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農文協トップ主張 2001年9月号

いま、孫世代と祖父母が結び合うとき

そこに子どもたちの真の「生活」が生まれる

目次
◆祖父母・孫一体の「ファーカンダ」
◆「生活のない」子どもたちにお年寄りの思い出と知恵を
◆「昔の海にちかづけたい」子どもらの思いにおとなたちも動いた!
◆「水車で搗いたお米を食べてみたい」「あんなに御苦労した水車が情けない」
◆都市の子どもを励ます「野の教師たち」

祖父母・孫一体の「ファーカンダ」

 さあ、夏休み。子どもたちとふれあう機会が多くなる。都会からも孫たちが帰ってくる。今、農村の祖父母世代は、村や都会の孫世代に何がしてやれるのか? どうふれあい、何を伝えるべきか?

 朝のNHK連続テレビドラマ「ちゅらさん」がそうであるように、現在でも3世代同居率の高い沖縄には、「親子」「兄弟」「夫婦」などの言葉と同様、孫と祖父母を対で表す「ファーカンダ」という方言がある。「ファー」は「子ども」で「葉っぱ」の意味もあり、「カンダ」は「かずら(蔓)」。孫と祖父母との密接度の高さがよくわかる。

 沖縄に限らず、かつては日本のどこでも祖父母世代と孫世代との交流は日常的なものだった。それは3世代同居の家庭内の直系の交流でもあり、生活文化や伝統文化の継承を通した地域内の世代間交流でもあった。だが高度成長以降、都市では核家族化がすすみ、農村でもお年寄りの生活文化や考えは古臭く非合理的なものとして遠ざけられ、塾通いやスポーツ、習い事に忙しい孫の世代に受け継がれることは困難になっていった。

 しかし今、祖父母世代と孫世代を意識的に結びつけ、お互いの交流を図る試みが各地で広がっている。

 農文協では、「現代農業」2001年8月増刊号『孫よ! 土と遊べ ふるさとに学べ』を発行した。そこには、農業体験や地域学習を媒介にした祖父母世代と孫世代の交流から、子どもたちが変わり、お年寄りが変わり、そして地域全体が変わっていった事例が満載されている。

「生活のない」子どもたちにお年寄りの思い出と知恵を

 広島県江田島町の宮ノ原小学校。広島湾の南に浮かぶ島の全校児童数60数名の小規模校だが、ここでも核家族化がすすみ、数少ない3世代同居世代でも孫と祖父母がゆっくり話すことはほとんどなくなっていた。

 「生活というものがない現代の子どもたちに、お年寄りの生きてきた時代の思い出や暮らしの知恵を伝えたい」と考えた担任の木村辰富美さんの指導で、わずか7人の6年生が地域のお年寄りからの聞き書き活動に取り組んだのは一昨年のことだった。

 最初はオドオドと質問していた子どもたちも、喜んで迎えてくれるお年寄り、とくに「久しぶりに子どもたちとたくさん話をした」と手放しで喜んでくれるひとり暮らしのお年寄りのやさしさ、寂しさを敏感に感じとり、どんどん心を開いていく。そしてお年寄りから聞く話は、子どもたちにとって驚きの連続だった。

 まず「海の話」。

「昔は、今のように浜がコンクリートで固められていなくて、遠浅の海が宮ノ原にもあったんじゃ」
「朝から晩まで泳ぎよったなあ」
「アサリがたくさんとれたし、イワシなんかは、そこらじゅうに干しよったもんじゃ」
「浜に干してあるイリコを食べて、よう怒られよったのう」

 現在の宮ノ原地区の海岸はコンクリートや突堤で固められ、砂浜はほんのわずか。そこもおとなたちは危険な場所として「遊んではダメだ」と言う。子どもたちは身近な海で遊んだことも泳いだこともなく、泳ぎ方も知らなかった。また魚は加工場で機械乾燥されているので見たこともない。アサリは人工海浜の潮干狩り場で「お金を払って採るもの」と思っていた。

 さらに「川の話」。お年寄りが子どものころ岸で遊んだり、洗濯をしていたという川は、今はコンクリートの三面護岸で下りることもできず、空き缶や自転車などの不法投棄で汚れて洗濯するなど想像もつかない。

「川で遊べたなんてええねえ」
「川で洗濯なんて、桃太郎みたいじゃ」
「みんな仲ようしとったんじゃねえ」

 子どもたちはお年寄りの話を、素直に、そして憧れのまなざしで聞いた。

 「山の話」にも驚いた。収穫の際に摘み残した「め残し」と呼ばれるミカン山の小さなミカンはおとなたちから「採ってもいい」と言われていて、のどが渇いたら自由に採って食べていたこと。マツタケがたくさん採れた話など。
「昔は山に入る者が多かった。じゃから見通しもよくて、ハミ(マムシ)も出んかったから、子どもらだけでしょっちゅう山に行って遊んどった」

 そんなお年寄りの生き生きとした話に子どもたちは目を輝かせ、放課後の聞き書き活動を自主的に続けるようになった。担任の木村さんはそれを見て、授業や校内の国語科研修などに聞き書き活動の発表や討論会などを組み入れていく。日曜参観では、父母のほか、聞き書きさせてもらった地域のお年寄りも招き、聞き書きの内容やその感想を発表した。また子どもたちが、木村さんや学校を飛び越えてお年寄りに直接声をかけ、先生になってもらってお手玉作りや竹馬作りを教えてもらう授業も実現した。

 そうこうするうち、子どもたちは木村さんがアッと驚く行動に出る。知らないうちに町長に質問状を送ったのだ。その内容は、以下のようなものだった。

◎自然の川や海はとりもどすことはできないんですか?
◎川の悪臭はどうにかならないんですか?
◎「山も死んでいる」と言われたおじいちゃんがおられましたが、人が入れるようにはできないんですか?
◎水の検査などの環境調査を私たちもできませんか?

 

 ミカンが盛んなころの山はよく手入れされていたが、しだいに手入れする人がいなくなり、荒れてマツタケなども採れなくなって放置され、近寄りがたい存在になっていた。「山も死んでいる」というお年寄りならではの感性にもとづく表現を、子どもたちはそのまま町長に投げかけた。

 何度かのやり取りの末、お年寄りからの聞き書き活動によってどんどん成長していく子どもたちの姿を目の当たりにし、それを喜び支えようとしていた親たちの援助もあって、ついに子どもたちと町長との会見が実現する。

 役場からは町長のほかに担当課の職員も加わって、一つひとつの質問にていねいに回答してくれた。だが、結果的にその回答は「今すぐに変えることはできない」「町民全員の理解が必要」というもので、「町長さんは私たちの質問に答えていない」と言い出す子どもまでいたが、会見後、子どもたちはすぐに自分たちで話し合い、

 「何かひとつでもええようにならんじゃろうか」
 「自分らでちいとでも見れるようにしようよ」
 「川の掃除をしよう」

 と、次の目標を決め、卒業までの間、川の空き缶などのゴミ拾いを続けたのである。 「昔の海にちかづけたい」

「昔の海にちかづけたい」子どもらの思いにおとなたちも動いた!

 この7人の6年生が卒業した後、木村さんは12人の5年生の担任となる。すると、子どもたちの方から「前の6年生がしよったお年寄りからの聞き書きはしないのか」と迫ってきた。木村さんが「やってみたら?」と言うと、子どもたちは「絶対前よりもすごいことしちゃる」と、まず自分たちのことを書いた学級新聞を地域のお年寄り1軒ずつに配りながら聞き書きをし、新聞にその内容や感想などを書き込んで、毎日配った。また、お年寄りの話に子どもたちは感動し、ひとつの行動を起こした。

 「お年寄りから聞いた昔の海、アサリを採って遊べた楽しい海を取り戻したい」
 「海をきれいにするには、みんなに浜に目を向けてもらわにゃいかん。貝をまいて潮干狩りできるような浜にしたら汚さんのじゃないか」

 と、漁協組合長に直談判し、「他の組合員の意見も聞かにゃあいけん」という組合長の答えに応じて、組合員に次のようなアピール文を配り、組合員1人ひとりに自分たちの夢に対する意見を求めたのである。

 

 おじいちゃん、おばあちゃんに、聞き書きをさしてもらいました。そして、昔の海の話を聞いて、
「昔の海に、ちかづけたい」
 と、思い、漁業組合の組合長さんに、聞きにいきました。すると、賛成してくれました。そして、貝をほうりゅうしたいと言うと、
 「漁業組合員の人でないと、できません」
 と、言われました。

 私たちぼくたちは、貝をほうりゅうしたいので、力をかしてください。

 これに対して組合員からは「出来ることはなんでも協力しますので、皆もがんばってください」「海をきれいにするということは大変にいいことだと思います。海のそうじもして、貝を放流したいということなので、ぜひやっていただきたいと思います」などの回答が寄せられ、アサリの稚貝40万円分が子どもたちにプレゼントされた。

 子どもたちは大喜びで浜を清掃し、稚貝をまいた。そこを「山のもんと海のもんが仲よく集える場所に」という願いを込めて「オレンジビーチ」と名づけ、地区児童会で潮干狩りを楽しんだり、宮ノ原小学校の「学習の浜」としてアサリや水棲昆虫などの観察に活用している。

 木村さんは「現代の子どもたちには生活というものがない」と言う。今の子どもたちの「生活」は、遊びも含めて地域の外で大量生産されたものをお金を出して買い、消費するだけの生活である。その生活には、子どもたち同士の共同性や地域の自然に対する感性を育むものは何もない。だが、「山も死んでいる」というお年寄りの言葉に心を痛め、「昔の海に近づけたい」と共感し、行動するときの子どもたちの「生活」には、かつてお年寄りが子どもであったころの豊かな共同性と地域の自然に対する正常な感性が伝えられ、育まれている。地域の自然を育て、自然に育てられるプロセスの中で育まれたお年寄りの思い出や知恵は、子どもたちに「地域で生きていく」とはどういうことか、つまり遊びも学びも生産も、地域の自然に依拠してつくり出す=自給していくことの楽しさや力強さを伝える力をもっているのである。

「水車で搗いたお米を食べてみたい」「あんなに御苦労した水車が情けない」

 愛知県額田町の夏山小学校も全校児童58人の小さな学校。夏山は夏山川に沿って広がる170戸ほどの集落で、昔は炭を焼き、蚕を飼って暮らしていた。

 この夏山小学校にはもう20年も学校の草取りに通ってくる「寿会」というお年寄りの集まりがある。学校の畑や田んぼの先生も寿会だ。そのメンバーでもある恩田豊さん(68歳)は、夏山川をはさんだ学校の向かいの持ち山を子どもたちに自由に使わせ、子どもたちはそこを「夢山」と名づけて全校で夢を出し合い、木にブランコやハンモックを吊るしたり、池を掘ってニジマスを飼い、キノコの原木を並べたりしていた。

子どもたちと寿会のつながりから、地域のおとなたちも巻き込んで、この「夢山」に大きな水車小屋が再建されたのは1999年のことだった。

 夢山の真ん中には、使われなくなって朽ち崩れたお化け屋敷のような水車小屋があった。6年生の宇野理沙さんは週4回、給食後の30分に自分たちでテーマを決めて調べる「はかせタイム」で、この水車小屋について調べることにした。水車の仕組みを本で調べたり、夢山の水車小屋にもぐりこんでみて、そこには臼が4つも残っていること、杵や鉄の水車も残っていることを調べた。地域の歴史に詳しい人に聞いてみると、120年も前に作られ、30年ほど前に使われなくなるまで90年もの間、働き続けた水車であることがわかった。

 寿会のお年寄りには、水車をどのように使っていたかを教えてもらった。夏山の暮らしに水車はなくてはならないもので、多いときには30近い水車があったという。お年寄りに聞いた水車とともにあった村の暮らしを、理沙さんはマンガもまじえて発表した。

 その発表から、水車への関心が子どもたちみんなに広がってきた。「水車で搗いたお米は甘くてとてもおいしかった」という話をお年寄りに聞いた子どもがいた。学校の田んぼで米づくりに取り組み始めたときだったから、すぐに「水車で搗いたお米を食べてみたい」という声になった。寿会の会長・黒屋芳男さん(77歳)も、おばあさんが麦を煎り、水車で粉にひいて麦焦がしにしてくれた思い出話をしてくれた。するとしだいに、みんなの気持ちが水車小屋の再建へと動き出し、その気持ちを水車小屋の思い出を胸にしまっていた人たちの存在が後押しした。

 90歳になる藤田ちゑさんは、壊れた水車小屋の側を通るたび、「あんなに御苦労した水車が情けないなあ」とさびしく感じていた。生家は夢山の水車を共同で使っていた8軒のうちの1軒で、ちゑさんの母親は水車が使える日が回ってくると、背負子に米や麦を入れて水車小屋へ運び、翌朝搗き上がるように、夜、提灯やカンテラを下げて見に行った。暗い山道は心細かったのか、いつもちゑさんが道連れだった。「あんなに御苦労した」という表現には、水車の苦労だけではなく、母親の苦労も、ちゑさんの苦労も、すべて一体のものとして含まれている。

 「お金がなくても何日も暮らせたが、水車が止まるとすぐに困った」という思い出を語る人も多かった。自分の家の米や麦を水車で搗いていれば10日くらいは1銭もなくても過ごせたが、人も牛も水車がなければ食べられなかった。そんなお年寄りの昔の暮らしは、子どもたちにとっても先生にとっても未知の世界だった。

 水車小屋再建の日、小屋の木材は理沙さんのお父さんが自分の山から切り出してきた。水車の輪は卒業生の大工さん、建築の棟梁は定年まで建築会社に勤めていたちゑさんの息子がやってくれた。屋根に登って杉皮の釘打ちをしたのは先生たち。そして子どもたちは、車が入らず、板1枚、石1個でも人が運ばねばならない夢山の中で、石を運び、埋もれていた水路を掘り起こし、コンクリートをこねた。

 水車で搗いた米を給食で炊いた日、炊いているときから甘い匂いが漂った。お年寄りの「甘みがあっておいしかった」という話は本当だった。

都市の子どもを励ます「野の教師たち」

 『孫よ!』には本誌でもおなじみの長野県松本市の小沢禎一郎さんや北海道中標津町の三友盛行さんも寄稿しているが、60歳前後で初孫をもった2人は異口同音に「わが子の子育てのときは自分の仕事で無我夢中。孫の場合は時間もあり、心に余裕もあって、じっくりと接することができる」と書いている。孫世代に「体験」や「地域の記憶」を伝えられるのは祖父母世代しかない。宮ノ原小学校や夏山小学校の子どもたちのように、そのような体験記憶を日常的に伝えてくれる祖父母世代が身近にいる農村の孫たちは、まことに恵まれているのである。

 では、祖父母世代が身近にいない都市の子どもたちは、どのように交流をもったらよいのだろうか? じつはここでも農村の祖父母世代の出番なのだ。

 昨年、東北26地区の教育グリーンツーリズム(子どもたちを対象にした都市・農村交流体験事業)を調査した仙台市の民俗研究家・結城登美雄さんが、参加した子どもたちの感想文を『孫よ!』で紹介している。

 「民宿のおばさんが私の手をにぎって一言『頑張ってね』と言ってくれた。このとき私は人の温かさに触れた。たった3日間いっしょに過ごしただけなのに。泣いてしまった自分にびっくりした」(中1女子)

 「家族全員の力を合わせるから、あんなにおいしい食料が出来るのだと思った。家族の協力が家族の団欒につながるんだ。おばあちゃんも一生懸命作業していることがすごいと思った」(高2男子)

 「僕の人生の第2段階があった7軒地区(山形県大江町)は死ぬまで忘れない。1人ひとりの心を分け合って人間は生きているんじゃないかと思う。僕は身長や何かを成長させるより、心を成長させるのはむずかしいと思う。なぜ心が成長できたか。それは山村留学生として山形に来て、7軒の人と遊び、学び、助け合ったりしたからだ。7軒で成長したことをあっちの友だちにも分けてあげたい。今、僕は思う。7軒の人とふれあえてよかった」(小6男子)

 結城さんは、多くの人びとが村を後にした高度成長期、農山漁村に「残る力」を持ち続けた祖父母世代を「野の教師たち」と呼ぶ。そして、次のように述べるのだ。

 「道は、都市や企業社会に向う1本しかないのかもしれないという閉塞感が現在の子どもたちの心を暗く支配しているような気がする。いやいやそんなことはあるまい。生きる道は何本もある。たとえ迷ったとしても引き返し、また別の道を歩めばよい。選ぶ道は何本もある。要は人生の歩き方。急ぐことはない、ゆっくりと行け。野の教師たちはきっとそう言うだろう」

(農文協論説委員会)



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