主張

小農の使命――むらに農家を増やすこと
『季刊地域』編集部より

 目次
◆小農の「小」とは何だろうか?
◆小農学会、発足の理由
◆小農にとっての一番の脅威は、地域の小農が減っていること
◆農家が農家を育てる、増やす、継承する
◆小農の見事な競走・直売所

 参院選が終わってアベ強権農政の継続が決まったが、決して悲観はしていない。日本全国津々浦々に、小農の存在のエネルギーの高まりをふつふつと感じるからだ。『季刊地域』26号特集「小農の使命――むらに農家を増やすこと」の編集を終えたおかげで今、そんな強い気持ちを持つことができている。

小農の「小」とは何だろうか?

 農家の万感の思いがこもった特集となった。そもそも毎月の『現代農業』は「農家がつくる雑誌」で、編集部はその実務を農家から委託されて担っているに過ぎない、と考えながら作っているのだが、今回の『季刊地域』(現代農業の兄弟誌)も、まさにそんなふうに出来上がった。アンケートで寄せていただいた農家の声に押されるようにして「作らされてしまった」。編集部としてはそんなふうにも感じる号である。

 さて、特集は大きく二つの要素から成る。一つは「小農」という言葉を巡って。もう一つはその「使命」についてだ。

 まず、小農という言葉。馴染みのある人と、「何それ?」という若い人とが世の中にはいるようだ。今回の特集の編集スタッフはちょうどその中間世代が中心で、言葉に確信を持つためには少し勉強の必要があった。「小農」だから、素直に読めば「小さい農家」。だがこの「小さい」が、なかなかに奥が深そうなのだ。1970~80年代、この言葉がさかんに使われていた頃の解釈では、単に経営規模の大小を表わす「小」ではなく、高度経済成長の当時、農業にも押し寄せた近代化・機械化などの大波に対峙するための「小」でもあったようなのだ。

 当時の『現代農業』誌上でも、小農論議は盛んだったらしい。いろんな農家や学者が、小農とは何か? どうあるべきか? について寄稿していて、なかでも学者でありながらアカデミズムに背を向け、農村に深く入り込んだ守田志郎の言説は、多くの農家の共感をとらえたと聞く。著書『小農はなぜ強いか』から、守田なりに「小農」を語っている部分を一部引用すると、

「小農という言葉がある。日本は小農の国だとか、フランスも小農の国だとかいうように使われる。そういう言い方にぶつかると、頭にくる・・・・という人もいるにちがいない。私も、農家の人たちの前で小農・・という言葉を使うのは失礼なような気がすることもないではなかった。

 しかし、私は、ちかごろは少しちがう見方をするようになった。ふつう、小農というときには、耕作規模の小さいことをさしていうようにうけとられがちである。また、そういう意味にこの言葉をつかう人が多い、と思うのである。私も、以前、そう思っていたことがある。だが最近では、小農というのは、家族が中心になって行なっている農業的な生活のすべてを意味しているのだと考えるようになったのである。

 つまり、耕す畑や田の面積が大きければ大農で、小さければ小農だ、ということではないのである。(略)普通に農業をやっている農家であるならば、畑や田の面積が大きかろうが小さかろうが、小農であることにかわりはない。そう私は思うようになってきたのである。

 小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。(略)

 つまり面積の問題なのではなくて、生活と生産の仕方の中に、小農らしさがある、ということなのである。そういう意味では農家はみな小農なのである。」

「人の働きを頼りにせず、人の働きでもうけようとしないということは、農家は資本家にはならないということである。そして、つまり、農業は工業のような資本にはならない、ということなのである。(略)

 人びとの値打ちを軽く小さくしながらそのことによって大きくなっていく資本にくらべるならば、農家というものは、他人の値打ちを小さくしたり傷つけたりすることもなく、また、他人からその値打ちを損なわれることもなく、一人一人の人間として、それぞれに暮らす部落の地にその生活を根ざす動かしがたい存在なのだと思う。」

 引用が少し長くなってしまった。本当は、一冊まるごとで「小農とは何か?」を伝えようとしている本なので、一部の引用でここにそれを表現するのは無理なのだが、今回この本を読んで、当時のことを直接は知らない世代の編集部も「小農とは」をなんとなく納得させられてしまったのだ、ということは伝わるだろうか。それにしても、昔の人の文章は何とも味わい深い。言葉に力がある。自分を含め現代の日本人に、こういう言葉を紡ぎ出す能力が低下してしまったのはなぜだろう? ということも、ついでに考えたことであった。

*守田志郎氏の著作は、没後20年に改めて13冊の単行本にまとめられ、農文協から出版されている。(関連リンク:農文協からのお知らせ「守田志郎氏の著作」

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小農学会、発足の理由

 いっぽう九州では昨年秋、この「守田志郎が大好き」という農民作家の山下惣一さんと、鹿児島大学副学長から農家に転身した萬田正治さん二人を代表に、「小農学会」という集まりが発足して話題になっている。今回の『季刊地域』の特集では、その狙いなども取材した。

 聞くと、「小農学会」というネーミングにこだわったのは山下惣一さんだったそうだが、内部では「わかりにくい」「規模の大小じゃないと言ったって、小がつくと、どうしても『小さい農家』と誤解される」と、かなり紛糾したらしい。今でもその定義について議論は続いているが、代表の二人に取材すると「そんな難しく考えんでも、小農=農家または百姓、でよい」とそれぞれが語ってくれたので、基本的には編集部でもそう考えることにした。

 山下惣一さんには「小農とは何か?」の問いよりも、「なぜ今、小農なのか?」の問いのほうがピッタリくるようだった。そして、「それは農家・農村が、これまでにないほど虐げられて、危機的状況に追い込まれているからだ」との答えをもらった。TPPやら米価下落やらはもちろん、何より農村から人がいなくなってしまった。高齢者だけが残って、中山間地はどこもかしこも耕作放棄地……。そしてそれに対してのアベ農政は、強い農業・攻めの農業・規模拡大・投資拡大・輸出促進・企業参入・生産調整廃止・規制緩和・農協解体……。

 こういう状況に対して、農家が対抗する方法は何か? 政策誘導の補助金も出る中で、農家は実際どちらを向いてどう歩けばいいのか? 山下さんが「小農」の言葉にこめた思いは、「国にだまされないために、農家は今こそ『本来の農家らしさ』を高めていくべき」ということだったのではなかろうか。自給・循環・複合・家族経営・共同力・自然とともに、むらとともにある存在……。「本来の農家らしさ」とは、『現代農業』でこれまで「農家力」と呼んできた農家に備わる根源的な力のことだ。

 大きい農家にも小さい農家にも、農家にはすべからく「農家力」が備わっている。そのことを反農家的な世の流れに抗して強調する言葉・闘う言葉が、きっと小農の「小」なのだ。現代では、その闘うべき敵の象徴がアベ農政で、奇しくも大規模化を推進している――。そんなふうに理解して、特集の編集を進めることにした。

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小農にとっての一番の脅威は、地域の小農が減っていること

 ところがだ。「それだけではダメだ」と、アンケートや原稿で寄せられた農家の声に言われた気がしたのだ。「小農」の言葉自体への関心はとても高く、その概念を大事にしている人も多かったのだが、農家は全体に、それで終わってはいなかった。関心は、どうやら「わが地域」へと向かう。

 長年、アイガモ水稲同時作の連載を『現代農業』誌上で展開してきた福岡の古野隆雄さんは、「私が住む寿命地区は、8戸の小さな集落です。私が有機農業を始めた頃は、人も農業も賑やかなところでした。40代の後継者が米やイチゴや、または勤めとの兼業農家を、バリバリやっていました。あれから39年。今むらは静かです。『あと5年したら、どうなるやろうか。農業は俺の代で終わりよ。コンバインが壊れたらやめるばい』と、みなそう言っています。私に『田んぼをやってくれ』という話も多く、いつの間にか、水稲7haもの『大きい農家』になってきました」と書く。「(大マスコミや政府はTPPがらみで大規模化、企業への門戸開放をいうが)我が家の田んぼから、30haに広がる当地の水田が見渡せます。ここで一企業が大規模稲作をしても、地域は寂れていくだけでしょう。地域は多くの農家がいて、つながってこそ成り立つのです」「問題の本質は、稲作の持続ではなく、地域の持続にあります」。

 古野さんといえば、若い頃からバリバリの有機農業家で、アイガモ稲作の技術を苦労して究めてきた。全国区もしくは世界で注目を集めてきた人物なだけに、地元では長年「浮いた・・・存在」。だがふと気づくと、自分以外、地域から農家がいなくなってきてしまっていたというわけだ。ずっと地域を反面教師として見るという形ではあったにせよ、「自分は地域に活かされてきた、地域がなければ自分はなかった」と危機感は大きい。

 古野さんは先の小農学会の呼びかけ人にも名を連ねているのだが、学会が小農の定義でいろいろ揉めているのを冷ややかに見ている。「そんなことはどうでもいい。もっと現実を現場を見ないと。小農が地域に足をつけて、何をすべきか、何ができるか」。古野さん自身に小農の定義を聞くと「おいしいものをつくる人」とちょっとユニークな答えをくれるのだが、昨今は「小農と地域」のほうが大きな問題意識のようだ。

 もう一人、「チマチマ百姓」を自任する、福島のじぷしい農園・東山広幸さんも寄稿してくれたが、やはり心境は似ている。「かように、チマチマ百姓はゴキブリのようにしぶといものだが、私のように中山間地に住む者にとっては、残念ながら、まわりの農家の減少が一番の脅威となっている。というのも、耕作放棄地が増えることにより、イノシシなどの有害鳥獣が増えたり、用水などの農業インフラの管理が難しくなってくるからだ」「政府は口では『地方創生』などと言っているが、地域の環境維持の根幹を担う小規模兼業農家をこの間、一貫してつぶそうとしてきた」と、手厳しく政権批判する。

 そうなのだ。今、小農を脅かす最大の問題は、小農が減っていることなのだ。今回、水田130haを集積した水田農家や北海道の畑作大農家など、「現代の大規模農家」からも多数の意見をもらったが、みな異口同音に「拡大したくて拡大したわけじゃない。やめる人の農地を荒らすわけにいかず、引き受けているうちに大きくなってしまった」と語ってくれた。大規模農家とは、断わることのできない地域思いの優しい人たちなのかも……そんな印象を持ってしまうほどであった。

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農家が農家を育てる、増やす、継承する

 そこで、小農の「使命」だ。必然的に「むらに農家を増やすこと」となった。

 国が農家を減らす政策をとってくるのだ。この状況に対抗するには、自分たちで農家を増やすこと、仲間を増やすことしかない。そして、新しい仲間には、ぜひ「小農の精神」を伝えたい。一人一人を丁寧に育てて農家にする。むらびとにする――。アンケートからは、そういう切実な思いとともに、取り組みは各地でとっくに始まっていることが読み取れた。

 記事は、そんな「使命の実践者」から、新しい人を受け入れるときのノウハウをいろいろと集めた形のものになったが、おもしろかったのは、どの人もが「とにかく、まじめに働いている様子を見せて、地域で信用されるようになれ」と若い人へアドバイスしていることだ。たとえば、福島の南郷トマトの大産地で研修生を次々育て、独立させてきた酒井喜憲さんは「あんなやつにハウスを貸さなければよかったと思われないよう、トマトなんか下手でもいいから、ハウスの外側まで草取りしてきれいにしろ」と言うし、新潟の山間地の稲作農家で先輩Iターン者の天明伸浩さんは「集落から一番よく見える田んぼを貸すから、毎朝夕、必ず水の見まわりをして、その姿を見てもらえ」と、次のIターン者を育てたそうだ。北海道の畑作農家の平和男さんも名言を寄せてくれた。「一生懸命やりなさい。もうその言葉に尽きる。いいカゲンにやるな、テキトーにするな、手を抜くな、雑にするな、案外周りの人は見ているぞ。『そんなの関係ない、私たちは私たちよ』なんて思うな、それじゃボス猿農家になっちゃうぞ。独りよがりな農家からは独りよがりな野菜しかとれないものだ。70点で満足するな。研究しろ。誰よりも早起きしろ。そして畑と作物をよ~く観察するんだ」。

 その他にも、「百姓たるもの、なんでも自分で直すべし」「もらう・拾う・借りる、でやれ。無駄遣いするな」など、小農の金言集が並ぶページができた。

 マイペース酪農の北海道・三友盛行さんたちの取り組みもユニークだ。今月号350ページ「意見・異見」にも執筆いただいたが、後継者のいない酪農家と、北海道で放牧酪農をやってみたい若者をマッチングして「リレー(居抜き)継承」する仕組みをつくったのだ。その農場で3年ほど研修した後、牛も牛舎も機械も装置も、そしてそれらがうまくまわるための営農システムも、まるごと継承する。このやり方だと、若者は最初から慣れた牛・慣れた牛舎で経営を始められ、親方農家は培ってきた技術や農場を無駄にすることなく渡せて安堵できる。財産価値は継承時に計算して、五年以内に返済することとした。従来の行政主導のリース事業だと、離農跡地を農業公社がいったん買い上げ、牛も機械も設備も新たに導入する方式なので、技術も営農システムの継承もなく、新規就農者はゼロからのスタート。事業費も莫大で倍くらいかかってしまい、負担が大きかったのだ。

 新しい仲間作りは、農家主導のほうがうまくいく。小農の精神も無事、継承される。農地集積もきっと同じだ。かけ声だけでなかなか進まない農地中間管理事業のことを思い出してしまった。

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小農の見事な競走・直売所

 さて、『現代農業』のほうの今月の特集は「直売所名人になる! 2016」。新潟県上越市の直売所・あるるん畑を取材した(52ページ)。10年前、水田単作地帯にこの直売所ができたことで、その後、地域に小農が確実に増え、元気になっていることを心から実感できた。直売所は、「むらに農家を増やす」装置として、たぶん一番有効なものだと思う。そして直売所ある限り、小農がアベ農政に負けることはない!と思えてくる。

 特集タイトルの「直売所名人」という言葉、今回の記事内ではあえて説明していないが、これは『現代農業』用語集に載っている特別な言葉である。――「直売所名人とは、安売り競争を軽やかに回避する人のことである。そのために品種・品目・出荷時期・栽培法・荷姿・ラベルやネーミングなどにもいろいろな工夫を凝らす。当然マネする人が出てくるが、そうしたらまた自分は次の工夫を考える。これを繰り返していくと、直売所にはどんどん珍しい品目や美味しい品種があふれ、いつ行っても素敵な荷姿の農産物がズラリとならぶ場所となっていく。言葉としては『直売名人』のほうが普通だが、あえて『直売所名人』としたのは、こうして直売所という場をも魅力的に育てていく力を持つ人だからだ」(『現代農業』用語集より)。

 あるるん畑には、こうした直売所名人がたくさんいた。「安売り競争はイヤだから」とズラシ栽培したり、人と違うものをつくってみたり……と、これもまた「工夫の競争」ではあるのだが、全体を盛り上げていく競い合いだ。

 最後に、再び守田志郎の『小農はなぜ強いか』から、印象深かった部分をもう1カ所引用して、この稿を閉じようと思う。

「農耕には、競争の原動力になるようなものがないのである。いっとき、競争ともみえるようなことがあっても、工業の競争のように、相手を破産させて自分が勝ちそれで満足、というようなことではない。しいてきょうそう・・・・・というならば、競とではなく、競と書いたほうがよいようなものなので、ゴールに入ればその競走はおわり、競走の最中も、終わったあとも、かわらずに仲間なのである。」

(農文協論説委員会)

関連リンク:農文協からのお知らせ「守田志郎氏の著作」

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