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農文協トップ主張2001年8月号

循環型農業とはなんだろう

 物質・エネルギー・生態系の3点セットからの脱却

目次
◆「豆田」と「瓜田」 田んぼのサイクル・リサイクル
◆田畑の区別は絶対的
◆棚田とは何だったのか
◆減反が始まったころ
◆循環のほんとうの意味

 リサイクルも大切だが、サイクルはもっと大切だと思う。

 サイクルはふつう、循環と訳される。一回りしてもとに戻り、それを何回でもくりかえすこと。循環バスとか血液循環とか、ぐるぐると回って、安定して活動しているようすを指すことばだ。

 リサイクルの方は、「リ」という接頭語には「再」という意味があるから、再循環ということになるけれど、これは必ずしも、ふたたび循環をはじめるわけではない。ぐるぐる回りではなく、そこが終点、おしまいのはずのものを、もとに戻す(あるいは別のものにする)ということだ。牛乳の紙パックで手づくりのハガキをつくる。台所のゴミ(廃棄物)から肥料をつくる。1度使った紙から再生紙をつくる。ある複写機メーカーでは回収した複写機を分解し、使える部品は生かし、プラスチックなどの外装品は砕いてペレットにし、それを再成形して使うリサイクル工場をつくったという。リサイクルは「再利用」と訳すのがふさわしいだろう。ひと昔前の日本語には「廃物利用」ということばもあった。

 こうしたリサイクルの試みが、わるいわけではない。

 ところで――。

「豆田」と「瓜田」
田んぼのサイクル・リサイクル

 コメが余って田んぼにイネを植えられなくなったので、田んぼにほかのものをつくるのが転作。何もつくらなければ休耕。永遠に休耕してしまうと、結果として耕作放棄ということになる。田が廃物になる。

 転作は、廃物にしないでなにかほかの作物をつくり、田を有効に再利用すること、つまり田んぼのリサイクルということになる(休耕は必ずしも田を廃物にすることではない。休ませることにも意味がある)。

 田のリサイクル(再利用)もいいけれど、田にサイクル(循環)そのものをつくりあげることはできないか。いろいろな作目をぐるぐると作り回す。

 福井市近郊で「まめだ」という言葉を初めて聞き、その意味するところを知って驚いた。漢字をあえて当てれば、「豆田」ということらしいが、豆ばかりを田につくるわけではない。まめに働いてくれる田んぼという意味合いも含んで、村の人たちがだれいうとなくそう呼んできたのである。

 部落20戸の耕す水田が約25ヘクタールあり、そのうちの10分の1ちかくは、毎年水を入れずに野菜をつくる。そこが「豆田」だ。豆田にする場所は毎年変える。正月がすぎると、20戸寄り合っての相談がある。今年はどの田の水を抜くことにしようかという相談である。相談はじきにまとまる。まとめて水を抜くことのできる田は、水路ごとで決まってくる。順ぐりで、およその場所は自然に決まっている。

 今年の豆田が決まれば、そこには水を入れずに20の区画を切り、20戸がそれぞれに好みの野菜をつくるのである。いずれにしても、そこは他人の田んぼだ。今年はAさんとBさんとCさんと、3人なら3人の人の持ち田が野菜をつくる田となる。その3人のひとの田に20人が野菜をつくるのである。貸し借りというのではない。金銭の往き来はない。十何年に1回はわが家の田も「豆田」になる。そのサイクル(循環)のなかでの貸し借りなし、である。

 夏はナスやスイカ、冬はダイコンやハクサイ、20人好き好きにいろいろつくった。そして、市内に毎朝売りに行く。朝市が立って、そこで売る。それが長い間のならわしだった。福井市内の菅谷町というところで、五十嵐真さんから聞いた話である。この「豆田」は昭和49年、25年前までつづいていた。

 江戸時代の奈良盆地では、水田にソラマメやマクワウリ、そしてワタなどが植えられた。「瓜田」ということばもあったという。イネが「本作」ではあるが、いくつかの理由でほかのものが作られ、田んぼのサイクル(循環)が成り立っていたのである。

 ただしソラマメは裏作だから、イネの作付けをやめるわけではない。『農業全書』には1町の田のうち7反にムギを3反にソラマメをつくるのがよいと書かれている。そして、ソラマメを植える田は毎年同じではいけない。いや地があるからである。ということは、一つの田に3年に1回はソラマメが植えられたことになる。なぜそういうことをしたか。「ソラマメはムギより先に収穫できるから飢えを救う」と書かれている。田を肥沃にするねらいもあったろう(注1)。

 一方マクワウリとなると作期からいって、その年はイネをやめることになる。ワタにしても同じことだ。水不足で、全部の田に水を回すことができなかったという理由があったからイネの作付けを休むこともできたわけで、貢ぎ物としてのコメを作らずウリやワタをつくるのは例外的なことだったろう。農民にとってはウリやワタの方がよかった。ワタなら、自分でつむいで衣料にしたり、売ることもできた。福井の「豆田」も自給のため、朝市での日銭かせぎのための知恵であった。

田畑の区別は絶対的

 だから年貢米を受け取る側、権力者は水田にワタを作ることを嫌った。「本田にワタを作ってはいけない」というお触れさえあった。田はイネを作るところであって、みだりに畑にしてはいけなかった。田は権力者のためにあったのである。権力の強さ自体が○○万石という石高で示された時代であった。豆田や瓜田のように田んぼに作付けのサイクル(循環)がつくられたのは、むしろめずらしいことで、決して全国津々浦々のことではない。循環の妙味が発揮されたのはむしろ、畑の方でのことである。

 「耕地に田と畑があって、この2種類の耕地がはっきりと区別され、互いに相容れない点では絶対的であるというふうになってから何百年、いや千年を超える時間を経過しているのであろう。……田は畑よりも大切である。大切な作物である米が田で作られ、そのほかのもの、麦とかヒエとか大根とかは畑に作られる。田に米以外のものを作ってはいけない、というのが徳川300年の幕府が一貫してつらぬいてきた基本方針であった。明治の時代になると、地主制度がそのあとをついで、田には米しか作らせないような方向で農村を支配するようになる。徳川幕府の場合は年貢としての米を年々変わらずにとりたてられるようにというねらいだし、地主の場合は小作米取立ての計算がくるってはこまる、ということで、いずれも支配者の都合が田んぼと畑の区別を厳然たるものにさせて来た、田と畑がいれかわるようなことは絶対に許されないことであった」

 これは今日も読みつがれている守田志郎氏の名著『農業は農業である』の1節(196頁)であるが、この本が書かれたのは1976年(昭和46年)、あの「減反」が本格的にスタートしたときだった。

 守田氏は「減反」「転作」の政策に怒る農家の気持ちをわかりながらこれを書いた。その重苦しい雰囲気が、この本にはある。イネの単作で突き進む農業は農業ではないという思いを伝えたかったのだ。

棚田とは何だったのか

 日本の田んぼの7%強は傾斜20分の1以上の棚田だという。山の傾斜に棚のようにつくられた田だから、棚田といわれる。上からみれば小さな1枚が百も千もあるから、千枚田とも呼ばれる。畑なら段々畑という。耕して天に至るといえばわかりはよいが、それは下に住む者が言ったことで、耕す者の位置からいえば昇り上ったところもあろうし、降りながらつくったところもあるだろう。水の都合にしたがっての昇り降りである。

 棚田の規模に大小はあるが、石積みや土塁(土坡)に美事さ巧みさを見ると、いつ・だれが・なんのために……と考えこんでしまう。なんのために?はすぐにわかる。イネをつくるために、である。しかし、こんなにしてまでなぜイネをつくろうとしたのかとなると、また考えこんでしまう。そして、だれが?には2つの問が含まれる。だれの意志(命令で)とだれの手(労働)で、の2つである。

 外国の学者が大規模な棚田を見て日本のピラミッドと言ったそうだが、それはピラミッドにかなう文化遺産だという意味だ。それならばどうしても考えは、権力者の命令でべらぼうな人数の労役(義務労働者)が集められてつくられた、というところに行きついてしまう。いかにそれが美事な文化遺産であっても――である。

 果たしてそうか? そうかもしれない。そうだとすれば、なんのために?は権力者が人民にイネを作らせ、できた米を貢がせるためということになる。

 一方で、棚田にはナワ伸びがあるのがふつうで、実測の面積が台帳の1・5倍もあることも稀ではないという。平家の落人の集落などという伝説をもつ山奥の村の田の大半は棚田だ。とすると棚田は隠し田で、検地もゆるやか、年貢のめこぼしもあったのかもしれない。とすると、棚田はコメを収奪される農民のひそやかなコメへの憧れの産物であったかもしれない。

 どちらも真実の一端であったろう。大きくて古いのは権力者によるむりやりの開田、小さくて比較的新しいもの(江戸期)は、年貢をまぬがれて農民が口にすることのできた稲田だという憶測も成り立つと思う。穫っても取られる田とひそかに作って食べる自前の田、農民の気持ちは複雑で、田をにくむ気持ちと田をいつくしむ気持ちが、往来したにちがいない。

 先ほどの守田氏がこう言っている。(『農業にとって進歩とは』15、16頁)

 「食べることも好き、つくることも好きで、私はただ米だけが作りたい、そうはじめから思っていた人はいないと思うし、徳川時代の歴史、明治時代の歴史をふり返ってもそういう農家の発想はありそうもない。米だけつくっていればよいと思う人が多くなったのは、昭和30年代以降のことだと思う。そういう気持に農家の人をさせ、それがよいと「思いこむ」人が多くなったのは、農家の人がそう「思いこむ」ことを期待する「思いこませ」の側があったからなのである。その「思いこませ」は都会からでている、そういってよいと思う。」

 なぜか?

減反が始まったころ

 「田をつくることの歴史、米をつくること、とれた米の、年貢米、小作米、供出米、予約売渡米などという流れの歴史、古代やら徳川時代やらの歴史、城下町や近代の都会がどんな意味をもっていたかを考えてみてほしい。

 ……都会は、政治の面でも経済の面でもそして文化の面でも主人公であり、都会でないところの人たち、つまり農家の人たちはそのためにあり、田や畑はそのために使われなくてはならないと都会は考える。」

 年貢米の時代から戦争直後の強権供出米まで、農家は米を穫って取られてきた。昭和30年(戦後はじめての大豊作の年)以後、次第に政府の決める米価も上がり、「思いこませ」の力は強まった。昭和45年の減反政策で、米をつくれという「思いこませ」はストップした。しかし「つくれ」はつづいた。減反した田を再利用して、転作作物をつくれ、ダイズをつくり、ミカンを植える。米でないものの産地をつくる。

 主産地形成、単品大量生産、大量流通、多頭羽飼育、そうした規模拡大にのらないのなら出稼ぎをする道もある。それが都会から農村への、新しい「思いこませ」になった。そのくせ、平成7年まで、政府以外に米を売ることは許されなかった。

 減反政策と同年の昭和45年12月に公表された通称「農業新地図」(「農業生産の地域指標の試案」)は、近郊は野菜と飲用乳、中間は青果と養蚕、遠隔は米麦と畜産の地域だといい、近郊とは南関東・東海・近畿、遠隔とは北海道・東北・九州、そして残りが全部、中間のことだといっていた。この「思いこませ」には農家ものらず、現在は地域についての認識はずっと多彩になってきた。

 単品大量生産より少量多品目生産、市場流通より産直、そして出稼ぎでなく定年帰農、の時代である。地域ごとの特産・名産品、地場加工が盛り上がる時代である。そのような動きが、多くの村々で内発的に興ってきた。高齢者・女性の知恵が生かされる時代を、農家自身がつくってきた。「思いこませ」ではなく、農村・農家が都会・都会人に働きかける(発信する)時代がやってきた。

 そこで営まれる農業こそ、循環する農業である。循環農業がやれる条件がととのいはじめている。

循環のほんとうの意味

 注意したいことは田畑の循環はよくいわれるような物質やエネルギーや生態系の循環(だけ)で成り立つのではないことである。この3つの循環は地球から物ごとを考えたときの話だ。あの守田氏は農耕の世界にある循環を人と作物と耕地の嵌合(はまりあい)としてまとめている。(『小農はなぜ強いか』182〜183頁)

 第一に、農家の人の生活と田畑や山での作物や家畜や蚕の成育との間の循環。

 第二に、作物相互の間の循環。

 第三に、耕地と耕地以外の要素との間の循環。

 以下守田氏の他の著作(注2)の記述も参考にして解説すると次のようになる。

 第一は、農家の生活と生産の循環。そして、それは田・畑・山・作物・家畜があって成り立っている。

 第二は、作物が作物同士で循環していること。前作と後作、したがって連作と輪作という考え方の大切さ、さらに作物の残根と地力の関係。つまり、この循環には作物と耕地との間の循環も含まれている。

 第三は、耕地と家畜、耕地の草生(野山や畦道の草)との間の循環。

 まとめていえばつまり、こういうことになる。

 〈耕す人間がいて、耕地には作物があり、耕地以外にも草々があり、そして家畜もいる。それが農村というものであり、農村という「器」のなかで営まれる農耕を成り立たせる各要素がそれ自身循環しているし、農耕の要素同士が互いにはまりあって(組合わされて)循環の輪をつくっている。その輪の軸になるもの、それが集落というものなのだ〉

 転作を単にリサイクル(再利用)としてでなく、サイクルとしてとらえよう。農耕の世界の循環を成り立たせよう。それが何千年前から農耕にたずさわってきた人たちのいつも願ってきたことなのだと思う。

(農文協論説委員会)


 注1 『農業全書』は元禄9年(1696年)に刊行され、以後、多くの人たちが依拠した農書。『日本農書全集』(農文協)第12巻、196頁前後からの要約。

 注2 引用した本を含めて、守田氏の著作の大部分は農文協の書籍として入手可能である。引用した3点のほかにつぎの7点がある。『農法』『農家と語る農業論』『対話学習日本の農耕』『村の生活誌』『農業にとって技術とは何か』『学問の方法』『むらがあって農協がある』


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