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農文協トップ主張 1992年02月

「高齢化=農業衰退論」は誤まりだ
「高齢化」は新しい技術革新の始まりである

目次

◆高齢化したからできる品質向上
◆「高齢化」したからできる有畜輪作経営
◆高齢化を逆手にとるさまざまな試み
◆進む「人生80年」にふさわしい技術の創造
◆もう1つの技術革新が未来をひらく

 農業の現状や先行きをめぐって、このところマスコミが盛んにとり上げている。長雨、台風がもたらした野菜の不作そして高騰、それにコメの関税化をめぐるガット農業交渉もあって農業のことが大きく話題、議論になっているのだが、そこで描かれる農業の実情の多くは農家の後継者難であり高齢化であり、つまりは農業は衰退に向かっているということである。野菜についていえば、不作になれば高値になるのは昔ながらのことだが、そうした一時的なものではなく、高齢化の進行にともなう野菜生産の低下がその背景にあるというのが大方の見方だ。農家の高齢化と新規就業者の減少→農業の衰退という図式である。

 だが本当だろうか。高齢化の進行は農業、農村の衰退に直結するものなのか、私たちはそうは思わない。私たちが農家の方々と接していて感じるのは、むしろ新しい活気が生まれつつあるし、生むことができるということである。

 新年を迎えて、その新しい活力に学びたい。

“高齢化”したからできる品質向上

 農家の高齢化は「栽培管理の粗放化」と「地域社会の活力低下」を招くとよくいわれる。なんら疑問をはさむ余地がないほど常識化してしまった言い方だが、そうだろうか。まず、本誌の一昨年十二月の特集「続・50歳代は思案のしどき」にご寄稿いただいた二人の農家に再度ご登場いただき、考えてみよう。

 宮崎県の村田良雄さん(60歳)は、将来のことを考えてミカンからウメ、モモへと樹種転換を図ってきた。村田さんは、今後の自分の農業について次のように語っている。「もし、私たちの果樹経営で労力が足りなくなれば、一樹四本ある主枝を一本ずつ伐れば済む。収量は少し減っても、空間をもうけたことで品質が向上すれば、差し引きオツリがこよう。

 実質的には面積が減ったことと同じだが、耕地管理の面では他の手段より有利だ。現在でも私は、スモモの栽植本数を人の半分にしている。それでも秀品率九〇%だから、労力なくして収益は他と変わらない。いや、半分の栽植本数なら管理、生産費も半分だ。ならばこちら熟年のやり方のほうに軍配が上がろう」

 これを「栽培管理の粗放化」とだれがいえよう。樹の力を充分に生かし、省力化を図りつつ高品質生産を実施するのだから、むしろ「栽培管理の高度化」といったほうがふさわしい。「規模拡大、近代化に疲れた人々を百姓の基本に立ち返らせ、『小さくても百姓は食ってゆける』を実証してみせるのが、五〇歳代、六〇歳代の心意気ではないだろうか」という村田さんには、年をとるから農業を縮小するといった気持ちはない。

高齢化したからできる有畜輪作経営

 大規模畑作経営でジャガイモ、小麦、タマネギなどをつくってきた北海道の久保一夫さん(62歳)の場合はこうである。息子さんがサラリーマンになり、これまでどおりのやり方がむりになってきたのを契機として、農薬を何度もかけ土にムリをかけてきたこれまでの農業を変えることにしたのである。

 「まず、私は汚染ほ場の改良を思い立ち、六年前から緬羊を導入し始めた。そして一反歩当たりに三頭ずつ放牧して、改良効果を見究めてきた。その結果、当初取り組んだ二、三反の畑の土が改良され、すばらしい土地となった。ここには、来年から自給食品の作付けを計画している。次の段階は、やはり緬羊を放牧してその堆肥と緑肥とを組み合わせ、化学肥料や農薬は一切使わない六反歩の自家食品生産畑の造成である。

 残余の九町歩は、三分割して三年に一度の耕作とする。二年は緑肥を作って休耕し、小麦・高級菜豆の減肥耕作で地力の回復を図る。サラリーマンになった息子がこれを担当しそうである。

 久保さんが行なったのはまさに「有畜複合経営」への転換であり「輪作農業」の確立である。畑の三分の二の休耕(緑肥作物)は土つくりの一つの方法なのだから、「粗放化」ということはできない。

 日本の畑で輪作が行なわれにくいのも、家畜の飼料自給がしにくいのも、経営面積が少ないからだと、農業経営学の先生方がよくいう。しかし久保さんの場合、規模拡大ではなく、高齢化がその条件をつくった。労力に対し相対的に耕地面積が大きくなり、その分、土地利用の自由度が高まったともいえる。一方で久保さんは、子孫の将来のために松林二町歩を造成したいと考えている。労力がありお金もたくさん必要なころにはムリだった子孫への財産づくりができる。その松林は少なくなった地域の防風林としての役割も果たすだろう。

 農業を食糧生産とみれば、久保さんの農業は縮小したと映るかもしれない。しかし、自給用にと野菜や鶏、羊を飼い、羊毛加工もやりたいと考えている久保さんにとっては、家族のための食糧生産はずっと豊かになる。そのうえ、改良された土で小麦や高級菜豆をつくり販売もするのだから、食糧生産にしぼってみても、後退とはいえない。

 また久保さんのやり方を「ホビー農業」だとするのもあたらない。農業を縮小して趣味に生きるのではなく、「今こそ四〇年の『農』の経験と知識をフル回転させるとき」なのである。「畜肥、地力、人智力の循環農法によって、わが農歴の有終の美を飾りたい」というのが久保さんの目標だ。

“高級化”を逆手にとるさまざまな試み

 村田さんや久保さんの生き方に、いわゆる「老人問題」はない。都会に比べて農村は高齢化が二〇年先行しているといわれるが、高齢化はしても老人の存在が問題になることがないのが、農村の本来の姿である。土地があり、自分の身体にあった仕事があり、そこで暮らしが成り立つ。定年がないというだけでなく、土地の生かし方、作物の育て方には、村田さんや久保さんがいうようにいろいろな形があり、自分の身体にあわせて仕事を変えることができるのである。

 問題があるとすれば、高齢化してもやりがいをもって農業を続けられる条件整備が立ち遅れていることだ。「人生五〇年」から「人生八〇年」に変わったのに、それにふさわしい社会ができていない――そこが問題の核心である。だが、問題を問題として嘆く時ではないことを、各地のさまざまな動きが教えてくれる。衰退に向かっているといわれる農業に、今、新しい活気が生まれている。

 たとえば青空市や朝市が全国的に盛んになってきた。その数は定かではないが、無人市のようなものまで含めると膨大な数に及ぶ。気軽に出荷できて手間稼ぎできるのがいい。

 嫁が朝市に出荷するようになって、ばあちゃんの野菜つくりに熱が入ってきた。これまで利用されなかった半端ものまで嫁が売ってくれるので、嫁さんへの評価も高まり、ばあちゃんも気分がいい――そんな話があちこちできかれる。

 市場出荷でも、手間のかかる出荷の規格をゆるくしようという動きがでてきた。福島県のある農協では、体がきつくなってきた農家のために、キュウリの規格を九段階から四段階に簡素化して流通させる実験をした。その結果は選果労力が半減、「何段階にも規格が分かれていると選果の仕事にあきてきて眠たくなってしまう。四段階なら仕事が早い」と農家には好評だ。

 もっとも逆のやり方もある。高知でのナス産地での話だが、ここでは高齢化が進む中で品種を小ナスに変え、選果を徹底して料亭むきの超高級品として売っている。

 やりようはいろいろだ。そして、いろいろやれる条件整備があれば、農業に衰退はない。大型産地、大型流通だけでなく、多様な売り方、流通を発展させることが、野菜つくりに活気をもたらす。

進む「人生八〇年」にふさわしい技術の創造

 売り方、流通面だけでなく、人生八〇年にふさわしい栽培技術面も求められる。果樹経営なら村田さんのように樹種転換や疎植化が有力な一方法であり、畑なら久保さんのように商品作物を減らして輪作を組むやり方もある。働きざかりの時には土や作物にムリをかけてきた面があるから、ムリと手間は省き「実益」を大きくするというやり方が、いろいろあるだろう。工夫のしどころである。

 さらに、人生八〇年にあった新しい技術の開発も盛んになってきた。それも、高齢化に向かう農家の旺盛な研究心によってである。

 本誌でおなじみの兵庫県・井原豊さんは六二歳だから、まずは「高齢化」の域に入りつつあるひとである。昨年、「ダイズの飽水栽培」に取り組み、ふつうならまん化してしまう品種で良質のダイズをドッサリとった。田んぼに水を入れて作る方法で、井原さんにいわせれば、「アゼマメの応用」ということになる。湿田でもダイズを、それも良質なものをつくれるということであり、水田高度利用は乾田化しなければできないというものではないということである。乾田化のためには新たな投資が必要だがさてどうするか、と思い悩む農家に、ちがった道をさし示している。

 普及員を退職して野菜つくりに励む水口文夫さん(六一歳)は「マルチムギ」なる新しい技術を発見した。本誌の紹介記事が大きな反響を生んでいる(九一年九、十一月号)。スイカやメロンのツルがはうところに、秋まき性の強いコムギの品種を春にまくやり方で、そうするとムギは成長するが実をつけずにそのまま枯れる。一方、生えたムギの上をスイカやメロンのツルがはうことになるが、どういうわけかムギの上に伸びたツルは伸びすぎない。しかも、わき芽も出ず、摘心が不要になる。病気も少ない。それでも着果、肥大は良好でみごとなものができる。かつての間作ムギを発展させた新しい技術で、省力効果が大変大きい。

 イネつくりでも、さまざまな「高齢者向け技術」が生まれている。秋田県大潟村でイネの不耕起栽培に取り組む山崎政弘さんのところへは、見学者が相次いでいるという。不耕起栽培三年目、収穫期に台風に見舞われたにもかかわらず、前年より増収した。耕さずにイネがつくれ、しかも残った根が土のすき間をふやし、湿田の土壌改良効果もあるというのだから、魅力は大きい。

 このいずれもが、高齢化に向かう農家、あるいは熟年の研究熱心によって確立してきた技術である。まだまだいろいろある。

もう一つの技術革新が未来をひらく

 高齢化の中の農業、栽培は、昔にもどることで成り立つのではない。昔とちがって、機械も資材もいろいろある。それを活用しながら高齢者の農業を成立させるのだ。なによりも機械の発達が、六〇代、七〇代の農業を可能にしている。ハウスが冬に暖かい仕事場を用意してくれる。先ほどの例でいうと、「マルチムギ」という品種開発が摘心がいらないスイカやメロン栽培を可能にし、不耕起田植機や除草剤が、不耕起イネつくりを可能にしている。

 高齢化の中でも農業がやれるように、機械や資材が進歩した。巨大な「技術革新」が農村において進行している。

 この技術革新の価値は、国際競争力をつけるなどといったところにあるのではない。競争の原理ではなく、高齢化の中で農業を続けられ、村で暮らしが成り立つ、そのための手段、条件として使われる時に、巨大な価値をもつのである。そして、村々で農業と暮らしが成り立つことが、都市の「老人問題」に示唆を与え、さらには平和的な、成熟した国際関係をも支えるのである。

 ところで、これまでの規模拡大のための技術革新は、農業の近代化は一方で農業にさまざまなゆがみをもたらしてきた。土や作物の力をそこなう面にも作用してきた。このゆがみを正すことについて、身をもってこの技術革新を体験し今日高齢化に向かっている世代の農家の役割は大きい。それこそ「経験と知識をフル回転」させればそれは可能であり、何よりも身体がそれを求めている。これまでの技術革新の成果を、人生八〇年時代にふさわしく改造する。新時代に向かうためのもう一つの技術革新である。

 ここで大事なことは、若者、働きざかりの人の技術は熟年、高齢者にはなじみにくいが、熟年、高齢者のために改造された技術は若者、働きざかりの農家にとっても、価値が大きいということである。土や作物を見ぬくことによって生まれた技術には、ムリ、ムダがないから、働きざかりの農家の経営にとっても学ぶことが多いのである。

 こうした技術の改善に加え、青空市などに象徴される売り方、流通の多様化が加われば、見通しはずっと明るくなる。未来が切りひらけてくる。

 高齢化してある程度はやれるとしても、その後はどうなるか、後継ぎがいないのだから結局は衰退してしまうのではないか、そんな声もあろう。しかし、人生八〇年時代にはそれにふさわしい今までとちがった後継ぎのしかたがある。会社を退職した息子が継ぐ、一つとんで孫が引き継ぐ、嫁さんががんばるなど、いろんな形がある。

 身体にあわせて技術の改善をはかりながら、満足のいく農業を続けていく、そのことが後継ぎづくりの条件にもなっていく。「衰退」の風潮に身をまかせることなく、今年も元気に暮らしたい。

(農文協論説委員会)

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