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農文協トップ主張 2005年8月号

戦後60年 今、「変わらないこと」を見つめる
『写真ものがたり 昭和の暮らし』完結に寄せて

目次
◆幼青年期の長期記憶が一生を支えている
◆高度成長時代に見捨ててきたもの
◆肉体を使うことによって甦る一体認識
◆繋がっている一体認識から生まれる感謝の祭り
◆国際的視野は家庭学、地元学から

 本年は戦後60年の節目の年である。時機よく、須藤功著『写真ものがたり 昭和の暮らし』第一期全五巻がこの7月に完結する。『1 農村』『2 山村』『3 漁村と島』『4 都市と町』『5 川と湖沼』からなるこの全集には高度経済成長が始まる前後の昭和3、40年代に、地元の写真家がありのままに写し撮った貴重な生活記録写真が、各巻約350枚収録されている。その写真に、民俗学者の宮本常一に師事した民俗学写真家・須藤功が、その写真映像の背景や生きることへの思いを代弁するかのようにわかりやすく綴っている(子どもたちにも読めるようルビ付き)。

 この60年、とりわけこの写真集に描かれた時代以降の4、50年は日本人の暮らしが、歴史上もっとも急激かつ大規模な変貌を遂げた時代であった。この4、50年間に、何が変わり、何は変わらなかったかをみつめることによって、これからの未来を展望する道標が見えてくる。

「牛の鼻取り」
「牛の鼻取り」 長野県阿智村 昭和28年 撮影・熊谷元一(『1 農村』より)

幼青年期の長期記憶が一生を支えている

 次頁の写真のように、少年が「牛の鼻取り」して代かきをする光景は、昭和30年代前半までは、全国どこでも見られた。今の小学生がこの写真を見たら「これ、日本なの?」と疑うであろう。鼻取りを体験したことのある団塊の世代以上の方なら、あの時のことを雄弁に語り始めるだろう。

 「この鼻取りは大変なんだ。毎日世話した牛でも、田んぼの中に入ると言うことをきかない。竹棹を持ってまっすぐに歩くよう牛の頭を進行方向に仕向けるんだが、ちょっと油断すると曲がってしまう。親父はマンガを押さえてドウドウドッとかきたてるし、気がせくばかりで泥に足を取られて牛に何回も転ばされたよ。鼻取りがうまくできたときは、親父からお前も一人前だと言われ、嬉しかったよ」

 写真映像は昔の記憶を甦らせる力を持っている。昔の写真を高齢者に見せると、痴呆ぎみな方でも途端に目は生き生きしてきてしゃべり始めるという。この写真の力を生かした「回想療法」が介護福祉の場で注目されている。志村ゆず・鈴木正典編『写真でみせる回想法』(弘文堂)によると、記憶には短期記憶と長期記憶があり、老人は最近の出来事を記憶する短期記憶は衰えるが、幼少から青春時代の長期記憶は消えることはないという。五感を通じて経験した個人的なエピソード、言葉の意味や習慣など無意識に反復したものが、長期記憶として保持されるというのだ。

 鼻取りの写真をおばあさんに見せれば、こんなことをしゃべりだすに違いない。

 「上の畦塗りをした畦にポツン、ポツンと黒く見えるのは、畦豆をまいたところだよ。畦豆は塗った畦に穴をあけて種子を入れ、モミガラくん炭を詰めるだけだったから。豆はカッコウが鳴いたらまけといわれてたから、この写真は五月半ばころじゃないか。畦豆は秋にクルリで叩いて脱穀して、大きな釜で煮て味噌をつくったり、祝い事には豆腐にしたり、豆がらは焚き付けにしたり、牛の餌になったり、あのころは大事なものだったんだよ」 

 次頁の「孫を子守する老漁師」に見られるように、孫を子守する老人の写真が多い。いずれも威厳を醸し、実にいい顔をしている。昔は生まれる子どもも多かったが、幼くしてなくなる子も多かった。毎日の稼ぎに忙しい両親に代わり、孫を死なさずに大きくすることが祖父母の当たり前の役割だった。祖父母は、「ごはん粒を残すと目がつぶれるよ」「ご飯を食べてすぐ横になると牛になるよ」などの言い伝えや、「あの川淵のあの石の下にはウグイがいっぱいいるよ」「川で流されたときは焦らずに流れに逆らわないことだ」「山で道に迷ったときは大きな木に登って目印のものを探すことだ」などと、自分の体験した教訓などを、孫に面白く、時にきびしく話してくれた。それらは、その地域で長年の生活のなかから生まれた、その地で生きるための大切な知恵であり、生活文化であり、聞いた孫の長期記憶となって伝承されていった。

 しかし現代は、祖父母の伝承や経験からうまれた知恵が孫に伝わらない時代だといわれる。「ウサギ追いしかの山」は荒れ、「小ブナ釣りしかの川」は三面コンクリの用水路となってしまった。孫の関心もテレビゲームや少年スポーツクラブ、学習塾であり、パソコンなど電子機器の操作は孫のほうが優れ、祖父母が出る幕はない。

 幼年期から青年期に培われ記憶された長期記憶は、大人になると否応なしに現実的生活に追われ、意識の深層にしまわれがちになるが、その人がその後も生きていくうえで反復し己を支えてきた重要な記憶ではなかろうか。

「孫を子守する老漁師」
「孫を子守する老漁師」 新潟県県相川町姫津 昭和30年ころ 撮影・中俣正義(『3 漁村と島』より)

高度成長時代に見捨ててきたもの

 昭和30年代後半、いままで親父が座っていた上座にテレビがドカンと居座るころから、世界に誇る高度経済成長が始まった。日本人の誰もが、より効率的な、より利便的な、より豊かな労働や暮らしを求めて邁進してきた。『4 都市と町』を見ると、日本人の暮らし方が大変貌していく様子が如実にわかる。国会議事堂の前庭がサツマイモ畑となった昭和21年から、新幹線や高速道路が走り、霞が関に超高層ビルが立ち、GNPが世界2位となった昭和43年までは、わずか20年余のできごとである。

 しかし、その「進歩」や「豊かさ」の見返りに数多くのものを見捨ててきたのではないだろうか。須藤の師であり、自らを「大島の百姓」と称して全国の農山漁村をくまなく歩き、名もなき人に耳を傾けた宮本常一は、『民俗学の旅』(講談社学術文庫)のなかで、次のように記している。

 「いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうか(中略)。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時には人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。

 進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う」

 近代化は、より金になり、より体を使わず合理的で効率的な労働、技術、暮らしを「進歩」とし、そうでないもの、価値あっても儲からない効率の悪い技術や仕事、産業、“不合理”な人とのつきあいや習慣、習俗などを無用なものとみなし、捨て去り、忘却してきた。

 たとえば、「牛の鼻取り」に見られる田んぼの耕耘・代かきは、人力・牛馬から耕耘機、トラクタへと変わり、代かきは田んぼに入ることなく一反歩一時間もかからないで終わってしまう。こうして、牛という生き物を思いやる気持ちも技術も、泥田に入り田んぼの生き物を見つめることも、労働を通じて子と親がふれあうことも、トラクタ耕耘という効率の前に消えた。牛がいなくなれば草も必要なくなり、畦豆も作られなくなった。畦豆がなくなると手前味噌も消えた。今では除草剤をかけて畦草を枯らすことも珍しくなくなった。

 さらに近代化は人間にとってのみの「進歩」であった。宮本が憂えているように、人間にとって有害な生き物、あるいは無用な生き物は、排除・隔離するか、抹殺することにためらいはなかった。

肉体を使うことによって甦る一体認識

 しかし、生き物としての人間が変わったわけではない。神経には自分の意思で操れる知覚運動神経と、自分の意思とは独立して内臓をコントロールする自律神経とがあり、自律神経によって動いている心臓は、自分の意思で一鼓たりとも止めることはできない。同じように、意識の面でも、「進歩」を追求する合理的・科学的な意識だけで暮らしや仕事が成り立っているわけではない。たとえば、家畜がいなくなりまったく金にならない畦草刈りを、ほとんどの農家が今も続けているのはなぜだろうか。

 草刈り作業の労働時間を考えれば、除草剤をかけたほうがはるかに効率的である。草がなくなると畦が崩れやすくなるという科学的な意味もあろうが、枯れて土が露わになった畦を心地よく感じない深層の意識がそうさせているのではないか。畦はさまざまな草やバッタや蝶や鳥などの生き物の生息の場であり、草刈りは彼らと関わる場でもある。刈り終わってイネが美しく映えた田んぼを見ると、田んぼやイネや多くの命との一体感に包まれ、時には田んぼやイネに働かされているのではないかという心境になる。それは、自分がその田んぼの自然や生き物の一部となり、一体となって生きている、生かされているという一体認識である。百姓ならではの至福を感じるひとときだ。

 『写真ものがたり 昭和の暮らし』を見て圧倒されるのは、人は生きるために、かくも肉体を使って自然と対峙してきたのかということである。過酷な肉体労働一般を賛美するわけではないが、自らのエネルギーでなく石油エネルギーや化学資材を使う労働がほとんどとなり、前述のような命と命のつながりのなかで生きている至福を感じることが少なくなった。肉体を使って直接、自然に働きかけることによってこそ、一体的に、総合的に認識できるようになるのではなかろうか。

 小学校などの総合的な学習の時間でイネ作りが盛んに行なわれているが、すべて手植えである。もともと子どもは大人よりも一体認識力が優れているが、手植えをすることによって、自分の肉体が田んぼの泥や水や生き物と直に五感でふれあい、一体認識が弾けるからだ。精農家が作物と話ができるのは、作物との一体認識ができるからであり、(旧)山古志村の方々が早くむらに帰りたいと願うのは、己の命が山古志の山河や田畑と一体だと認識しているからではないだろうか。

繋がっている一体認識から生まれる感謝の祭り

 もうひとつ、この『写真ものがたり』を見て驚くのは、祭り、とくに神主を呼ばず自主的に行なう行事の多いことである。雛祭りなどの節句、山の神の祭り、水神祭り、観音様、庚申様、お地蔵様、蚕神、どんと焼き、十五夜、船玉様、大黒様、恵比須講、盆、アーボヒーボ、アエノコト、マンガライなどなど、地域によって違うが実にさまざまな行事を、家ごと、集落ごと、あるいは祭りの講ごとに行なっている。子どもたちにまかされている行事も多い。これらの祭りや行事は今でも、農山漁村ではあまり知られることなく営々と行なわれている。

 神に祈りたい気持ちは、自分の命と、今ある身近な自然や生き物や人とが、さらに先祖や地域の先人とが繋がって生き、生かされていることに対する感謝の思いから生まれる。祭りや行事は、そのことを家族や地域の人と一体となって確認し、子や孫へ伝える場であろう。祭りにもまた、肉体を激しく使うものが多いのも、それゆえであろうか。

 合理的・科学的認識からは、このような思いは生まれない。科学的認識は対象と自己を切り離し客観的に分析する思考だからである。人間はこの客観認識を発達させることによって進化、進歩してきたが、いつの時代にも客観認識と一体認識によって自己同一を保ってきた。科学的合理的認識が悪で、一体認識が善であるといっているのではない。孔子の論語に「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という言葉があるが、学び(科学認識)と思い(一体認識)を両立させなければならないという意味であろう。

「倉祝い」
「倉祝い」 飢饉に備えた共有倉に新米を納め、仲間夫婦が全員で祝う 宮崎県西都市銀鏡 昭和47年12月 撮影・須藤功(『2 山村』より)

国際的視野は家庭学、地元学から

 戦前はこのイエやムラの一体認識が国家や天皇制に絡め取られてしまった悲しい時代であったが、たらいの水といっしょに赤子まで流し去ってはいけない。希薄になった一体認識を甦らせ、在る自然を生かし、折り合いをつけて関わって自然と共存していく未来を模索していくことが新たな課題となった。生き物や自然との関わりを生業(なりわい)とする農は、その意味でも未来を切り開く、もっとも有利な場所にいる。

 日本の近代化の過程では、「井の中の蛙 大海を知らず」と言われ、島国根性、村根性ではいかん、広く都会や海外に出て視野を広くすることが求められた。しかし、現在の地域、郷土を支えてきたのは、地域のなかで身近な自然とともに暮らし続けてきた人びとである。農山漁村の風景はいかにものどかで自然に見えるが、何として人の手が加わっていないものはない。その風景は、その地でより良く生きたいと願い、何代も生き続けた人たちの思いがつくったものである。先の格言には下の句があり、「井の中の蛙 大海を知らず されど天の高きを知る」である。天の高き=物事の本質は広く動きまわればわかるものではなく、身近な地域の自然や人との関わりを深め、一体的認識を持続していくことによって知ることができる。だから、地域の自然のありようによって、天の高きのありようも違ってくる。それが世界に通じるグローバルスタンダードではなかろうか。

 これから10年くらいは、大海を知った団塊の世代を中心とする人びとが、天の高きを知るために続々とふるさとに帰ってくる。新しい仲間とともに、自分の家族、自分の集落や村の「写真ものがたり 昭和の暮らし」をつくり、新しい未来を切り開いてほしい。 (農文協論説委員会)

(『写真ものがたり 昭和の暮らし』全五巻『1 農村』『2 山村』『3 漁村と島』『4 都市と町』『5 川と湖沼』 各巻定価5250円(税込み)セット定価26250円、農文協刊)

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