。農水省や各地方の農政局には統計情報部があり、県庁所在地には統計情報事務所があり、さらに主要都市にはその出張所がある。これらの機関が収集する農産物の生産・流通に関するデータたるや膨大なものである。ただ、この膨大なデータは主要都市から県へ、県から地方へと積み上げられて、食糧需給表という国家の食糧自給率を割り出すうえでの基礎データとはなるものの、市町村の自給率、「地域の自給率」のデータとしてはすぐには使えないしろものである。

 お役所がやってくれないのなら、農家自身がやるしかない。自分たちが生産する農産物がわが町、わが地域の人々の胃の腑をどれだけ満たしているか、ひとつ調べてみよう――実際に、そんなことを始めた農家もいる。

 山形県庄内地方は松山町の後藤金也さんもそのひとりである。

 地域自給率の調査といっても、それほど大げさなものではない。隣町にある公設の青果物市場に出向いて、野菜の取扱高に占める地場産の割合(市場占有率)を調べてみたのである。

 取扱高の高い野菜のうち、地場産の市場占有率の最も低いのがタマネギで、わずか〇・六%。以下、サツマイモ(七・六%)、レタス(七・九%)、ハクサイ(一一・三%)、ニンジン(一一・七%)、バレイショ(一七・一%)と続く。タマネギのばあい北海道産と大阪産、和歌山産がほとんどだった。とくに、日頃、料理で使う頻度の高いジャガイモ、タマネギ、ニンジンなどが、大きく下りものに依存している、という結果が出た。

 この数字からことの重大さを知らされた後藤さんはさっそく、仲間と語らってタマネギの試作をはじめた。土質の違いからか、北海道産のようなきれいなツヤが出ず、なんだか茶色っぽいタマネギになった。くだんの公設市場にも持ち込んでみたが、相手にされなかった。そこで町内の消費者にマトをしぼって、農協の朝市や引売りで販売することにした。このタマネギ、みかけは悪いが、味は生でも甘味があっておいしい。オニオンスライスにしてビールのつまみにするとなかなかいけるというわけで、町内ではファンも増えている。

 この取組みそのものはほんのささやかなものだが、その意味するところはけっして小さくない。後藤さんがそもそも市場に出かけてみたのは、長年、グループで続けてきた経営簿記記帳に加えて、近年、家計簿記帳をあわせて行うようになったのがきっかけだった。農業経営を考えるうえで、生産と生活は切り離せず、また生活のなかでも現金支出だけでなく現物の利用を見落とすことはできない。家計簿に食生活や贈答での自家生産物の利用を現金に換算して記帳し、グループでその利用度を競い合った。つまり、「わが家の自給率」をチェックしたのである。わが家の自給率が高まると、生活のしくみが農家らしいものに変わるだけでなく、生産のほうも複合化していく。その複合化に見合った作目を求めて市場に出かけたというわけである。

 地域の自給率のまえにはわが家の自給率がある。そして農家らしい無理のない生産を守るためには、地元の消費の質も変わっていかなければならないのである。

民営の地域市場が復活する

 後藤さんのタマネギはやむなく直売によったが、本来、市場には地域の人々が集い、消費の質を伝え合う関係があったのではなかろうか。

 庄内には、後藤さんが調査に行った公設市場のほかに、二つの民営市場がある。取扱高で言えば、公設市場と民営市場では比較にならない。だが、公設市場がそのスケールメリットを生かして、遠隔地の大産地の野菜を荷受したり、指定品目を中心とした庄内の主要商品作物の出荷基地となっているのに対して、民営市場は地味ながらも、地元の農家と小売店との確かな結びつきの場となっているようにみえる。

 そのひとつ、鶴岡中央青果市場はJR鶴岡駅にほど近い一角にある。名前は「中央市場」だが、野菜と果物を合わせて年間の取扱高は一〇億円ほど、買参人が八〇人という小さな市場である。昼間はうっかりすると見のがしてしまうほどだが、朝六時の開場時間が近づくと、近在の農家や鶴岡市内の八百屋さんの軽トラックやバイクが集まり、なかなかのにぎわいをみせている。

 この市場ができた経緯は次の通り。

 昭和四十八年まで、庄内地方には鶴岡市と酒田市をあわせて五社七市場があり、そのいずれもが取扱高が一万t前後の小規模な民営市場であった。青果物流通が広域化するなかで、庄内の各市場でも他地域産の青果物の比重が高まっていく。そうした流れのなかで市場を統合して集荷能力を高めようということでできたのが、さきほどの公設市場であった。

 ところが、この公設市場ができた翌年、昭和四十九年には早くも鶴岡市場が分離・独立している。その意味では鶴岡市場は市場の統合・合理化という流れに反旗を翻したことになる。なぜだろうか。

 民営市場復活を支えたのは、個人出荷を中心とした地元農家と鶴岡市内の小規模な専門小売店(八百屋さん)であった。

 統合前の民営市場には、リヤカーをひいたおばあちゃんからはじまって、少量多品目の野菜を生産する近郊園芸農家が集まっていた。公設市場では選別や荷姿にうるさくなり、また量がまとまらないと出荷できなくなった。これは小口の出荷者にはなじまない。

 地元の八百屋さんにとっても事情は同じである。小さな八百屋さんにとっては、取扱い単位が大きくなると荷引きがしにくくなる。また公設市場は鶴岡市から十数km離れた三川町に設置されたが、八百屋のご主人のなかには車をもたない年寄りも多く、こうした八百屋さんにとっては市場が遠くなるのは不便なことだった。こうして民営市場の復活は小規模な八百屋、とくに商店主が年をとっている八百屋さんにとっては大歓迎のことだった。

 こうして復活した鶴岡市場は小規模な農家と八百屋の意向に沿って運営されている。

 たとえば、市場の開場時間が公設市場よりも三〇分遅い。三〇分というとわずかな差のようだが、朝どりの新鮮な野菜を出荷するうえでは貴重なゆとりとなる。八百屋にとっても、スーパーマーケットなどの量販店と対抗するうえで、新鮮な朝どりの地場野菜というのは売りもののひとつになる。また、葉菜類などはビニールの大袋につめたまま出荷されているが、八百屋が計り売りするうえでは支障はない。支障がないだけでなく、自分の必要な分だけ安く買うことのできる計り売りは、消費者がスーパーマーケットではなく、あえて八百屋に足を運ぶ動機のひとつにもなっているのである。

 加えて、鶴岡市場にはだだちゃ豆や民田《みんでん》ナス、黒豆のモヤシ、鵜渡河原《うどがわら》大根、温海《あつみ》カブ、カラトリイモといったこの地方独特の野菜がよく集まってくる。もちろん、こうした地方品種は公設市場にも出荷されているのだが、民営市場のほうが、より細かな単位のものまで集荷できる。消費者や小売店の要望にこたえるうえで、小さな市場の小回りのよさが生かされるのである。

「わが家の自給率」と「地域の自給率」にかけ橋をかける

 昭和六十一年、鶴岡中央青果市場が取扱った野菜のうち地場の野菜が占める率は金額ベースで七三%。これは、同じ年の公設市場での地場産の占有率三六・九%に比べて顕著な違いである。取扱高のうえでは一〇〇億円と一〇億円。一〇分の一にすぎない。しかし、鶴岡市場には公設市場にはない役割があった。

 公設市場には役割がないというのではない。事実、鶴岡市の小さな八百屋さんもこの二つの市場の両方の買参権をもち、庄内でとれない果物などは公設市場のほうから仕入れている。ただ、民営の鶴岡市場では、老若男女多様な農家と、そこから生まれるこの土地ならではの野菜たちと、小さな小売商の人びとが、より多く息づき交流している。そんな場をつくり出している。

 健康的な食生活づくりや、現物利用の拡大(現金支出の縮小)による暮らしの充実に向けて動き出した「わが家の自給率」の向上――。そこから生産される野菜が、「交流の場」を通して、「地域の自給率」の向上につながる。その質をも、健康的でうるおいのあるものにかえていく。

 そればかりではなく、「交流の場」があることは、逆に、「わが家の自給率」とその質の向上をも支えていく。色は悪いが味のよいタマネギは、地元の消費者に評価されることによって、わが家の畑に根づいた。

 地方市場は、わが家の自給率と地域の自給率とが、ともにその内容を豊富にしつつ高まっていく「かけ橋」となっているといえる。そうした「かけ橋」には、朝市も夕市も、引売りもあるだろう。

 そのような場を通じて、地域の自給率が高まっていくならば、またそうした地域が全国津々浦々にできていくならば、国家の自給率もまた高まっていくであろう。

 国家の自給率にしろ、地域の自給率にしろ、自給率そのものは無機的な数字にすぎない。しかし、その数字の高さは、それぞれの地域に定住する人々が、そこでの暮らしをかけがえのないものと思えるような人間関係をどれだけつくっていくか、にかかっているのである。

(農文協論説委員会)

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