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農文協トップ主張 1991年09月

「おいしい水」を飲みたければ農林業を守るしかない

目次

◆水への不満 水への不安
◆水の悪化が生みだす生きものの不健康
◆「きれいな水」を取り戻す◎ホタルが戻ってきた川、長野県戸倉町◎屎尿を「飲める水」に変えた町、福岡県久山町
◆そもそも「いい水」とはなにか?
◆「いい水を守る」ことは「農林業を守る」こと

 夏になると、例年のことながら「水」の話題がマスコミを賑わせる。「水がおいしくない」「日本全国おいしい水一覧」「名水味くらべ」……今年はまた、とりわけ熱が入っているようだ。

 飲料水の質が一層悪くなったせいなのか、新規参入した浄水器メーカー、飲料水メーカーを巻き込んで、その売り上げ合戦に血眼になっている様子がよくわかる。

 そこで今月は、「おいしい水、安全な水を飲みたい」ということがどういうことか、じっくりと考えてみたい。

水への不満 水への不安

 七月十三日付けの読売新聞夕刊に、全国三〇〇〇人に聞き取りをした、水についての全国世論調査結果が掲載されている。その結果によると、「水の問題」と聞いたときに、真っ先に思い浮かべることとして「飲料水の水質」(五八%)、次いで「河川や海の汚濁・汚染」(四九%)があげられている。

 飲料水にしぼってみると、いちばん多かったのが「味のまずさ」三一%。この数値、大都市を抱える近畿、関東でいえば四〇%に跳ね上がる。次いで「不快な臭い」二五%が続く。地域的に大きな差があり、関東の二七%に対して、近畿は四〇%と突出している。近畿が特別に高いのは、琵琶湖を水源とする地域であることで納得がいく。

 「満足していますか」という問いに対しては「非常に不満だ」八%、「やや不満だ」二四%となっている。こうした声は近畿と関東に目立ち、とりわけ都市の規模の大きい東京や大阪を中心に不満が大きいという。三人に一人は「飲料水に不満あり」と訴えているのである。

 毎日否応なく口にする水だけに、その不満は切実である。しかしそれは、単に「味のまずさ」「不快な臭い」だけにはとどまらない。「消毒剤による発ガンの可能性」を指摘した人が二一%にものぼっている。「不満」どころか、健康への「不安」が高まっているのである。

 こうした不安を、取り越し苦労としてすませてしまうわけにはいかない。人間が持ち合わせている「生命の根源」からの不安が、先の新聞の調査結果にもあらわれていると考えるべきである。

 そんななかで着実に売り上げをのばしているのが家庭用浄水器であろう。馬鹿売れだそうである。業界の推定によると市場規模は昨年度で二〇〇万台、今年度はさらに一〇〇万台を上乗せする勢いだそうだ。普及率は全国平均で一〇%程度。今後は大都市から地方都市にも普及していくという見通しを持っているそうである。一台一万円程度。かりに三〇〇万台売れたとすると、じつに三〇〇億円。しかも、浄化装置のフィルター部分の付け替えが定期的に必要になるから、相手が水だけに「汲めども尽きぬ」市場というわけだ。

 このほか、「煮沸法」「汲み置き法」「曝気法」「氷結法」などを駆使して「いい水」「安全な水」を得ようと努力したり、「ミネラルウォーター」を毎日購入して使っている人もいるのだ。一九九〇年、国民一人当たりのミネラルウォーターの消費量は年間一.八l(アメリカは三〇.六l)。しかし、ここ五年間は平均二六%の勢いで消費量が伸びているそうで、ミネラルウォーターの大手製造メーカー、サントリーでは、数年後にはイギリス並み(五.八l)になると予想しているそうである。

水の悪化が生みだす生きものの不健康

 先に「水への不安」は「生命の根源からの不安だ」と書いた。人間の体重の六〇%は水(成人男子の場合)。赤ちゃんの場合、その比率は八〇%にものぼる。植物の体の中の水は人間よりも多く、その八〇〜九〇%を占める。その水を通して、生きものは養分を吸収し、養分を体の中で移動させて個々の細胞の代謝を行なっている。その水の質が悪くて、動物や植物の生命になんらの影響もないと考えるほうがどうかしている。

 実際、水道水や井戸水を磁気処理したり、電気分解したり、静電気や超音波を当てたり、岩石やセラミックや炭を通した水(原理的には家庭用浄水器と同じ)を利用している人たちから、最近、次のような例がたくさん報告されている(七月号も参照)。

 水を代えたら「長年苦しんできた、こどものアトピー性皮膚炎が治った」とか「体調がよくなった」、「体の痛みが消えた」……。そうした変化は人間の場合だけにはとどまらない。

 家畜に飲ませたら「病気にかかりにくくなった」とか、「発情がはっきりしてきた」「受胎がよくなった」「ふんの臭いがなくなった」「肉質がよくなった」……。植物でも「味がよくなった」「病気にかかりにくくなった」「花の色がよくなった」「出穂が早まった」……。

 水を代えることに取り組んだ人たちに共通していることは、家畜や作物にその水を与えるだけでなく、自分自身がその水を飲み、自分自身の体の変化も含めて、その違いを感じ取っている人がほとんどだということである。

 なぜそうした変化が起こるかについて、本誌では「水のクラスター(水の分子集団)」が小さくなり、養分の吸収、体内の代謝をよくするからだ、と書いた。そして「おいしい水」は、「水のクラスターが小さいものに多い」とも書いた。紹介した水の処理法は、水のクラスターを小さくする働きをしてくれるのだ。

 しかし、こうした水道水の蛇口から出てくる水の浄化への努力も、飲用に取水する川の水質、井戸にしみだしてくる地下水の性質への関心なしには報いられない時代に入っていることを知るべきである。

 なぜか?

 一つには生活雑排水や屎尿《しにょう》、工場廃水などを流すことによって河川や井戸の汚染が急速に進んでいること、もう一つは、より根源的ともいえる「おいしい水」をつくり出す森林や山の破壊である。さらには土の表面をコンクリートで覆い、大きな川から小さな川まで土手と川底をコンクリートで囲って隔離したことも、もともと自然自身が持っていた水の浄化能力を衰えさせることに拍車をかけている。そのことが知らず知らずのうちに飲料水の質を低下させ、人間のからだだけでなく、家畜、植物の健全な育ちを妨げていたのである。

「きれいな水」を取り戻す

 これほどまでに悪化した水を、再びかつての「きれいな水」「おいしい水」にしていくことが可能なのだろうか?「できる」と断言したい。そのことを、全国各地で始まっている水の取り戻しの動きに探ってみよう。

▼ホタルが戻ってきた川

 

 長野県戸倉町――島崎藤村が歌に残した千曲川に隣接する町である。

 この町では独自に川の浄化に取り組んだ。使わなくなった昔の小さな農業用水路に川の水を引き込み、そこにもともとあった自然を残した親水公園を作ってホタルを呼び寄せた。

 かつて藤村がうたったあの清冽な千曲川の流れも、ご多分に漏れず河川の汚れはすすんできていた。この町の農業用水は今、千曲川から今井用水を通じて田圃に運ばれる。その水もまた、汚れていた。なんとかきれいな水に戻すことはできないものか。そうして考えだされたのが、川に礫と木炭を埋けこみ、水を浄化する方法であった。

 礫と木炭、その二つの層を通過した昔の農業用水路の水は見事に澄んだ水に変身した。まさに、藤村がうたった清冽な水が町に戻ってきたのである。と同時に、この用水路にはカワニナ、マキガイが住みつき、それをエサにするホタルが戻ってきた。

 「夜になると、ポツンポツンと光が見え始めました。これからの時期、もっとふえていくはず」と、まわりの人も楽しみにし始めたという。きっと、ふるさとになにかを求めてラッシュにもまれながら帰省する孫たちも、毎晩のようにその親水公園へ行こうと、せがむにちがいない。

 今、町を流れる川を、いかにしてきれいな川に戻すか、同じ方法で試行錯誤が続けられている。「流し台から消えたら、水よ、はい、さようなら」としないために(今月号の炭の特集参照)。

 ホタルを呼び戻した戸倉町の行為は、とりもなおさず、町にかつてのきれいな「水」を取り戻す行為であった。そしてそれは、特殊な資材が必要なのではなく、町で焼かれた「炭」であったことにも注目したい。

■屎尿を「飲める水」に変えた町

 福岡県久山町――この町では、一六年前、全国に先駆けて厚生省の排水基準を大きく上回る厳しい基準を設けた。問題は、その基準をクリヤーする浄化施設をどうするかだったという。その結果、町は炭を活かした独自の浄化槽を採用。その設置によって、屎尿は「人間が飲める水」に変わった。川に帰る水は、すべてこの水だ。この町を訪れた人は、かならずその水を試飲させられるのだという。

 「水は生命の源だから、使う前の状態に戻して川に流す。それだけでなくて、水を浄化する力がある山と緑を守らなければなりません」

 小早川町長の弁である(七〇ページ参照)。

 汚れた水を浄化する方法は、炭だけとは限らない。ゼオライトなど吸着力の強い岩石もまた、水質浄化に大きな働きをしてくれる。

 しかし、そもそも水のよさとはなんなのだろうか?

そもそも「いい水」とはなにか?

 日本一品質がよい昆布がとれることで知られている、北海道の噴火湾。室蘭市のチキウ岬と対岸の鹿部村に囲まれた、海岸線約二〇〇キロの湾である。ここで採れる昆布は、古く江戸時代から将軍家への献上物として使われてきた。ところが、その中でも極上の昆布が採れるのは、森町から少し南に下った南鹿部村の海岸沿いのほんのわずかな地域にすぎないというのである。

 長い間、その理由はわからなかった。おそらく、親潮、対馬暖流、黒潮が流れこんでくる深い海、そして背後に控える駒ヶ岳から注ぎ込む水が昆布の生育にいい影響を与えているのだろう、という解釈がなされてきた。しかし最近、もう一つ異なった角度からの指摘がなされ始めた。それは漁場に迫り出した岩石の種類による、という見解である。

 この南鹿部村の一帯だけが、火山の噴火で地殻深部から吹き出した溶岩が地上で固まった流紋岩でできているというのだ。その他の海岸線は、同じ火山岩でも安山岩という性質の違う岩石。その違いが貝や海藻の生育に影響を与えているのではないかというのである。

 ホタテの養殖でも知られるこの噴火湾一帯の漁民の人たちは、その岩石への着目から、今いちばんの問題であるホタテの貝毒(ホタテの組織内に蓄積される麻痺性および下痢性の毒)の対策に岩石を活かせないかと、北海道大学の海藻研究所、漁協、農協、町の力をあわせて研究を開始した。その結果、実におもしろいことがわかってきたのである。

 品質のいい昆布がとれるところの岩石や、魚がよく採れるあたりの岩石などから抽出した液の中に、貝毒で弱ったホタテを入れてやると、ちょうど人間がリハビリを受けたようなもので、それまではじっとしていたホタテが活発にフンをし始め、元気を回復していく。しかも、その期間中、これまでは水温を上げ、オゾンを加えて殺菌しなければならなかったのに、この液のなかに入れたホタテには貝毒対策がまったく必要なくなったという。

 「ホタテにとって、海のなかの環境が相当悪くなっていたんでしょう。当たり前のことですが、これからは昆布や貝が元気に育つ環境をどうつくっていくかが養殖の大きな課題だと思い知らされました」と関係者。

 このことは、長い時間をかけて岩石はその種類によって独自のミネラル(鉱物)を水のなかに溶かし出し、昆布やホタテ貝をよりよく育てていたのだと考えられないだろうか。

 「畑の植物と、貝などの海のものとでは、岩石との相性が違うようです。それを発見していくことが、私たち人間の知恵なんです。ようく、周りの岩や石ころ、そこに育つ木々や、生えている動植物を見てご覧なさい。いろんなことを教えてくれていますよ」

 岩石の研究からホタテ貝の貝毒克服の糸口を探しだした川田薫さん(二三八ページ参照)は語る。

 これまで、ホタテ貝養殖に取り組む人たちは、ホタテしか眼中になかった。昆布を採る人は、昆布しか眼中になかった。しかしこの経験を経て、そこに生きる人たちの見方が変わっていった。貝や昆布を育てるとは、水を守り育てることであるという認識である。現在、山に木を植えて水を涵養し、山から海へ流れ出す水もよくしていこうではないか、という話も出始めているという。

 いい水とは、なんの混じり気もない純粋な水のことではない。土が放出するミネラル、岩石が放出するミネラル、種々の植物の生理活性物質が溶けこんだ水、それらが複雑に混じりあった水、その水こそが生きものを育てていく力を持った水なのである。

「いい水を守る」ことは「農林業を守る」こと

 生きものを育てる水は、人間も加わった複雑な自然が作り出したものである。

 富山和子さんは『現代農業別冊 米の輸入』の中でこう語っている。

 「水は森林と水田がつくってきたのです」

 日本はもともと水資源小国。それを「水の豊かな国」とまで錯覚させているのは、水田があるからなのだ。人口一人当たりの降水量でみると、日本は世界平均の五分の一だということをご存じだろうか。水田は雨水を涵養し、洪水を出さずに長い道程にわたって水を利用できるシステムを生み出したのである。その道程で水は、客土された水田の土に触れてミネラルを受け取り、施された山の落葉や敷き草からは生理活性物質を受け取る。山からの水は川に入り、水田で浄化されて、さらに下流へと向かって流れていく。

 富山さんは、こうも語っている。

 「自然を守るには、自然を守る人を守らねばならない。緑を守るなら木を使おう。緑をほしいならお米を食べよう。これはみな一緒です。水がほしいなら、木を使い、米を食べよう」と。

 山も川も海も、じつは水を介してみなつながっている。農業はどうでもいいから人間が飲む水だけ「おいしくて安全なものを」というのも、農業だけがよくて「あとの水のことは知りませんよ」というのも、人間にとっての「いい水」を守ることにはならないし、作物にとっての「いい水」を守ることにもならない。「水を守ること」は「農業を守ること」であり、「農業を守ること」は「水を守ること」でもあるのだ。コメ自由化で田んぼを壊したら、もはやヨーロッパのどこかの国のように、水はすべてボトル入りを買うしかなくなるだろう。

 とりあえずは「家庭用浄水器」や「農業用の水を代える資材」を使うのもやむをえないのかもしれない。しかし、水がはらむ真の問題には、農林業で生きる人々の営為が深くかかわっていることを忘れてはならない。

(農文協論説委員会)

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