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農文協トップ主張 1992年12月

流れは変わった、自由貿易に未来はない
コメ市場開放拒否は天の声であり人の道である

目次

◆「ぎりぎり」ではなく「堂々」と
◆世界の食糧自立に貢献するコメ市場開放拒否論を
◆食糧と農業を自由貿易の論理に任せる時代は終わった
◆OECDも市場原理より環境重視へ
◆「つぎのガットはグリーン・ラウンド」 時代を動かす深部の力

 難航していたガット・ウルグアイ・ラウンド(多角的貿易交渉)が、年内決着をめざしあわただしい動きを示している。最大の難関となっていたアメリカとECの農業分野の対立(注)が、去る十月カナダで開かれた四極通商会議で「意見の相違は縮ま」(ヒルズ米USTR代表)り、年内合意へのメドをつけるため「今後数日間に米・ECが十分な進展を達成できる」(議長総括)との認識で一致したからだ。

(注)本誌三四〇ページの薄井寛氏の記事を参照されたい。

 そしてこの動きの中で、浮上してきたのが日本のコメ市場開放問題だ。

 渡部通産相は会議閉幕後、日本人記者団と会見し「コメの市場開放には応じられないという日本政府のぎりぎりの主張を貫いていく」としながら、「日本は世界で最も自由貿易の恩恵を受けてきた。日本だけの問題で新ラウンドの年内合意ができないとなれば、日本にとって自殺となる」とし、多国間交渉がヤマ場を迎える「十二月初めには政治決断を迫られる」との見通しも明らかにした(以上、10月19日付各紙夕刊)。

 そしてさらに、「コメ問題に関する日本の立場は、これまで対立を続けてきたアメリカとECがどういう形で合意に達するかによって大きく変わると指摘。米・ECが昨年末にダンケル・ガット事務局長が提示した包括協定案と異なる内容で合意したばあいは『日本の立場は強くなるし、逆になれば弱くなる』と語った」(「日経」10月19日付夕刊)。

 ダンケル事務局長が提示した包括協定案とは、農産物貿易に関しては要するに一切の貿易を自由化し、“障壁”は関税一本化し、それも漸次なくしていくという、いわゆる「例外なき関税化」の案である。

 渡部通産相がいうように、四極通商会議で「前進」をみたとはいえ、ウ・ラウンドが最終的にどのような決着に至るかは、いまだ予測の域を出ない。一方でEC最大の農業国フランスは自国農業の保護に頑強な態度を崩さず、他方、豪、加、ブラジルなどケアンズ・グループはアメリカの対ECへの“安易な妥協”に警戒の色を強めているという。ケアンズ・グループにすれば、大統領選で劣勢を伝えられるブッシュ政権の点数稼ぎのために米・EC間の輸出補助金合戦を妥協的に解決することによってウ・ラウンドの決着をつけられることは、グループの輸出市場を狭めるものとして許されないからだ。交渉の成りゆきはまだまだ流動的要素が多く、ダンケル協定案で妥結できるのかどうか、一寸先は闇ともいえる。

“ぎりぎり”でなく“堂々”と

 しかし、いま日本が成すべきことは、このような米・EC間の交渉に一喜一憂することではない。ダンケル案に落ちつくのか否かを見守ることでもない。いわんや、それによって十二月初めにコメ問題の“政治決断”を迫られるという受身の姿勢で過ごすことではない。ウ・ラウンド農業交渉が、どのような落ち着き先を見出そうと、コメの市場開放には応じられないという主張を「ぎりぎり」(渡部通産相)のそれとしてではなく、堂々と、高い見地から展開することだ。

 コメ市場の開放拒否を“ぎりぎりの主張”などということは、新しい貿易ルールがつくられつつあるとき、その本質的意味には同意しつつ、コメだけは例外にしてくださいという、弱い、後ろ向きの、説得力のない嘆願でしかない。このような主張が国際的に通用するハズがない。いま求められているのは、旧態依然たる輸出補助金合戦に象徴される世界の農産物貿易のあり様を根本から変えていくための、高い見地からのコメ市場開放拒否論を展開することなのだ。高い見地からとは何か。

世界の食糧自立に貢献するコメ市場開放拒否論を

 第一にそれは、コメ市場の開放を拒むことを“お家の事情”を理由に言うのでなく、世界各国の食糧自立を高める国際的見地から主張することだ。

 こんにち世界人類が直面する食糧・農業の焦眉の課題は、アメリカとEC間、もしくはそれにケアンズ・グループをまじえた三大輸出国・圏間の新しい輸出秩序づくりではない。北における過剰と南における飢餓が同時に存在することだ。人類がはるかかなたの宇宙に遊泳するこんにちなお、アフリカをはじめとする南の途上国で日々、幾百千万という人びとが飢えに苦しみ、幼な子が次つぎと餓死しているということだ。

 先進国における過剰と途上国における飢餓。これはもとをただせば、旧植民地に独立を与える代わりに輸出換金作物に特化した非食糧のモノカルチャー農業を押しつけた先進国の責任だ。途上国は、もともと食糧にこと欠いていたのではない。アフリカにしろアジアにしろそれぞれの風土に合った食糧農産物が豊富にあった国々だ。それが、戦後、先進国の食糧輸出と工業主導の新たな開発投資の標的にされ、その外貨を手っ取り早く稼ぎ出すために輸出換金作物に農地を譲らされ、食糧生産を片スミの劣等地に追い込まされてしまったのである(この間の経緯およびその後の悪循環については犬塚昭治「なぜ食糧自給の世界化が必要か」『現代農業別冊・こうしたらどうですか新農政』92年10月刊に詳しい)。

 途上国の飢餓と歪んだ農業はこうしてつくり出された。

 他方、過剰に悩む先進国の実態はどうか。

「過去半世紀、アメリカの農業政策は一貫して品目別の価格政策を柱として進めてきました。その結果技術革新により生産力が拡大し、やがて過剰問題と巨額の財政負担が生じてきたのです。ところが、いくら政府の補助金を増やしても、いっこうに農家の所得問題は解決しない。そればかりか多くの家族農場はますます脅かされ、自立性を失っているのが現状です。そして農家数の減少とともに農村の多くは疲れ、コミュニティ機能が失われてきた。これが、いま我々が直面する最大の農業・農村問題なのです。」(アメリカ農務省経済調査局ディーバース部長、『現代農業別冊・世界の農政は今』所収・嘉田良平「ブッシュ政権化のアメリカ農政の課題」より)

 農産物は豊富にあっても農家は没落し、むらは壊れ、土が荒れていく。農村政策なき農業政策、輸出企業本位の産業としての農業政策一辺倒のツケに、いまアメリカ農民はあえいでいるのである。

 一方における飢餓と他方における過剰のもとでの農家の疲弊。これは、ひとえに食糧農産物を、商品として、儲けの手段としてのみ位置づけ、ひたすらその売り込み合戦に血道をあげてきた必然的産物なのである。いま日本が、輸出補助金合戦の帰趨にコメ市場開放問題の行き末を委ねることは、このような構造の拡大再生産に手を貸す以外の何ものでもないだろう。

 コメ市場開放拒否の主張は、輸出に特化して農家、農村、大地を荒らす先進国農業や、食糧を欠落した途上国農業をともに改め、各国がそれぞれの風土に合った食糧自給を達成し、あるいは環境と調和する農業・農村づくりに範を垂れる、国際的意義のある主張として展開されなければならない。日本のコメと水田ほどその任にふさわしい象徴的存在はないのである。

食糧と農業を自由貿易の論理に任せる時代は終わった

 コメ市場開放拒否の主張を高い見地から展開する第二の論点は、自由貿易の原則の見直しだ。今日、アメリカ、ECなど先進国が農業貿易をめぐっていがみ合っているのも、お互い相手の農業保護や輸出補助金を、市場原理を歪め自由で公正な市場参入を阻止している元凶だとの主張に基づいている。そしてこれに何らかの決着をつけ、早晩「例外なき関税化」という形で世界の農産物貿易をより完全な自由貿易に近づけ、その流れに日本のコメも巻き込もうというのである。この主張は、当然、ECよりも日本のコメ市場をコジあけたいアメリカのほうが強硬だ。

 たがしかし、この自由貿易の原則の徹底の果てに世界の食糧・農業の未来はない。

 自由貿易の原則とは市場原理の国際化なのだが、その市場原利はそもそも「形態的処理を本質とするその性格ゆえに、短期的判断をなしうる物理・化学の無機的技術に適合的であって、長期的判断を要する生物学的有機的技術には向いていない」(犬塚、前掲論文『現代農業別冊・こうしたらどうですか新農政』所収)のである。どんな土地の上でもモノ、ヒト、カネを備えれば生産できる工業に対して、食糧・農業はそれぞれの国、地域の風土の上に成り立つ。そしてその基盤たる風土は、輸出も輸入もできないのである。この単純な事実を無視しあるいは忘れて農産物貿易の拡大をめざすところに根本の誤りがあるのである。

 日本が「世界で最も自由貿易の恩恵を受けてきた」国であることはたしかだ。だが、その恩返しをコメ市場を開放することや他国の農産物を買い増すことで成し遂げようというのはおカド違いというほかない。まさに「経済力にまかせて食料輸入を拡大し、国内生産を縮小されていくことについては、食料輸入発展途上国の食料調達を困難にするもの」であり、「農産物の輸出は土壌と水の輸出であり、輸出国自身の環境破壊を助長するもの、などの国際的批判を惹起するおそれがある」(農水省「新しい食料・農業・農村政策の方向」)のである。したがって、恩返しや国際貢献は、「日本の立地条件がいかに農業生産に適しているか」を見直し「二本が一定の農業生産を継続あるいは維持」することが「国際的にみても望まれている」(農水省入澤肇構造改善局長、前掲『こうしたらどうですか断農政』14〜15ページ)という認識で取り組むのが本筋なのだ。

 国際化時代の今日、人類はいま、食糧・農業を自由貿易の原理の呪縛から解放する課題に直面しているのであり、そのような文脈でコメ市場開放拒否の主張もまた展開しなければならない責務を、日本は負っているのである。

OECDも市場原理より環境重視へ

 ウ・ラウンド農業交渉が、市場原理に基づく旧態依然たる農産物売り込み合戦に興じている一方で、世界の思潮に新しい息吹きが生じつつあるのも最近の特徴だ。「効率から環境へ」とか「農業政策と環境政策の一体化」を求める動きが草の根レベルの農民、市民からわきおこり、ついには先進国クラブともいうべきOECD(経済協力開発機構)の主要議題にまでのぼってきたのである。

 今年の二月、OECD環境委員会が主催した「持続的農業ワークショップ」にNGO(非政府組織)代表の一員として、日本の農家として初めて参加した金子美登さんは、その模様を次のように報告されている。

「今、OECD内では私たちが参加した『技術と環境』部会のほかに『環境と貿易』『開発と環境』『環境と税制』など環境と既存委員会との合同会合が目白押しであった」

「一九九〇年、ペイユ事務局長のまとめた中期戦略目標ペーパーによると、今後は経済成長重視の陰で忘れ去られて問題が生じた領域、環境、農村地域開発、都市社会問題などに重点を移す、と述べているように、OECDは確実に従来の方向を大きく転換し始めている」(本誌92年8月号)

 そしてこれを裏づけるように今年の六月、OECD事務局は「いま、農業と環境という相互の関係が問われている」という書き出しで、大要つぎのようなリポートを発表し世に問うた(「農業と環境・一九九二OECDリポート」、以下、農水省経済局国際企画課鮫島信行氏らの訳による。近く農文協から刊行予定)。

 まず初めに、「農業改革は、貿易の自由化と環境上の目的の双方を出来るかぎり同時に前進させるものであるべき」としつつも、「場合によっては、競合する目的間でトレードオフも厭わない」と断じ、「農業政策と環境政策がより緊密なものとして一体化され、環境的により持続性のある農業が行なわれるような措置が講じられるべきである」と述べている。

 これは、自由貿易の原理を一般的には否定しないが、特殊農業的にはヨリ環境にシフトしたスタンスをとるべきだとする宣言であろう。食糧・農業を輸出競争力の強化においてのみ位置づけ展開してきた先進国のあり様に対する、これは先進国内部からの反省と自己批判である。

 そして、「政策の一体化にあたっての目標と原則」という項で「持続可能性の確保という目標に関しては、相互に関連した次の三つの視点を挙げることができる」として、「(1)持続可能性とは、将来のあるいは世代を超えた豊かさにとっての公平さである」

 そして、それを可能にし「(2)持続可能性を達成するためには、公的な判断においても、また個々の農家の判断においても、環境の質や量に本来与えられるべき価格(シャドウプライス)が考慮されなければならず」、かつそのシャドウプライスとは「市場性があるかどうかということとは直接かかわりがない」。

 そのためにも「(3)非代替的、非可逆的な環境資産の保全は、自然資源基盤にとって極めて重要な意味をもつ」──。

 豊かさは、将来にわたって享受できる持続可能なものでなければならず、それは市場性に目を眩まされて判断してはならないものであり、非代替的、非可逆的な自然資産の保全を前提として成り立つものである。こうリポートは主張しているのである。以下「より具体的な指針」を詳細に展開しているが、残念ながら省略せざるを得ない。しかし、ほんの短い以上のさわりの引用によっても、この視点の確かさや見識の高さは十分にうかがい知ることができるであろう。

“つぎのガットはグリーン・ラウンド”時代を動かす深部の力

 金子さんは、先の報告を次のような感想で結んでいる。

「日本が米輸入を認めたところで日本たたきがなくなるはずがない。日本が孤立するというのは、レーザー光線的輸出とも呼ばれる工業製品による貿易黒字の一人占めによるものである。農民も消費者も工業界と穀物メジャーの戦略に踊らされる必要はない。間違いなく訪れる食糧危機を前に、目の前の環境、山河と、数千年も続いてきた水田という宝を守ること、その大切さをつくづくと感じるばかりであった。……次回のガットは、おそらく、グリーン・ラウンドと呼ばれるだろう。」

 去る九月でまる六年を越えたウルグアイ・ラウンド農業交渉。その長期にわたる難航ぶりを顧みると、もはや市場原理と自由貿易という従来型の思想と手法では矛盾と混乱、国際間のあつれきを増すばかりであることに気づくべきである。

 果てしない輸出競争は途上国の飢餓も、先進国の農家・農村・環境破壊も解決せず、むしろ深めるだけのものであった。逆にいえば、そのようなマイナス面を正視し、輸出至上農業に反対し、低投入環境持続的農業を模索しようという運動と時代の潮流がOECDまで動かし、ウ・ラウンドを難航させた深部の力なのかもしれない。

 流れは変わった。自由貿易の論理に未来はない。コメ市場開放拒否は、天の声であり人の道である。

 いま、この稿の最終校正をしているとき(十月二十二日午前七時)、ECとアメリカの実務者レベルの会談が突然中断されたというニュースが入りました。“天の声”によるものかどうかはわかりません。

(農文協論説委員会)

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