主張

ただ「人口」のためでなく、豊かな人生と自治と民主主義のための「田園回帰」を!

 目次
◆町や集落の大きすぎないサイズ感
◆旧市町村、校区のエリアで人と仕事の取り戻し
◆地区経営母体としての地区振興協議会
◆参加民主主義、そしてスロー・イズ・ビューティフル!

 いよいよ6月から、『シリーズ田園回帰』(全8巻、年4回発行)の刊行がスタートする。その第1巻は、島根県中山間地域研究センター研究統括監の藤山浩さんによる『田園回帰1%戦略――地元に人と仕事を取り戻す』。藤山さんはその「まえがき」で次のように述べている。

「私たちは、たしかに今、未来に向けて、『このままではいけない』と真剣に人口のあり方を考え直すべき時代にいます。ただし、人口とは、人生の数に他なりません。つまり、抽象的な一億という数字ではなく、1億人の人生の問題なのです。数さえ多ければよいということではありません。幸せで美しい人生を一人一人が具体的に享受することが一番大切なのです。人口の問題を考えるに当たっては、断じて『抽象的』で『小手先』そして『拙速』なものであってはなりません」

 いま国の「まち・ひと・仕事創生本部」は、全国の地方自治体に「地方人口ビジョン」と「地方総合戦略」を今年度中に策定することを求めている。これが「抽象的」「小手先」そして「拙速」なものに終わらないためにはどうしたらよいのか。『田園回帰』の編集委員、小田切徳美さんはシリーズのねらいについて次のように述べている。

「田園回帰にはふたつの意味があります。ひとつは都市の方々がUターン、Iターンで農山村に移住する、狭義の田園回帰という現象。それに対して、もっと幅広く、若者が農山村に新しい社会の光を見ていることの本質を見据えて、脱成長型社会のあり方を農山村中心に展望するのが広義の田園回帰です。つまりたんなる農山村移住論、農山村論ではなく、都市を含めて社会のあり方を追求する。そこで田園回帰という言葉が国民経済・社会のあり方を論じる大きなキーワードになってくる。このシリーズも都市と農山村が共生する社会づくりという視点から本づくりを進めたい」(『季刊地域』21号)

町や集落の大きすぎないサイズ感

 2012年、神奈川県川崎市から島根県益田市匹見町へ移住し、昨年11月にワサビ生産農家として新規就農――「狭義の田園回帰」を果たした土屋紀子さんは、昨年7月のシンポジウム「はじまった田園回帰――『市町村消滅論』を批判する」(NPO法人中山間地域フォーラム主催)で、旧匹見町を選んだ理由について「町や集落の大きすぎないサイズ感がちょうどいい」としたうえで、地域との付き合いについて次のように説明した。

「移住するからには自分たちから入るようにしなければいけないという意識で行きました。自分たちから何か行事があると聞いたら、『参加できませんか』とか『お手伝いできることはありませんか』と言って入っていくように心がけました。実際に入ってみると、どんどん輪が広がって、入りやすくなっていきますので、恐れずに入っていくことかなあと思っています」「私は東京や神奈川にいたときには、できれば人から話しかけてほしくないというような人でした。やってみたらなんとかなるという気持ちで、こちらから心を開かないと受け入れてもらうのはむずかしいと思います」――土屋さんの「幸せで美しい人生」には「ちょうどいいサイズ感」の町や集落の行事や自治への「参加」「お手伝い」が大きくかかわっているようだ。

「広義の田園回帰」の場合はどうだろう。東京都墨田区で「すみだ青空市ヤッチャバ」を運営し、「シェアハウスえんがわ」の管理人でもある松浦伸也さんは30歳。2008年、東京農業大学卒業後、人口3000人の福井県池田町で1年間「緑のふるさと協力隊」隊員として活動し、その体験をこうふり返っていた。

「『それぞれがそれぞれに集まって、なすべきことをする』。そんな風土がここにはあった。これは全員が全員、自分の役割を知っているためにできることなのだろう。そしてそのなかには、まだ来たばかりの自分がいて、なすべきことをしたりしている。そんなとき、何が自分に求められていて、いま何をなすべきか、不思議なくらいにそれはわかりきっていた。『いらない人間は誰ひとりいない』。ある人に言われた。そんな言葉の意味がやっとわかった」

 松浦さんは、その後同大大学院に進学、修士課程修了後、福島県鮫川村の直売所で原発事故の風評被害克服のために働いたのち、高齢者が多く住む墨田区でヤッチャバの活動を始める。

「生産者のいない墨田区では震災時に食料供給が滞りがちです。その課題を、人の縁による支え合いの仕組みで解決することができないかと考え、仲間たちと四年前に始めました。ただ野菜を売るのではなく、まちとむら、双方に抱える課題を連携しながら解決していける関係づくりを目指しています。(略)ある若者はカフェをすることですみだと他の地域との接点を作り、ある若者はフリーペーパーを通してすみだの魅力を伝えたり、ゲストハウスで外国との接点をつくろうと奮闘している若者もいます。こういった玉石混交の環境で若者は、自分の内にある欲求を掘り起こし、じっくり時間をかけて一つのプロジェクトに昇華させていきます。それは、自分自身が動きたくなる寛容な空気と、同じような境遇の若者と出会う機会に恵まれていること、そしてなにより普通に生活するだけで地域から恩を売られてしまうという、下町のおせっかいな地域性が、若者の社会参画を後押しするようなのです」(2014年11月10日、毎日フォーラム)

 松浦さんは「農家が一軒もない」墨田区の曳舟と両国で、山梨県や群馬県、八丈島などから農家を招き、参加手数料は売上の10%でしかも自己申告制という青空市ヤッチャバを開催。夏になると、田舎を持たない墨田区の子どもたちが林間学校として、出店農家の地元の山村に泊めてもらうことも恒例になってきたという。昨年2月に関東甲信越地方を雪害が襲った際には代金先払いのクーポン券を発行し、ハウスが倒壊した農家を支援。また「大学が一校もない」墨田区で、高齢者が所有する老朽化し空き家になっていた木造家屋や店舗を自分たちでリノベーションし、若者たちが集まるシェアハウスとして活用。これこそ「脱成長型社会のあり方を農山村中心に展望する広義の田園回帰」であり、「たんなる農山村移住論、農山村論ではなく、都市を含めた社会のあり方の追求」ではないだろうか。松浦さんは、池田町の体験から農山村は「いらない人間は誰ひとりいない」関係性と実名性の社会であることを学び、都市と農山村の地域社会を結んで、そこに若者を呼び込み、都市においても関係性と実名性の社会を構築しようとしているように見える。

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旧市町村、校区のエリアで人と仕事の取り戻し

 いっぽう農山村では、新しい自治、コミュニティの単位、あるいは人と仕事を取り戻す単位として、昭和・平成の合併以前の旧市町村のエリア、小学校区が注目されている。

 この3月に農水省「活力ある農山漁村づくり検討会」が発表した報告書「魅力ある農山漁村づくりに向けて――都市と農山漁村を人々が行き交う『田園回帰』の実現」は「集落間ネットワーク」について次のように述べている。

「集落人口の減少・高齢化が進む中で、地域全体でコミュニティ機能を維持する観点から、地域の実情にもよるが、小学校区(昭和の合併前の旧市町村)程度の規模の集落群において、診療所、介護・福祉施設、保育所、公民館等の生活サービスの提供の拠点を基幹集落に集約した『小さな拠点』と周辺集落のネットワークの形成が進められるよう、関係府省間で連携し、それぞれの政策ツールを活かしつつ役割分担して施策を展開する」「また、6次産業化や都市との交流等の推進に当たっても、農林水産物の加工・販売施設等が基幹集落に集約できるよう施策を展開する」

 やはり3月発表の総務省過疎問題懇談会の「過疎地域等における今後の集落対策のあり方に関する提言」も、「旧市町村エリアなどでの集落ネットワーク圏の形成」について、「将来にわたって持続的に定住を促進するために最も大きな課題として、集落ネットワーク圏を核に『なりわい』を継承・創出する活動の育成も進める必要がある」としている。

 同報告書は、「過疎関係市町村だけ取り出すと、その過疎地域においては、集落ベースで約6割、人口ベースで約5割に集落ネットワーク圏が設定されている」とし、「特に、中国・四国圏や近畿圏で設定されている市町村の割合が高く、山口県、兵庫県、岡山県、島根県では、5割以上の過疎関係市町村が集落ネットワーク圏の取組を行っている」と述べている。「田園回帰先進地」である中国地方は、「集落ネットワーク圏」先進地でもあるのだ。

 たとえば昨年の「田園回帰」シンポジウムで、石橋良治町長が人口が社会増に転じたことを報告した島根県邑南おおなん町では、旧石見町で「過疎化のなかで、いかにして人々が活気ある暮らしや仕事をとりもどせるか」を基本に1972年から1980年にかけて21自治会を組織化。旧瑞穂町と旧羽須美村では、2004年の町村合併を契機に「地域の自立をめざして」自治会を組織化し、さらに複数の自治会ネットワークに12の公民館を置いて、非常勤の館長、専任の公民館主事(町職員)、臨時職員の3人態勢で、現在は216集落―39自治会―12公民館の三層構造になっているという。

「公民館は昭和30年代の大合併前の町村です。わずかな距離しか離れていなくても、農業も資源もちがう。いまでも色濃く地域性をもっていて、公民館活動として人づくり、地域づくりをやっています」と、石橋町長。邑南町では合併の翌年から公民館、自治会、集落単位で「夢づくりプラン事業」を実施、地域の将来計画を話し合い、1年目のプラン策定事業では各10万円を補助、2年目からの推進事業では、1戸当たり3000円を補助。すると、ほとんど全域で取り組まれ、「まちづくりは自分たちが主役」という雰囲気が生まれたという(2014年『季刊地域』18号)。

 そのひとつ旧瑞穂町布施地区(昭和の合併まで布施村)では、夢づくりプランで「集落営農組織の確立」を掲げ、「農事組合法人・ファーム布施」と「農事組合法人・赤馬の里」の2つの集落営農組織が誕生した。それから約10年が経過し、ファーム布施は田植えや稲刈りなどを「春を惜しむ会」「収穫祭」などのイベントと組み合わせ、集落出身者も呼び戻すなどして3戸がUターン(本誌2013年11月号「集落営農のおかげで地元出身者が続々帰ってくる村の話」)。一方、この数年、リタイアする組合員が相次いだ赤馬の里では、2回目の計画づくりに着手。町から週3日ほど公民館に勤める責任者の人件費と事業費が助成される「邑南町地域コミュニティ再生事業」を活用してIターンの新規就農者を募集。2013年に大阪から30代の夫妻が就農、集落待望の第1子も誕生した(2014年1月号「限界集落に新規就農の若者夫婦がやってくるまで」)。

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地区経営母体としての地区振興協議会

 このような動きが始まっているのは中国地方だけではない。たとえば山形県川西町では7つの地区振興協議会があり、現町長が就任した2004年ころから「7団体に地域づくりの交付金を提供しながら、地域の独自性を生かして自立してほしいという思いで地区内の自治組織や福祉的な団体など、さまざまな団体を統括した地区経営母体としての地区振興協議会を立ち上げました。福祉、防犯、自治、防災、介護予防、学童保育、子育て支援、山村留学など、地域の課題を掘り起こしながら、経営として5カ年計画を立てて事業を進めていくのです」(原田俊二町長。2015年『季刊地域』21号)。

 7つの地区振興協議会のうち6つは、昭和30年の合併までの町や村。しかし旧玉庭村の一部だった東沢地区の人口は約800人、戸数約190戸だが自主自立の気概が強く、昭和40年代に行政区として認められてきたため、玉庭地区とは別の推進協議会を立ち上げた(2005年に「東沢地区協働のまちづくり推進会議」に改組)。その東沢地区では、1987年にそれまで毎年10人前後生まれていた子どもが2人だったことから、都市との交流で活性化を図ろうと、地区全戸で「山村留学協力会」を結成、1991年に夏休み期間中4泊5日の、翌92年に1年間を基本とする「やんちゃ留学」をスタートさせた。昨年までの短期留学生は約764人、長期留学生は44人だが、「不特定の地域からの受け入れではなく、相互交流を目的とした特定の自治体からの受け入れ」をめざして東京都町田市に特化したため、2004年には町田市の保護者が「相互交流のためにはこちらにも組織が必要」と、「まちだ夢里の会」を結成、山村留学が都市部にコミュニティを生み出すことにつながった。また「夢里の会」は、東沢地区の農家を支えようと産直活動にも取り組み、店舗開発のコンサルタント業を営む会員の一人が首都圏で「おむすび権米衛」を展開する(株)イワイを紹介してくれたため、東沢地区では(株)東沢米翔を設立、2007年産米から取引が始まるとともに、イワイの社員が田植え、イネ刈りに東沢を訪れ農家に民泊する交流も始まった。

 1996年から10カ年の「地域整備計画」を策定、都市農村交流を中心とする地域づくりに取り組んできたが、2006年には5カ年を目標とする「東沢地区計画」を策定、同年には地区のシンクタンク「東沢夢里創造研究所」を設立、東沢米翔や東沢夢工房(農産加工)、農事組合法人、農産物直売所などを立ち上げてきた。そして2011年には川西町の第4次総合計画と連動した第2期地区計画「夢の里づくり物語」を策定し、さらに5カ年の地域づくりに取り組んでいる。

 このように、合併、非合併にかかわらず、集落、自治会、地域振興協議会とボトムアップで計画を練り、それを積み重ねて長期総合計画をつくってきた自治体は多い。しかし、石破茂地方創生担当大臣はこうした積み重ねを、「これまで多くの市町村が独自に5年計画や10年計画というものをつくって取り組んできたと思いますが、そういうものがあることを住民が知らなかったり、その計画が達成されたかどうかの評価はされなかったり、という状況ではないかと思います」「自治体の首長の方々には、これまで日頃一体何をされてきたんですか、と問いたくなります」と、突き放す(『農業と経済』2015年5月号インタビュー)。

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参加民主主義、そしてスロー・イズ・ビューティフル!

「地方自治は民主政治の最良の学校である」という。住民に身近な地域の問題を、住民の参加のもとに解決するという地方自治のプロセスを通じて、住民は民主政治に対する理解を深めていくことが可能となるからである。東京大学名誉教授の神野直彦氏(財政学、地方財政論)は、「日本の民主主義をリードしてきたのは町村である。大正デモクラシーも実態は、1921年(大正10年)に創立された全国町村会が展開した、両税委譲運動にほかならないといってもいいすぎではない。それも町村という身近な公共空間でこそ、参加民主主義が有効に機能するからである」と述べている(『町村週報』2015年1月12日号。両税委譲運動とは当時国税の手中にあった地租と営業税という二つの直接税を地方税に移せという運動)。

 石破大臣は「人口ビジョン」と「総合戦略」を今年度中にすべての市町村で策定することによって、市町村間の差異がはっきりしてくるとし、「この『全国一斉』に策定する、という点が、まずこれまでとは違います」と述べている(同前『農業と経済』)。

 いっぽう小田切さんは、「いま本当に必要なのは、それぞれの地域でいま住んでいる方々、地域に入ってくる方々それぞれの条件に応じてライフスタイルを考え抜き、そこに住む人々の息づかいが聞こえるような計画をつくることです」「いまは早く決めるのがよいこととされ、『スピード感のある対応』などという言葉が平気で使われていますが、新しい社会に求められるのは、『スモール・イズ・ビューティフル』に加えて、『スロー・イズ・ビューティフル』、時間がかかることを前進面としてとらえる発想をもたなくてはならない」と述べている(『季刊地域』21号)。

 全国町村会の協力も得て刊行される『シリーズ田園回帰』は、ただ「人口」のためでなく、時間をかけて一人ひとりの豊かな人生と自治と民主主義をボトムアップで実現するための、地域の計画づくりに役立つ「田園回帰」をめざしている。

(農文協論説委員会)

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