主張

いま、むらから考える
「民主主義ってなんだ?」

 目次
◆満場一致の「原発問題終結宣言」
◆もめば必ず妥協の知恵が出る
◆一人ひとりが知恵と意見を出す
◆むらは熟議の民主主義空間

満場一致の「原発問題終結宣言」

 いまから28年前の1988年、農文協は『現代農業』9月増刊号『反核反原発ふるさと便り 土と潮の声を聞け』を発行した。その「編集後記」はこう書いていた。

「高知・窪川の町議会は、『原発問題終結』を満場一致で宣言した。酪農家であり町議である島岡幹夫さんが、かつての賛成派を『あすからはともに村おこしに取り組まねばならないのだから』と説得したのだという。たからもののような言葉――。全国三十数カ所の農・漁村で、10~20年にわたって原発をはねのけてきた根底に、自然を相手に共同で築いてきた『村』を維持する独自の『民主主義』の伝統がある。いまだ都市の人々が経験したことのないこの民主主義を守るためにも、原発で村を潰してはならない」

 本誌の姉妹誌『季刊地域』の前身『増刊現代農業』の創刊は1987年の『コメ輸入五九氏の意見』であり、同年の『コメの逆襲』と続き、そして3号目が『反核反原発ふるさと便り』だった。そのころ、86年のチェルノブイリ原発事故を受け、日本でも反原発運動が広がっていた。

 当時は、全国15地域に36基の原発が運転されていたが、30以上の地域が10年、20年と原発を拒否し続けていた。30地域のすべては農村であり、漁村である。農家が農家として、漁師が漁師として、その地で生きていくことをあきらめないことが、原発をつくらせないことにつながると訴えることがひとつの発行の意図であった。

 もうひとつの発行の意図は、「都市の人々が経験したことのない村独自の民主主義」とはなにかを明らかにしたいということだった。

 島岡幹夫さんは、同誌に次のように書いていた。

「昭和63年6月25日、『窪川原発に関する決議』『当議会は町民の和を希い窪川原発問題論議の終結を宣言し 右決議する』主旨の決議案をもって町議会の演壇に立った私は、激しく苦しかった闘いの日々に終止符を打つこと、『脱原発』の今後に大きな責任が生じるという思いが交錯し、名状し難い感慨に胸がいっぱいになった。

 起立、全員満場一致・・・・の決定。『玉虫色の決議』といわれるかもしれないが、今回の決議は、原発に賛成か反対かでしのぎを削り、8年間対立論争を繰り返してきた両派が、議会の意志として不毛の論議にピリオドを打ち、町民に窪川原発の白紙還元を宣言したものである」

 原発計画に賛成か反対かの多数決ではない。あくまで「原発問題論議の終結」を宣言する決議案には原発推進派議員、反対派議員の双方が賛成者に名前を連ね、採決に入り、全議員が起立すると、傍聴席だけでなく、推進、反対の垣根なく全議員からも拍手が沸き起こったという。

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もめば必ず妥協の知恵が出る

 そもそも、窪川原発計画とはどのようなものだったのか。

「1980年代、四国電力が窪川町(現・四万十町)に原発建設を計画。推進派・反対派で町が二分され、8年間にわたる争いになった。80年、当時の藤戸進町長が原発誘致を表明し、議会も立地調査を求める請願を採択。反対派は町長のリコールで対抗した(藤戸町長は出直し選で再選)。町は82年、原発への賛否を住民投票で決める全国初の条例を制定した。その後、チェルノブイリ原発事故や地元漁協の立地調査拒否で計画は行き詰まり、88年1月、藤戸町長は誘致断念を表明。同年、町議会が『論議終結宣言』を可決した」(2014年3月10日 朝日新聞 高知県版)

 これに対し、「窪川で暮らす人びとは完全に原発推進―反対で二分され尽くされたわけではなく」、「反対運動の要点は、原発立地をめぐる住民投票条例を作ったことよりも、作った住民投票条例を使わなかったことにある」とするのは、1978年生まれの文化人類学者で、明治学院大学准教授の猪瀬浩平さんによる新刊『むらと原発 窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農文協)である。

 現在77歳の島岡さんを、窪川に10回以上訪ねて同書を書いた猪瀬さんは、昨年11月29日高知新聞掲載のインタビュー記事で次のように語っている。

「都市の人間が見る『町が二分された』というイメージで語ってはいけない。窪川の住民には、もともと(農作業などの場面で)折り合いを付け、関係性を決裂させない知恵があった」「住民投票条例はあくまで最後の切り札。拙速に決めると、最悪のシステムになりかねない。窪川の住民は、地域の集会所などで原発について丁寧に学習会を重ねた。条例を使うところまでいかなかったプロセスこそ重要」

 さらに同書のサブタイトルの「もみ消した」という表現について、「『もみ消す』って否定的なニュアンスだけど、私はポジティブに捉える。住民同士で丁寧に意見をもみ合って、みんなの合意を得ながら原発を追い出した。これってすごい知恵ですよ」と語っている。

 原発計画が持ち込まれた1980年から終結宣言の88年にかけて、たしかに窪川は推進―反対で二分されたかのように見える。しかし、その一方で、窪川町東部地区では1979年から232名の農家による耕地192haの県営圃場整備事業がすすめられ、92年に竣工している。

「原発騒動によって町が二分されたという見方では、なぜ当該地域の地権者のほぼ全員の同意を必要とする土地整備事業が完遂できたのか、という問いには答えられない。(中略)むしろ、地域に存在する関係は、原発推進―反対という二分法によって整理されつくされたわけではない。原発騒動を一時宙吊りにして、区画の図面の引き方や、換地の方法について延々と寄り合いを続ける関係性が存在していた、と考えるべきではないか」(『むらと原発』)

 また、住民投票条例を使わなかったことについて――

「住民投票条例は、推進側にとっても、反対派にとっても両刃の剣だった。どちらも最後まで得票を読みきれなかった。反対側にとって住民投票に敗れることは、息の根を止められることを意味した。一方、推進側にとってもせっかく学習会や立地可能性調査を実施しても、住民投票で反対が勝てば、努力も水泡に帰してしまう。多数決による選挙は、どちらの陣営にとっても暴力性を内包していた」

 そして、「もみ消す」という表現については、原田津氏の著作から、以下の一節が引用される。

「『いたずら』に会合を重ね、『いたずら』にもみ、結局は『まあまあ』で妥協する。それならハナからいいあんばいにあつらえれば――と考える人もあるかもしれないが、それはむらを知らない人のいうこと。むらにとって、妥協はもんだあとにだけ存在する。逆にいえばもみっぱなしではなくて、もめば必ず妥協の知恵が出てくる。妥協ということばの、いまの使われ方からすれば、これは妥協ではなくて『譲る』ということかもしれない。

〔中略〕

 あきらめて納得する。まあしかたないだろうなという納得である。このあたりが、なんとも都会のセンスではわからない。『どうでもいい』ともちがう。『かってにしろ』ともちがう。『地頭に勝てない』のでもない。あえていえば、あきらめなければこれからむらとしてお互い一緒に暮らしていけないではないか、それは困る、ということになる。これを聡明さといったら不都合だろうか」(原田津、1975年「“むら”は“むら”である――農村の論理・都市の論理」『“むら”でどう生きるか――講座 農を生きる4』三一書房。1997年に農文協から刊行された『むらの原理 都市の原理』にも収録)

 猪瀬さんは、原田氏にならって、「原発論議の終結宣言を全会一致で決議したことこそが、窪川の人びとの聡明さであるということに、何か不都合があるだろうか」と述べる。その「聡明な知恵」を、20~30代の青年時代を原発反対派として活動したイチゴ農家の西森義信さん(1953生まれ)が、いま、『むらと原発』でこうふり返る。

「村内に持ち込まれた推進・反対の分断が、いまここまで修復するとは正直思わなかった。やはり町議会が全会一致で原発終結宣言を出したのがよかった。『原発論議を終結する』という条文は玉虫色と言われマスコミからも批判されたが、それでよかった。一般の町民は終結宣言で原発問題は終わったと思ったのだから」

 さらに猪瀬さんは、原発建設の賛否について住民投票条例が制定された全国6市町村のうち投票が実施されたのは2町のみであることに対し、「それぞれの地域の事情を十分に検討する必要があるが、その地域の重要事案を多数決で決めることは最善の方法ではなく、あくまでひとつの方法に過ぎない。現状に対する危機が煽られ、『大胆な改革』と『速やかな決断』が求められる現在、決議を先延ばしにしながら延々ともみ合うことの意味を深めなければならない」と述べている。

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一人ひとりが知恵と意見を出す

 昨年7月下旬、猪瀬さんは各地で活動する同世代の仲間とともに、福島県郡山市熱海町石筵いしむしろの農家・養蜂家の後藤克己さん(77歳)を訪ねた(詳細は『季刊地域』24号参照)。1970年代なかば、石筵の上流に県が建設しようとした食肉加工センター計画を、そこから流れてくる水を生活・農業用水として利用していた石筵の人びとが反対し、白紙撤回させた話を聞くためである。

 後藤さんは若者たちに、こう語った。

「外の人間に指導されてやる住民運動ではなく、あがらで考えていく、あがらで智恵を出していく。その場合、むらの指導者というか、ふだんから本を読んだみたいのが、こうしたほうがいいというのではねくて、部落の役員のようなむらの肩書きがなんにもねえ、そういうのが集まって相談して、役員会で決まったことでやるのではなくて、一人ひとりが智恵を出す」

 また、ここ石筵でも、物事の決め方は拙速な多数決ではない。同行した「すみだ青空市ヤッチャバ」を運営し、「シェアハウスえんがわ」の管理人でもある松浦伸也さん(1984年生まれ、2015年6月号「主張」参照)は自らのフェイスブックにこう記した。

「この集落には入会という総有のグループが江戸時代からあり、入会権をもつ集落みんなで用水や里山、かや場などを維持・利用し合って来た。これらがきっかけになって集落のまとまりを保ちながら、同時に総有であれば全員一致でないとあらゆる物事が決まらない。つまりは合意形成のために、全員が責任を持って意見を言うし、同時にときどき取っ組み合いをしながらじっくり話し合う、そのうえでどうにも合意がなされなければ『風くっちょけ』といって棚上げにする。驚くべきは、そうやってひとつの合意形成が何十年もかけて非常にゆっくりと行なわれたりすること。具体的には祭りを旧暦でやるか新暦でやるかは何十年も議論されているそうだ」

 祭りの議論については1987年発行の人間選書『地域形成の原理』(農文協文化部著)がこう述べている。

「最初の年、吉田さんが『春祭が新暦の4月9日では季節感が出ない。旧に復そう』と提案したときは笑われただけだった、という。だが、聞き流したわけではなく、皆、そのことを心に留めてはいる。翌年の部落総会では賛同者がひとり現われる。さらに翌年昭和60年の部落総会では『継続審議、引きつづき考えてみよう』ということになった。そして、今年(昭和61年)、むらを訪ねた私たちが、むらの老若男女から昔の春祭(青もの祭)の思い出話を聞くと、話のしまいにみな異口同音に『今の祭日では気分が出ない』というのだった。共感する人が年々ふえているのである」

「時間をかける意味は、少数意見が無視されないというだけではない。部落総会という公式の場に参加しないむらびとを含めて、茶飲み、酒飲みの場での非公式な論議が展開し、むらびとひとりひとりが提案事項のもつ意味を反芻する時間が与えられているということである。そして、充分に共感が高まったところで決定がなされるのである」

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むらは熟議の民主主義空間

 いま国会では、一昨年の特定秘密保護法に続き、昨年9月19日の集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案と、与党の多数をたのんだ強行採決が続く。9月19、20日の朝日新聞の世論調査では、安保法案に賛成が30%、反対が51%であり、政府が国民の理解を得ようとする努力を「十分にしてこなかった」が74%。同日の共同通信の世論調査でも「十分に説明しているとは思わない」が81.6%に達した。ほかにも鹿児島県の川内原発2号機再稼働、TPP「大筋合意」、普天間基地の辺野古移設など、多くの国民の反対の声を無視した暴挙が続く。

 それに対し、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)を中心とする若者たちのあいだから、真剣に「民主主義ってなんだ?」と問う声が上がり、9月19日の国会前では「多数決主義は民主主義ではありません」というSEALDsの女子学生のスピーチも聞こえた。

『むらと原発』の猪瀬さんは、ともに窪川の島岡さんを訪ねたこともあるSEALDsの奥田愛基さんへのインタビューで、「SEALDsについて論じる人の多くは、スマートフォンやSNSをうまく使っていることを強調して、若い世代の運動だと言っていますよね。しかし、私が明治学院大学の教員として学生である奥田さんや他のメンバーを見てきた印象からすると、スマートさよりも、むしろ農村共同体に近いと言っていいような、多数決に走らない、個をとても大事にする印象があります」と語っている(青土社『現代思想』2015年10月臨時増刊号)。 

 その奥田さんは、「民主主義は他者と生きる共生の能力」であり、教育とも大きくかかわっていると述べている。

「社会では自分と全然違う人たちと関わっていかないといけない。そういうときに言葉だったりとか、技術的なことだったりとか、能力を高めていく。つまり、他者と生きていく能力を高めていく。それが教育だ、と。(中略)どうやって意見の違う人と生きていくかっていう能力を自分たち自身も高めていかないといけないかなって。今の国会を見ているとそういう能力が高いと思えない(笑)。(中略)勝つことや自分たちがやりたいことを通すのも大事だけど、他者と生きていく能力を一人一人高めていくことが大事だと思う」(高橋源一郎+SEALDs『民主主義ってなんだ?』河出書房新社)

 明治大学農学部教授の小田切徳美さんは、安保法制、TPPは、その対応をしなければ危機が迫るという「脅威」を理由とした大きな政策転換という点で共通しており、さらに「地方消滅」という「脅威」を理由とした小中学校統廃合、拙速な地方制度のあり方の検討、道州制論議の復活にも共通するとしたうえで、以下のように述べる。

「短い時間に少ない選択肢の中から政策転換に導く手法は、古今東西における政治的常套であり、目新しいことではない。しかし、現政権には、それが集中している。そうした中で、今必要なことはむしろ、できるだけ時間を確保して、できるだけ多くの選択肢の中から、できるだけ多くの参加者を集め、熟議を積み重ねる条件を意識的に確保することである。いわば、『熟議空間』の創造である。その点で、安保法制をめぐり、国会前で巻き起こった『民主主義ってなんだ!』という叫びは『戦後レジームからの脱却』が言われるこの時代の政策決定の問題点を射貫いている。TPP合意をめぐる対応にしても、遠回りのようであるが、熟議の民主主義空間を地域レベルから敷き詰めていくことが、今求められている」(日本農業新聞「論点」2015年11月2日)

 すでに見てきた窪川、石筵の例のように、日本のむらにはすでに「熟議の民主主義空間」が存在する。猪瀬さんは学生に、岩手県松尾村(現八幡平市)の実話を元にした山田洋次監督の映画『同胞はらから』(1975年、松竹)を題材に、多数決によらず全会一致に至る話し合いのプロセスこそ大事だという「むらの民主主義」について語る。映画では、春、東京の劇団がミュージカル「ふるさと」の公演を村の青年団にもちかける。しかし、その費用が65万円かかる。「赤字になったらどうする?」と、青年団の理事会は何度ももめる。が、採決はしない。夏を前にした理事会で「赤字になったら」の声に、寺尾聡演じる団長が「俺がベコを売る」と応え、一人ひとりが自分にできることを出し合い、満場の拍手で公演が決まる。

「熟議の民主主義」「むらの民主主義」こそ、いま、若者が田園回帰の深層に求めているものではないだろうか。

(農文協論説委員会)

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