主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食農ネット 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 1989年01月

規模拡大・コストダウンの道でなく……
国民的合意をレベルアップしよう

目次

◆「過剰」の前提をとり除く
◆自由化論を中途半端にさせない
◆国民的合意を人類史的視野で
◆人類史的視野は地域でひらく

 国際化時代なのだから、農産物は自由化しなくてはならないのだという。自由化は必然で当然で、成るように成る、ということらしい。国際化と自由化はセットになっている。

 ここでは、とりあえず「ハァそんなものか」と思っておこう。自由化賛成というわけではない。自由化是が否かという土俵での議論とは別のところで、問題を考えてみたいのだ。

 二つのことを考える。

 まず、いまの自由化賛成論は、食糧が世界的に過剰だという前提に立っていること。そして、反対論もまた、この前提は認めているらしいこと。

 つぎに、いまの自由化反対論は、輸入農産物は安全性に欠けるという前提に立っていること。

 どちらの前提もまちがいのないことのように思われる。この前提に疑問符をつけたら、賛成論者、反対論者双方から、何と見当ちがいのことをいうのかといわれそうだ。

 それをあえてたってみよう。

 ほんとうに世界の食糧は過剰なのだろうか?

 ほんとうに輸入農産物は安全性に欠けているのだろうか?

“過剰”の前提をとり除く

 「地球の半分は飢えている」といわれてきた。この事情は、じつは今も変わってはいない(半分という数値は大ざっぱなものとして)。日本とアメリカとヨーロッパの一部の国だけが豊かな食生活を享受している。それも、その国の人たち全部が、というわけではない。

 飢えている人々がいる。しかし、その人々のことは考えない。だから余っているようにみえるのである。食糧を必要としている国がある。その国のことは考えないで、余っている国同志が「買え」「買わぬ」と争っているのである。余っている国が、価格が安いというだけで、別の余っている国に買うことを強要する――それが自由化というものである。この場合、強要する力は片方の国にだけあるのではない、両方の国にある。

 こんな二つの国の間だけの争いが、そしてそれぞれの国の利害の異なる勢力間の争いが、どうして国際化などといえるのだろうか。国際化とはモノとカネと人と情報とが自由に交流することだという。それならばなぜ、富める国から貧しい国へ、飽食の国から飢えた国へ、モノとカネを自由に交流させないのか。富める国の間だけの交流を国際化というのはおこがましい。そんなものは国際化でもなんでもない。大国の覇権争いである。国際化とは、すべての国がそれぞれの納得のもとに富んでゆくために交流することであり、しかも、何をもって「富める」とするかは、それぞれの国の人々の判断にゆだねられるべきものである。

 経済学は現状を分析して、八〇年代は地球的にみて食糧生産が過剰傾向にあるとしている。七〇年代の不足傾向が過剰傾向に転じたというのである。

 だが、同じ経済学が、九〇年代は再び不足基調になると分析している。不足すれば価格は上がる。そうなると輸入もままならないと考えやすいが、そうではない。何倍ものカネを出して買いまくることはできる。それにも限度があるとはいえるが、そう簡単には限度には達しない。

 何倍もの金を出して買いまくる。それは、とりもなおさず、だれかを飢えさせ、カネに物をいわせて自分だけ生きるということだ。自分で作る努力もしないで……。

 以上は自由化賛成論が倫理的に(道徳的に)誤っていることを述べたのである。

自由化論を中途半端にさせない

 しかし、経済の問題に道徳はなじまない――という人もある。そこがそもそも、間違いの始まりだといえるのだが、ここではそれも置いて、倫理が通らぬなら論理でいくことにしよう。

 だいたい、自由化賛成論者の議論は徹底していないのだ。日本が全面的に農産物の自由化をしたら、日本農業は亡びるということをきちんと考えていない。規模を拡大する、そのために土地を流動化させる、そしてコストダウンを計る――などと相変わらずいっている。そんなことはできないと、はっきり認めて、日本が香港やシンガポールのように穀物自給のゼロに近い国になることを考え、それでもいいという論理を組み立ててくれなければ、議論はいつまでも中途半端だ。

 今日の利益を求めて明日はなりゆきまかせとする無責任の議論である。

 日本に農業はなくていいというところまで合理的に説明できないければ、論理的ではない。

 中途半端なところで、自由化についての(つまり日本農業の将来についての)“国民的合意”を得ようとする。そこがずるい。規模拡大、コストダウンの道で“国民的合意”をつくろうとする。そこがおかしい。なぜ香港、シンガポールでいいという合意をつくろうとしないのか。自信がないからだ。

 一方、反対論のほうも、コストダウンの道で“国民的合意”ができると思っているフシがある。それではかえって賛成論を有利にさせてしまう。ことがらを深く追求するように働かないで、ウヤムヤにするように働く農家抜きの“合意”ができてしまう。

 ではどうするのか。そのまえに注釈を一つ。

 ここで日本農業は亡びる――といったのだが、これは日本農業が亡びるのであって、日本の農業が、個々の農家が亡びるのではない。専業であれ兼業であれ(兼業のほうが一層そうなのだろうが)、輸入農産物が増加していく事態の中では、国産農産物であること自体がそのまま付加価値となるのだから、農家は存在できるし、やり方を発見できれば、いまよりもむしろ安定した経営もつくれるだろう。

 そのやり方、あり方として想定される一つの型がある。大衆的外食産業と加工食品産業の原材料、そして低所得者の食糧が輸入農産物でまかなわれる。そして国内農産物は高級志向の需要を満たす、という型である。「貧乏人は輸入農産物を食え」ということになる。

 それでいいのだろうか。いいもわるいもない。そうなる可能性は充分ある。しかし、それを防ぐ手だてもないわけではない。それは、規模拡大、コストダウンの道にとどまらない、別の“国民的合意”をつくりだすことだ。それはどのような合意か。

国民的合意を人類史的視野で

 輸入農産物について、安全性が強く疑われている。それが自由化反対の大きな論拠になっている。まちがいなく、現在の輸入農産物は安全性に欠けている。とりわけポスト・ハーベスト(収穫後)と呼ばれる輸送にあたっての様々の処理に危険がひそんでいる。それでもなお、長期的にみれば、安全性の問題は自由化反対の論拠としては弱い――完璧ではない、といわなくてはならない。論理的に考えれば危険性をなくすことはできるのだ。薬品を使わずに低温輸送する、輸送時間を短縮する、国際的に共通基準を作る――等々の手だてが実現したとすれば、安全性は保たれることになる(実は、それが行なわれないというところに、また倫理の問題が潜んでいるのだが)。

 一方、チェルノブイリ原発事故に発するヨーロッパの食品汚染のようなことは、輸入農産物の問題を越えたグローバルな(地球的規模での人類史的な)問題として考えるほうが論理にかなう。日本で原発事故があれば、国内農産物の汚染は輸入されるヨーロッパ農産物の比ではなくなる。

 食品の安全性の問題は、輸入農産物と国内農産物を比較してその良しあしを論ずる視点と、よりグローバルな人類史的視点との複眼を持って考えていかなくてはならない問題である。

 さて、地球上に飢餓があり、来世紀にそれが拡大される可能性があるならば、地球的規模で食糧のと配分を考えなくてはならない。このことに倫理的にも論理的にも異論は成り立たない。こう命題を定めることによって、世界の食糧問題における倫理と論理が統一的に把握されることになる。自由化阻止のために規模拡大とコストダウンを、などというようなことではなく、この倫理と論理の統一的把握をこそ国民的合意の目標とする。そのために力を結集しなくてはならない。

 一方、食糧の=安全性については、現状での安全性比較を超えて、人類史的な考察が加わらなければならない。

人類史的視野は地域でひらく

 ところで――。

 グローバルに(地球的規模で人類史的に)食糧の量と質を考えるような“国際化”された政治家・財界人などどこにもいない。国家はその国の利害で、その国の一部の勢力の利害で政策を決める。

 ところで、もう一度ところで――。

 私たち庶民は、生産者であれ消費者であれ問題をマクロに(巨視的に・大きな物指しで)考え、解決する力はもっていない。しかし、逆に、ミクロに(微視的に・小さな物指しで)考え、解決する力はもっている。

 庶民は、国際化から考え始めてもしかたがないのだ。日本農業から考え始めてもしかたがないのだ。わが家の消費から考える。いいかえれば食べものをつくること、食べること自体から考える。

 私たちが生きている場は、家族という場、地域という場、国という場、世界、地球という場の重なりで成り立っている。そして人類史的な観点からみて、私たちの暮しはずっと家族=地域という場の結合の中で営まれていた。人類にとって種的習慣・伝統ともいうべきこの暮し方が、日本でいえばたかだか明治以後の百余年のあいだに、半ば強権を持って地域=国という結合にくみこまれた。戦後、地域の力の衰えとともに、家族=国という結合がつくられた。その媒介になったのが企業(職場)である。

 いままた、場の結合の再編成が行なわれようとしている。それが、これまで通り企業を媒介として行なわれれば、国=世界の結合となる。そうはさせずに、二十一世紀を国をとびこえて地域=世界という場の形成される世紀とする。そのために、一九九〇年代は地域という場の力を強めるべき時代である。その媒介者は地域の農業=食べものだ。

 井原豊さんは「農業に明日はない。だが明後日《あさって》がある」といっている。感覚的に充分納得できる言葉だと思う。

 このことばは二通りに解釈できるだろう。

 一つは、先にも記したように“輸入農産物が増加していく事態の中では、国産農産物であること自体がそのまま付加価値となるのだから”明後日があるのだ。だが、そのまえにつぶれてしまうかもしれない――という意味だ。

 一つは“地域=世界という場を形成することができたら”明後日はある。できるかできないか、明日こそが正念場だ――という意味。

 真の国際化とは地域=世界という場の結合を実現することにある。一つ一つの地域が豊かになることで地球上のすべての地域が豊かになる。この道を歩むことで、地域の生産、地域の生活、地域の自然は組合わされ、地域で経済が連鎖し、地域で社会が協同し、地域で自然が保全される。その中で農業は(同じに他産業も)活かされ生きるのである。

(農文協論説委員会)

前月の主張を読む 次月の主張を読む