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農文協トップ主張 1991年04月

自然(環境)教育は自然科学の教育ではない
人間の根源的な自然性をつかむ

目次

◆子どもはなんでも知っている
◆カブトムシが売られるのを嘆くまえに
◆人間と自然との接点
◆頭や体、とりわけ手を使って
◆「継承」に利益なんてない

子どもはなんでも知っている

 デパートのおもちゃ売場は、編集者にとって、とても魅力的な勉強の場だ。そこで子どもたちがどのようにおもちゃに気をひかれているかを見ていると、さまざまな発見がある。

 去年、夏休みに入ってじきの東京のデパートで、こんな光景をみた。売場の一角にビニールハウス風のものが置かれ、その中に昆虫が放し飼い?されている。カブトムシやクワガタが、ハウス内のあちこちにあしらわれた即席の森の木の枝で動いている。木の下のワクの中にはシイタケの原木がちらばっていて、そこにもびっしりのカブトムシがひしめいていた。

 子どもたちは入口で配られた虫カゴを片手に、虫えらびに夢中だ。一匹一匹を手にとって、足の動きの敏捷さを確かめたり、顔かたちをじっとみつめたり、それは賑やかなことだった。カブトムシも一匹一匹それぞれの顔があって、子どもたちにはそれがわかり、子どもたちなりの好みもあるように思われた。

 これと決めた虫をカゴに入れ、出口でカゴ代とムシ代を払うと虫はその子のものになるという、スーパーでの買物みたいなしかけだった。ハウスから出てくる子どもたちは男の子も女の子も一様にうれしそうな顔をして、さっそく虫をカゴから出し、売場の床にデンとすわって相撲をとらせている子さえいた。

 ところで、そこはおもちゃ売場なのだから、昔ながらのシンバルをたたくゼンマイ仕掛けのサルや、ぬいぐるみのパンダや、あるいはなにか最新技術のとり入れられた精巧で高価な、質問をすると返事をする九官鳥まで、いろいろ置かれていて、こちらにも目を輝かせた子どもたちがむらがっている。昔、カブトムシをとるために森の中で輝いていた私たちの目と、その輝きは同じなのだろうか、ちがうのだろうか。いずれにしても、子どもの興味はいつも個性的であることにちがいはない。

 おもちゃ売場の「森」なんて、本当の森じゃない。かえって子どもたちの自然観をゆがめてしまうという意見もあるだろう。カブトムシは、しばらくは子どもたちをたのしませてくれるが、やがて死ぬ。すると、「お父さん、電池を入れかえて」という子どもがいるという話をよく聞くが、どうもこれはつくり話のように思えてならない。あのデパートのおもちゃ売場の子どもたちの活発な姿を見れば、生き物と死に物との区別は、子どもたちには、はじめからわかっているとしか思えない。「電池を入れかえて」の話は近ごろの子どもの“自然離れ”をなげいてみせる大人たちの、まじめなつくり話ではないか。もしそういうことを言った子がいたとしたら、案外にその子は利発な子で、最新技術を駆使して巧妙に動くおもちゃと、生き物であるカブトムシの違いを知っているからこその冗談だったということだと思う。子どもたちが、“自然離れ”しているのではなくて、子どもの自然とのつきあいが昔と今とではちがってきているし、また自然そのものがちがってきていると思うのだ。大人のほうが、自然と人間のかかわり方が変わってきていることについて、よくわかっていないのではないか。このままだと、大人は子どもに、してやられるかもしれない。「おもちゃ売場の“森”なんて本当の森じゃない。そんなこと知ってるさ。それなのに、昔がよくて今がおかしいなんて、どうしてお父さんは言うの?」

カブトムシが売られるのを嘆くまえに

 そんなふうに子どもたちにいわれないようにしたいと思う。だから私たち農文協はつぎの三点を肝に銘じて児童図書の出版をしている。

 第一に、いまの児童図書は、どちらかというと自然の本ではなく自然科学の本が多いのだが、農文協は科学的知識をおしえこむことを極力抑制した本づくりをしている。子どもたちにとっていま必要なのは、自然科学の切り売りや「科学する心を養う」教育ではなくて、自然環境の中でだけ暮すことのできる私たち人間の立場を丸ごと感じとる教育である。幼児・小学校低・中学年向けの絵本シリーズである『自然とあそぼう植物編』『同・動物編』(各10巻)のなかの一冊『かいぶつあつまれ』は、動物の種類と形態を扱ったものだが、分類学的な知識をきちんと押さえることはしていない。それよりもまず動物の種類の多様さとかたちのおもしろさ、ふしぎさに目を向けてもらおうとした。

 (1)ある日白ひげ神さまが、ふらりと地球におりてきて、おーい動物たち集まれい(雲に乗った神さまがアフリカらしき地面に降りてくる)

 (2)やあ出てきたな、出てきたな。みんななかよくしているか(動物たち次々に登場。人間もいる)

 これが「かいぶつたちあつまれ」の出だしだ。(文章は原文は全部ひらがな、()内は絵の説明)。神さまが降りてくるという荒唐無稽なことをあえて設定してあとの話のおもしろさを引き出そうとした。

 (3)カバ君がサイ君をゆびさして、か、か、か、かいぶつだあ。あたまのうえに太いつの(サイとサイのつのに驚くカバ)

 (4)かいぶつじゃない。いや、かいぶつだ(争いがはじまり、神さま困る)

 (5)おまえのはなこそ、かいぶつだ(サイやウシやカブトムシやつのを出したアゲハの幼虫がゾウに八つ当たり)

 (6)はなが長くてなぜ悪い。長いどうぶつ集まれえ(ゾウが怒る)

 (7)集まった、集まった。ながながぐみが集まった(キリン、フラミンゴ、カメレオン、ウサギ、ツル、ヘビ、トンボ、タコ、サンマその他、体のどこかの部分が長い動物たち数十種が、集まる)

 以下、分類学とは関係なく、かたちの上での特徴によってあらゆる動物がグループを組んで大騒ぎになる。((8)〜(11))

 (12)なにをごたごたわめいている。しっぽのあるもの、集まれい。

 (13)おやおや、きみにもしっぽがある。あらら、きみにもしっぽがある。

 この画面で哺乳類から鳥から魚から昆虫から、は虫類から両生類まで、あらゆる動物が集まってくる。よくみまわすと、どの動物にもしっぽがあった。人間以外は。

 (15)つのがあってもなくっても、しっぽがあってもなくっても、けものだって虫だって、魚だって鳥だって、そして人間だって、みんな動物の仲間。はい、それではさようなら。

 デパートのインスタントの森の中でカブトムシをとる子どもたちをかわいそうと感じるまえに、それにもかかわらず昆虫に、自然にひきつけられる子どもたちの多いことに注目し、そうした興味のあり方を入り口にした本づくりをしていきたいと思っている。

人間と自然との接点

 私たちの第二の願いは、子どもたちの生活の様々な場面から自然を発見してもらいたいことだ。加子里子先生にお願いして作った『かこさとしの、たべものえほん』(全10巻)は、毎日の食卓にのるご訓走から、昔からの人間と自然との関係を読みとってもらうための本である。もう一つ、『かこさとしの、からだとこころのえほん』(全10巻)は、自然というものは自分の外側にあるのでなく、内側(=身体と心)にもあるのだということをぜひ理解してほしいという思いで生まれた。個性、表現、思考、成長、かっ藤、など哲学書みたいなテーマを、そうした概念は表に出さずに表現した。ねている時間は起きている時間のオマケではない(『わたしがねむり、ねていたとき』)とか、病気になっているときは自分が自分で生きていることを確かめる大切な時間だ(『びょうきじまん、やまいくらべ』)とか、ひとが泣くのは悲しいからだけじゃない。いろんな思いがこみあげてくるから涙があふれでる(『なきむしやさんだいしゅうごう』)などというテーマを扱っている。

 私たちの第三の願い、それは本格的な、それこそ自然科学的な絵本をつくりたいということだ。現在の科学が、人間と自然との接点でどんなに大きなしごとをしているかを、正面きって格調高く子どもに伝えたい。それが『自然の中の人間シリーズ』の『川と人間』『海と人間』『森と人間』『土と人間』の四部作である。山(森)から流れ出た水が川となり、川が横丁に入って田畑(土)を作り、その水も川に戻って、やがて海に達する。日本の自然の壮大な生態系を、全四〇冊のビジアル・サイエンスとして編集した。

 私たちは、児童書の世界でもっともっといろいろな試みをつづけていきたいと思っている。その原点は、あのデパートのおもちゃ売場でも元気な子どもたち、そしてその思いは限りなく広がる自然の神秘への子どもと大人ともどもの躍動だ。

頭や体、とりわけ手を使って

 主張欄だというのに、私たちが出版している児童書の宣伝をしたようになってしまった。でも、もう少しおつきあいいただいて、私たちの教育についての思い入れをぜひ聞いてほしい。

 自然教育(環境教育)を、自然を客観視するところ、つまりとざされた理科教育から始めてもだめだろうと私たちは思っている。自然科学の客観的な知識にではなくて「人間の根源的な自然性」に注目したい。子どもたちはもともとカブトムシがまちがいなく生きていることぐらいわかっている。そして自分が生きていることも当然わかっている。生きていることは自然なことなのだ。とつぜん「人間の根源的な自然性」などと、むずかしげな表現をしてしまったが、要は、生きていることを自然なこと、あたりまえなこと、日常的なこと、としてとらえようというわけなのだ。それを子どもたちはいちばんよく知っている。大人たちはとかく、DNAがあるから人間は生きていると思ってしまう。そんなことはない。生きているからDNAがあるというだけのこと。生きていく上で、とりあえずはDNAのことを知らなくても、なんの不都合も起こらない。

 教育学者の大田堯氏は「種の継承としての教育」という表現をなさっている。このばあいの種とは、動物の一つの種としての人間という意味だ。人間という動物が種の特質として持っている自然性を継承していくこと―教育の焦点をそこに置いてみようという提唱だ。

 動物学者の小原秀雄氏は「人間の自己家畜化」という概念を提示する。このばあい家畜ということばにマイナスのイメージ、価値観は含まれていない。家畜が、人間にとって都合のよい動物になってきたように、人間は人間という種を自らに都合のよい動物にかえていく―ということであり、そこには人間の自然性もかわるものだという問題提起が含まれているのだと思う。

 もとジャーナリストの小松恒夫氏は人間が頭や体、とりわけ手をつかってつくりあげてきたものを伝達するのが教育だと書いている。「頭や体、とりわけ手をつかって」ということを「人間の根源的自然性によって」といいかえることも可能だろう。

「継承」に利益なんてない

 じつは、以上三人の方々の論は、本誌と同時に発行される『現代農業四月増刊号』に掲載されている。私たちは教育ということを、「人間の根源的自然性」に立脚して考えなおしてみたかったために、この増刊号を編集した。題して『引き継ぐ教育』。小松氏の「利益なくして継承するということ」という巻頭論文、大田・小原両氏の二回にわたる討論記録、さらに育児、食生活、あそび、演技、山林労働、農家経営、商家経営、そして何より学校教育など、さまざまな場での継承の姿を追う文章を多くの方々から寄せていただいた。

 私たち農文協がその出版活動で、教育とりわけ自然教育の分野に力を入れているのには理由がある。小原氏も指摘するように、人間の自然性というものは変わらないものではないのに、その自然性の変化に社会性(社会のありかた)の変化が伴っていないこと、そこに自然と人間の調和のくずれる根源があると思っているからだ。そしてこの自然と人間の調和のくずれが、とりわけ深刻に教育の面に現われていると思うからだ。ここで教育というのは学校教育だけでなく、いちばん広くいえば、とりもなおさず、「人間の根源的な自然性の継承」ということになる。

 農業団体である農文協が教育書を出すこと、『現代農業』という農業雑誌が教育の特集を組むことを奇異に感じる方があるかもしれない。しかし、それはちっともヘンではない。農業は植物や動物を、それぞれの自然性に基づいて育てていく営みであり、その営みは人間がその自然性に基づいて人間を育てることとまったく同じことだからだ。

 なお、農文協が最近発行しはじめた雑誌『自然と人間を結ぶ・自然教育活動』(季刊)や『保健室』(隔月刊)にも注目していただきたい。私たちは学校教育のなかで養護教諭の果たす役割はとても大きく重いと考えている。保健室での先生との語り合いは、子どもたちにとって教室では得られない先生とのもう一つの交流であり、教育者の側からすれば、子どもがかいまみせる、体とこころが一体となった丸ごとの心情をとらえることのできる貴重な場だと思うからだ。全国養護教諭サークル協議会編集になる『保健室』からの発信は、教育の現在を人間の根源的自然性の観点からとらえ直すことに役立つにちがいない。

(農文協論説委員会)

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