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農文協トップ主張 1997年8月号
97教育総合展の喜劇性と
巨大な意義

――地域と教育の再結合

目次
◆巨大な食べもの・農業教育ゾーンの誕生
◆自然・農業・食べものの循環を現物で表現
◆新しい教育の始まり
◆食べものを作る時間と空間に触れてこそ
◆地域の文化が教育を育んできた


◆巨大な食べもの・農業教育ゾーンの誕生

 7月23日から3日間、千葉県幕張メッセで開かれる第14回教育総合展は、日本の教育史上、一つの画期をつくろうとする主催者の決意にあふれたものだ。主催者は日本教育新聞社。学校の先生など教育関係者に24万人の読者を持つ教育界での大マスコミである。これまでの13回の総合展の中では、学校教育におけるパソコン導入・活用に向けて、ハード、ソフトメーカーを糾合してさまざまな展示を行なってきた。その力もあって、多くの小中高にパソコンが設置された。  この達成の上に、主催者としては次のステップは「食教育」ではないかと考えてきた。すなわち、パソコンを使える能力を育てることは教育の重要な柱の一つではあるけれども、もう一つ、子どもたちの「生きる力」を育てるには、食べものについての総合的な授業を成立させることが根幹ではないかという認識である。食べものについての教育は、必然的にそれを生み出す農業、水産業、あるいは環境教育につながる。社会科も国語も理科も家庭科も生活科も、何のために学ぶのか、それは、よりよく生きるためである、その根幹は食べることについての教育にある、と考えてきたわけである。
 そこで2年前から、教育総合展には、食べもの教育、環境教育のコーナーが出発し、今年の総合展では、出展企画の中で最大の面積(440平米)を使って「農は生きる力を育む食教育の素材の宝庫」と銘打った主催者展示ゾーンが誕生することになった(以下食教育ゾーンと呼ぶ、ゾーンとは区域の意味)。また、並行して「食べものと農業の授業はこんなにおもしろい!!――社会科・理科・国語科・技術家庭科の総合学習」と「地域のモノ・人を生かして生きる力の教材開発――生きる力の教育を支える農村空間」の二つのフォーラムが開かれることになった。
 この主催者展示である食教育ゾーンは、農水省が提唱し、企画を日本農業新聞と農文協が協力して行なうものである。こうして教育界と農業界の最大のマスコミである日本教育新聞、日本農業新聞、そして農業、健康、食べもの、教育の出版社である農文協がはじめて提携してこの企画を推進しているところに、教育というものが現代社会においてどのような位置にあるかを考える上での象徴的な意味がある。本来持っていた教育と農業の密接不可分の関係、すなわち地域教育と地域農業の関係が今の時代にもう一度浮上してきたのである。つき詰めれば、日本を地域から支えてきた農林漁家、農山漁村の文化(=生きる技)をして教育にかかわることが求められているということである。

◆自然・農業・食べものの循環を現物で表現

 では、食教育ゾーンの内容を簡単にご紹介しよう。食教育ゾーンは五つの構成よりなる。

1)山・川・田んぼと暮らしのゾーン

 ここでは、まず山と人間との関わりが展示される。広葉樹林への人間の働きかけ、そこからとれる食、薪炭、木酢など。木に巻き付くアケビを使って籠や調度品を作るネイチャーズクラフトの実演。腐植とミネラルを含んだ山林の水を集水した川が豊富な生き物を育て、田んぼをうるおして海に至るジオラマ展示。ミニ田んぼでは、タガメ、ドジョウ、メダカなどのいる豊かな水田生態系が展示される。

2)学校農園再発見ゾーン

 多くの学校に学校農園が設置されているが、地域の農家の協力を得ていないところでは、あまりうまくいっていない。ものがよくできないと先生も子どももそこに育つ作物(あるいは動物)に対する興味を失ってしまうことが多い。多収は農家のみならず学校農園でも必須の要素なのである。そこでこのゾーンを作った。
 二坪ばかりの竹林。そこで採取された土着菌。ボカシ肥作り。それを使って大収穫に至った学校の実践例。一方、学校の給食で出る生ゴミなどによくできた堆肥をサンドイッチ状に混ぜておくとよい方向の発酵分解を促進し、完成した生ゴミ堆肥を学校農園に使うとすばらしい作物ができることの展示。すばらしい卵と堆肥を生み出すウズラの飼い方の展示。また、おいしく多収の作物と、学校農園でよく見られる低収で病気がちの作物は何が違うのか、診断キットを使っての診断も実演される。
 天敵コーナーもある。アブラムシ、コナガ、アオムシなどの害虫と天敵の関係を見せる虫見箱である。学校農園で栽培してみたい変わった品種の展示、あるいは学校農園でできる「おもしろ農業実験」も展示される。

3)加工の技と味のゾーン

 ここでは日本の農家が蓄積してきたさまざまな加工の技が紹介される。ナタネからの油搾り、ワタの実からの糸紡ぎ。石臼で粉をひく。日本の小麦から作るパン、菓子。パンを膨らませる酵母を、天然の材料から採る方法。生きた麹カビの展示、さらには歯の健康と食の関係まで。

4)食と農のデータベース検索ゾーン

 農文協はじめ出版各社の食べもの、農業に関する出版物、「現代農業」や「日本の食生活全集」等をはじめデータベース検索で授業の教材作り等ができることが紹介される。

5)食教育プレゼンテーションシアター

 学校の先生に食べもの、農業教育の実践を提案してもらったり、あるいは農家やメーカーが自分はどういう農業をやっているのかなどが報告される。
 以上が食教育ゾーンの概要である。全国各地の農家、試験場、メーカー、学校の先生方の多大な協力でできあがる。

◆新しい教育の始まり

 こうして教育総合展では、何としても、できるだけ多くの現物にふれてもらいたいと考えている。地域にある食べものと地域の農業はいかに楽しくて奥深い教材の宝庫であるかを感じてもらいたいからである。つまり、地域の農林漁家の生き様、暮らしを作ってきた技が教育に結合するとき、授業は確実に楽しくなることを見てもらいたいからである。すでにそのような実践は各地で始まってきた。「増刊現代農業」8月号は特集「楽しいね!! 食べもの教育応援団」では、次のような例も多数特集している。
 千葉県四街道市の酪農家、中上昭喜さん(67歳)は地元の小学校などでイネ作り指導を務めて15年になる方だ。子どもとの出会いの最初の授業では、「みんなに米作りをしてもらうのは米の作り方を知ってもらうためではなく、食べものを作る大切さを感じてもらうためです」と話す。戦後開拓で当地に入り、食べること生きることの大変さや大事さを身をもって教えられたことを伝えながらイネを教える。校庭の一画の花壇二つをミニ水田に変えてイネを作っている旭小学校の塚本幸男教頭(44歳)は、「たしかに教科書では『日本の農業』と題して、農業が抱える問題を網羅的に扱っています。ところが、たとえ農家の子どもであっても、田んぼのイネも見ない。畑の野菜も見ない。これでは根がないなと思ったんです」。
 ビデオで見れば田植えから刈取りまで15分ですむが、実際にイネを作った生徒の次のような感想は生まれない。
 「私はおもちが大好きで、今までにたくさん食べてきました。でも、このおもちになる米が一年間という長い時間をかけ作られたということは、米作りをしてみて初めてわかりました。……それに、米をとった後のワラからもナワを作ったりして、無駄にしないところは、すばらしいなと思いました」  また、教科書に1行「自給率が低下しています」とあってそれを覚えるだけでは何にも残らない。しかし、中上さんが自分の開拓時代に何を食べていたか、食べるためにどんなに苦労したかの経験を交えながら自給率の低下について語ると、子どもたちはとても心配そうな面もちになるという。子どもの生き様に働きかけたのである。
 「普通の子どもは放っておくと社会科が嫌いになってしまうんです。しかし、農家の話を聞いたり、自分で作物を作るとがぜん面白くなってくる」と塚本教頭。先生も子どもたちも、生産と暮らしの技を持って地域で生き抜いてきた人々の語りかけを聞きたい。また、食べものが育ち作られる時間と空間に実感をもってかかわりたいのである。
 さて、まわりに五年生の社会科の教科書がある方は是非見ていただきたい。東京書籍という出版社の「新編 新しい社会 5上」の場合、「私たちの生活と食料生産」が第一章で四六ページを当てている。内容は「1米づくりのさかんな庄内平野 2野菜づくりのさかんな地域 3日本の農産物と耕地 4水産業のさかんな地域 5これからの食料生産」となっており、約2カ月間かけて学ぶ。このあと、第二章「私たちの生活と工業生産」、第三章「私たちの生活と運輸」、第四章「私たちの生活と情報」、第五章「私たちの生活と国土」と進んで五年生の社会科は終わるのである。これはたまたま五年生の場合であるが、すでに三年生からは農業の関係の授業がどんどん始まるのである。
 教科書を眺めていると心配になる。もし、先生が農家と交流がなく、あるいは作物を健康に育てたい気持ちや天候を心配する気持ちとの交流がなかったら、どうやって50ページ近くもある農業についての単元を教えるのだろうかと。あるいは、もし先生が、心を込めた農産物や加工品を消費者に喜んで食べてもらうことに農家はお金以上の喜びを感じるのであることがわからなく、あるいは今の農業は30年前とは違って65歳以上の農家と女性が支えているから、体に優しく従って自然にも環境にも優しいやりかたにどんどん変えようと思って頑張っていることがわからなかったら、どうやって現実の農業について教えられるのだろうかと。そのくらい、教科書は「難しい」のである。

◆食べものを作る時間と空間に触れてこそ

 東京のある小学校の四年生担当のK先生から電話が来た。
 「土着菌、どこで売ってますか? 新潟の小学校の学校農園で土着菌で二倍のサツマイモがとれたという記事を見て、そんなにとれるんなら子どもたちも喜ぶんじゃないかと思って電話しました」
 土着菌は地元の菌で、買う物ではないから土着菌なのだということを説明したのはもちろんだが、K先生は社会科を教えるのが大変だということを話しておられた。
 「落ちこぼれが出て当たり前なんです。教えるのも大変。本当はもっと感動を伝えたいんだけれど、自分も忙しさに追われてできない、わからないことだらけ。どうしても覚え込ませることになってしまう」
 単に生き物育てを体験すればいいという問題ではない。もちろん全部暗記していい点を取ればいいなどという問題ではさらにない。その地域で生き抜いてきたという農林漁家の本質、生きるためにこそ農林漁業があるという本質をどうつかんでもらうかという問題なのである。
 これも「増刊現代農業」に出てくる例であるが、東京墨田区の西吾嬬小学校では、五年生の授業で二坪弱の田んぼを作った。その前に、子ども自身に調べ学習させてみたそうである。子どもたちは「日本のお米の全品種、世界のお米の産地、親や近所の人は米の輸入をどう考えているかの聞き込み」など「大人もびっくりするくらいのパワーを発揮」したそうである。その上での二坪の田んぼである。教育委員会その他の支援で秋田県の大潟村の農家の苗を植えることになった。子どもたちは「米つくり実行委員会」を作った。「苗だけでなく、農家の人も来てくれたらいいなー」の声が大潟村に届き、田植えを指導してもらったのを皮切りにイネ作りはスタート。最後の刈取りは、子どもらのイネ作りを見続けていた、名前も知らない近所のおじさん(おそらく農家出身だろうという)が、カマの使い方、稲の束ね方、干し方を詳しく教えてくれた。  こうして多くの人に支えられたイネ作りの後、山形の田舎にいったある子どもは、親戚のイネ作りの様子を写真に撮り、聞き込みもしたという。親戚のイネ作りが自分と無関係ではないことを強く感じたからこそのことであろう。東京のど真ん中で、用水もなく、天水利用で最後はスズメとの戦いだった悪戦苦闘のイネ作りは、東京の子どもに農家のイネ作りから学ぼうとする感性を育てたのである。食べものを作るという空間・時間の中に身をおいてみること、農家と交流して本当の育てる技、生きる技に触れてみること、それが子どもの中にある農業を素直に理解する能力に火を灯すのである。

◆地域の文化が教育を育んできた

 全国5000人のおばあちゃんから聞き書きした「日本の食生活全集」(全50巻)は、化学肥料も化学農薬もほとんどない昭和初期の時代に、日本人は何をどのように入手し、加工し、保存して食べ生き抜いてきたかをあらわしたものである。他国にはない日本というかけがえのない自然、他地域にはないかけがえのない自分の村の固有の地域自然の中で、いかにして楽しく健康に生きるかを追求していた日本人の健康の原点、環境との関わりの原点、生き様の原点を、おばあちゃんたちは語ってくれている。
 「昔、飢饉のときには、一わんの味噌と山一つとが交換されたといい伝えられ、味噌が余っていても、毎年味噌を搗く習わしになっている。たいてい8人以上の大家族なので、ほとんどの家で大豆一斗を炊く。地主や船主はふるまいをしなければならないので、それ以上の味噌を搗く。」
[福井県/越前海岸の食/取材地=丹生郡越前町]
 「秋は、いわし、さば、きんかいわし、ひしこなどがたくさんとれる。このころになると、白子の網元の人が法螺貝をならして、「大漁やぞー、大漁やぞー」と大声で呼びにくる。その声を聞くと、稲生の人たちは、たも(網)とバケツを持って、白子の浜に向かって走る。このときばかりは、授業をしている小学校の先生も授業をやめて、生徒と一緒に魚をとりに浜に急ぐ。」 [三重県/伊勢平野の食/取材地=鈴鹿市]
 かつては、子どもらも先生も、地域の食べる文化、生きる文化を当たり前に学んでいた。食べものを食べさせてやりたいという親の慈愛を十二分に受けていた。農作業や漁の仕事が忙しいとき、学校は休むという形で地域産業が生きる根幹であることを子どもに教えていた。こうして地域文化を支え、それに支えられる交流関係が当たり前である学校で育った子どもらは、生きる技を身につけた地域の子どもとして育った。今、米の産直で町村出身者ルートに固有の販売ルートができるのも、その強力なつながりがあるからである。
 教育が、科学的知識というともすれば地域自然や地域の技術という個性的なものと無縁な普遍科学の立場にだけ立つとき、子どもらは地域が見えなくなる。見る必要がなくなる。お金がすべてになる。すべてがお金で買えるものに見えてくる。教育が、自分であるいは自分の地域で食べものを作ること、加工することの大切さの技と意味を教えずに一般栄養学を教えるだけなら、子どもは食べものはお金で買えばよいという考えになる。地域が見えなくなる。しかし、そのような脱地域的な教育は、画一的な大量生産・大量流通を担う労働力を育てることはできても、地域人を育てることはできない。
 とくに昭和30年代以降、農村の持っていた「自給」力は古いもの、封建的なものとして攻撃された。そこには、「自給」が地域自然との関係で生きること、すなわち地域自然を育て、育てられるという関係で生きるという根元的な感性を秘めていたことを無視して、単に食べものは消費材だとみる工業的な効率主義があった。教育との関係で言えば、それは「生きる力」への攻撃であったのである。しかしもはや、大量生産・大量流通を続ければよいという時代は終わった。農林漁家の全地域自然とのつきあい、すなわち地域自然を育て、育てられる中で培われる「自給」の感性によって、産業も流通も環境も、そして教育も再構築する時代に入ったのである。
 教育総合展が、何千万円もの費用をかけて首都圏のど真ん中に実現しようとしている食教育ゾーンは、すなわち、農林漁家の地域自然とつきあう技術であり感性の展示である。考えてみればまことにおかしなことではある。本来、地域には何の輸送費用をかけずとも、何の模型的な造作をしなくともすべてがあるのであるからいわば「喜劇的」である。しかし、それを教育総合展であえて表現しなければならないところに、地域と教育の乖離という20世紀の文明問題があり、それを今あえて表現しようと主催者が決意したところに、21世紀の新しい教育、すなわち地域と結合した教育に向けての象徴的な出発がある。
 97教育総合展に是非ご参加を。
(農文協論説委員会)


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