解題補記―「農業図之目録」の発見― 

清水隆久
目次
一、「農業図之目録」欠落部分の発見
二、新発見「農業図之目録」の概要
三、林家所蔵の経緯
四、発見「農業図之目録」の特色
 1、図絵の各タイトル別紙幅と目録項目
 2、図絵タイトルの字数と目録項目の字数
 3、解説文の字数
 4、解説文に見られる特色
  (1)農具
  (2)作物
  (3)肥培管理
  (4)生活面
 5、『農業図絵』の図絵解説と発見「農業図之目録」の解説との関係
五、おわりに

〈付記〉有沢武貞写本の発見
一、「農業図之目録」欠落部分の発見

 近世絵農書としての『農業図絵』が、本全集第二十六巻として発刊されてからすでに二十年ちかい。この間、諸書に引用されるとともに、彩色図絵による元禄期北陸の農業および農村事情の紹介が、稀有の資料として話題性をもったことから、新聞報道はもとよりNHKテレビの東京・金沢の特別番組にも取り上げられるなど、全国的に知られるようになった。筆者もまた、その後の研究成果をふまえ、一九八七年刊の拙著『近世北陸農業史』(1)(農文協刊)において、日本農業史のなかに位置づけたのであった。
 本書刊行時(一九八三年)には、図絵説明の重要な拠り所とした「農業図之目録」が、一月と二月半ば分までしか発見されていなかった。
 ところが、幸いにも一九九七年六月、石川県河北郡宇ノ気町内日角の旧十村役家・林廣子氏所蔵文書調査の折、同家文書の中から「農業図之目録」の残余分全部を発見したのである。それは折帖である同文書がいくつもに分断された形、すなわち断簡の束という形での出現であった。そこで、二月半ば分で途切れている石川県立歴史博物館(旧石川県立郷土資料館)所蔵の断簡(前掲『農業図絵』二八〇頁)と林家で発見されたものを照合したところ、文脈がぴたりと一致し、筆跡においても異なることがなかった。それはまさしく捜し求めていた土屋又三郎の手になる「農業図之目録」(目録項目とその解説書)そのものであった(2)。
 本稿では、新発見(これまでの欠落部分)の「農業図之目録」翻刻と、この発見史料の概要と特色並びに土屋家一族以外の林家に所蔵されていた理由等について明らかにしたい。
 本稿を「解題補記」としたのは、先の解説・解題をそのままとし、これに補記の形でつけ加えることが、全貌を把握していただく上により的確と考えたからである。
 なお、ついでながら、幻の写本とされていた加賀藩家臣・有沢武貞写本の「農業図絵」発見についても、付記として紹介したい。



二、新発見「農業図之目録」の概要

 ここで、既解題と重複するが、以下の説明をわかりやすくするために、『農業図絵』の構成について一筆しておきたい。
『農業図絵』は絵図の部分を本体とし、『農業図絵』成立の経緯を記した「農業図絵自叙」と、絵図の見出しとその解説書ともいうべき「農業図之目録」とからなっている。この三者が揃ってはじめて完全な『農業図絵』となるのである。さて、新発見史料にふれる前に、まず既存史料についてふれなければならない。それは先述したように、「農業図絵自叙」と「農業図之目録」(一月分と二月分四項のみ)の一つながりからなる断簡史料である。その寸法はタテ二四・八センチ、折幅六センチ、総ヨコ幅一二二センチで、具体的内容については先の『農業図絵』解題を参照されたい。既存史料「農業図之目録」は、正月が田方二項目、二月が同じく田方四項目の計六項目があるのみで、農耕にとって大事な二月後半および三月以降の記述がすべて欠如しており、残念の思いが強かったのである。
 一九九七年に発見した史料は、二月後半以降十二月まで一四〇項目にわたる目録と解説である。目録項目はすでに述べたように図絵の内容を示すタイトルであり、解説はそのタイトルのもと、図絵の内容を要約したものである。既存の断簡と同様、奉書紙に記されており、虫食い、シミ、日焼け、糊はがれ、ちぎれ等の状態から、少なくとも十二の断簡からなっていたことがうかがわれ、一部には童子による鉛筆のいたずら書きも見られた。また、ちぎれた表紙の一枚には、後の加筆になる「手本之上紙」なる文字が見られ、習字の手本として利用されていたことが知られる、という状態であった。
 これらの断簡を糊づけなど一時的修復を試みた結果、全二帖の折本からなっていたことが判明したのである。第一帖が二〜六月の七九項目で全ヨコ幅五二六センチ、第二帖が七〜十二月の六一項目で同四二二センチからなり、両帖あわせると一四〇項目、九四八センチにおよぶ大部のものであることが明確となった。
 これに既存の一〜二月の六項目、一二二センチを加えると一年間を通した記述となり、項目数で一四六項目、紙幅で全長一〇〇七センチの規模をもつことが判明したのである。また、これにより今回発見の分は、項目数で全体の九六パーセント、紙幅で八九パーセントに及ぶことも明らかになった。この発見により求めていたもののすべてが揃ったのである。
 ただ目録と図絵内容を厳密に照合してみると、図絵にありながら目録にないものが二項目、すなわち二月・田方の「田に瓜種植」(日本農書全集第二十六巻『農業図絵』四五ページに登載。以下、頁数記載は上掲本を指す)と、六月・畠方「藍苅」(同上一二〇頁)のあることが判明するにいたった。前者については目録に、前接続項目「一、田に茄子種を植」(四四頁)にくい込んでの破れ痕がみられ、後者については第一帖目最後の項目で、折り目からのちぎれであることがはっきりした。したがって、この二項目を加えると項目数で一四八項目、紙幅で一〇一九センチ、つまり一〇メートル余となる。
 なお、目録項目に「菜種中打」、「畠に鶯菜蒔」と記しながら、図絵にタイトルのないものが二項目分みられた。後者の「畠に鶯菜蒔」については、図絵内容から推して本全集第二十六巻『農業図絵』の四一、四二頁がそれと考えられる。図絵があるのにタイトルがなく、また目録にも記載を欠くものとして最末尾の一八七頁がある。
 以上から、土屋又三郎著『農業図絵』に関し、同著者の手になる農業図の目録と解説が、完全に近い形で整ったことは、近世前期貴重絵農書としての『農業図絵』について、さらにその存在感を高めるものといえる。



三、林家所蔵の経緯

 この目録と解説史料を石川県河北郡宇ノ気町の林家で発見したときは、念願の史料に触れ得たということで大きな感慨をおぼえた。その一方、石川県御供田村の旧十村役・土屋又三郎の手になるものが、河北郡の旧十村役家に所蔵されていたことの意外性に驚いたことも事実であった。というのは、林家が土屋家と親戚的なつながりもなく、現当主自身「なぜ自家に伝えられているのか全くわからない」といわれる不思議さによるものであった。
 ただ、林家文書調査のなかで、従来、写本のみで原本の所在が知られなかった土屋又三郎著の「耕作私記の原本(3)」三冊(全五巻のうち)を発見し、さらに表紙に又三郎名を記した同人著の「三州十村物語」が存在するなど、その昔、土屋家と深いかかわりのあったことを思わせるものが発見されたことは注目すべきことであった。では、どこに両家の接点があったのであろうか。この点について若干ふれてみたい。
 林家は同家由緒書によると、元祖は加賀国石川郡三日市村の出身。元禄七(一六九四年)年、同能美郡若杉村へ移り、第二、三代は若杉村で十村役に就任、第四代のときに同郡二曲村へ、さらに安永二(一七七三)年、能登国羽咋郡相神村へ引越十村(ひっこしとむら)となっている。次に器量人として知られた第五代八三郎は同じくこの地で十村役、ついで寛政十二(一八〇〇)年に河北郡大西村加兵衛先組へ引越十村となり、以来、第六代孫右衛門、第七代孫八郎、第八代孫平にいたる間、河北郡内で十村役として活躍し、明治に至っている。
 これに対し土屋家は、先の解題に記したように、中世土豪の系譜を引く名家であり、第三代目が著名な土屋又三郎で、『農業図絵』の著者でもある。第四代与右衛門は享保十一(一七二六)年石川郡新田才許、同十四年羽咋郡杉野屋村へ引越十村として赴任。以後、第五代から第九代の明治に至るまで同地にあって、羽咋郡の十村役あるいは山廻役など十村役相当職として活躍している。
 さて両家の共通点はともに引越十村であったこと。この引越十村は嘱望されての赴任ということで、その能力が高く評価されていた証左といえる。さらに両家がある時期ともに羽咋郡十村役であり、朋輩として緊密な関係にあったこと。また、林家が河北郡へ引越十村となった後も、羽咋・河北の両郡が隣接する地理的位置にあったことから、格別の親近感があり交流があったものと考えられる。なかでも十村役が農事指導者としての使命をもつことから、この面についても意見交換があり連係があったといえる。
 林家に『農業全書』『量地指南』『人参甘蔗栽培法』『私語本草綱目』『和漢三才図会』などが遺されていることをみると、十村役林家の農業への関心がきわめて高かったことをうかがわせる。こうした農事への熱い思いが何らかのきっかけにより、土屋家から林家への「農業図自叙」「農業図之目録」および「耕作私記」原本の譲渡につながったといえまいか。いささか牽強付会の感があるものの、この思いは強い。



四、発見「農業図之目録」の特色

 1、図絵の各タイトル別紙幅と目録項目

 「農業図之目録」にみられる項目数は、上述したように全一四八項目である。これに対し『農業図絵』全三冊にみられる彩色図絵総頁数は全一七八頁となっている。図絵頁数が目録総数より多いのは、一項目につき二頁以上のものが十一項目みられるためで、これらはいずれも見開き、あるいは頁送りとなっており、総数三〇頁に及んでいる。増加分の最多は、「正月・田方二日より田畠育(こえ)取」で、タイトル頁以外一八頁もの紙幅を与えている。次に二頁分の増加がみられるのは「田植付毎日田廻りして田へ水を当る」「村々氏神を祭る」および「御年貢皆済状取」の三項目である。また増加分が一頁のみは、「四日より農具拵」「畠に鶯菜蒔」「田植代の育配」「表田植付」「惣田三番草取」および「赤土かぶら売」の六項目である。同一タイトルで頁数が多いのは、筆者がその内容を重要視していた証といえる。

 2、図絵タイトルの字数と目録項目の字数

 『農業図絵』にみられる図絵のタイトルと「農業図之目録」項目の字数を比べた場合、図絵タイトルは頭部に掲げた「一」の記号を欠く以外、ほとんど目録項目と同一である。
 このことは図絵タイトル字数が一項目平均六・九九字であるのに対し、目録項目の字数が平均八・二字であることからもうかがわれる。図絵の場合、タイトルが長すぎると絵画部分がそこなわれ、見にくくなるのである。この極端な例が図二月・田方の「種籾池より上て快天に苗代に蒔」一四字で、目録では「一、種籾池より上て六、七日立て籾能頃に目立時分、快天風なき日苗代に蒔」三一字と倍増している。

 3、解説文の字数

 図絵のタイトル内容を説明する解説文は、図絵に見られなく、「農業図之目録」だけに記載されている。この解説文は図絵内容を簡潔に説明するというもので、言ってみれば美術品等の展覧会における出品作品の説明文に似ている。したがってこれを読めば、描かれた絵に関し、何を描いたのか、また描こうとしたのかが、誰にでもわかる内容となっている。
 このため簡潔を旨としており、説明文の字数も一項目当たり平均四二・七字の短文となっている。四〇字余で説明できる範囲はおのずから限定されるというものである。これらの解説文のうち、平均字数の二分の一である二一字以下は二九項目であり、このうち一〇字以下は六項目である。これに対し一・五倍である六四字以上のものは二八項目で、さらに二倍の八五字以上となると七項目となる。
 「一、田植付毎日田廻りして田へ水を当る」「一、松任近辺干田しる」「一、瓜」「一、雨天の日ハ稲扱」「一、米仕立る」「一、赤土かふら」「一、御年貢計皆済状取」この七項目をみると、水稲栽培における肥培管理のかなめと、米の精選および年貢米差し出し、さらに瓜・赤土かぶらといった換金作物についての叙述となっている。二倍以上の字数を与えていることは、それだけ筆者の関心が高いことを示すものといえよう。ちなみに最多の一三九字は、「一、田植付毎日田廻りして田へ水を当る」項の解説で、水の確保と管理に関する強い関心がうかがわれる。

 4、解説文に見られる特色

 『農業図絵』および「農業図之目録」は、土屋又三郎が宝永四(一七〇七)年に著した『耕稼春秋』の第一巻「耕稼年中業事」を中心に、第二巻「稲之数」、第三巻「田畠蒔植物之類 附三草四木」等を念頭に叙述したものであり、いうなれば『耕稼春秋』と一体となったものである。したがって『耕稼春秋』を精読すれば内容の理解も容易ということになる。
 ところでこの解説文の中には『耕稼春秋』に見られない叙述、あるいは力点をもつものがある。以下そのいくつかを事例として掲げよう。

  (1)農具

 農具は、農業技術あるいは農業生産性を示すバロメーターとして重要視される。この農具に関し、三月・田方には「一、沼田亀切しる」の項目(五二頁)のもと、田切を容易にした鎌の工夫について次のように記している。

沼田かぶかけ計にてハ土くたけかたきゆへ、貞享の頃、御供田村十兵衛と云百姓工夫して、柄二尺三、四寸の鎌にて打発、新土を二ツ三ツに切。是を亀切と云。荒田の発土ハ亀ににたる故に云。

 次に、稲の脱穀に関し、千歯扱きの登場を述べているのが注目される。すなわち九月の田方に「一、雨天の日ハ稲扱」(一六三頁)として

(前略)稲こき摺する。古ハこい箸にて稲二、三筋充扱。正徳三、四年比、江州越智郡目賀田村西沢長太夫、稲扱と云物を加州江持参して三州江売出す。

と記している。『耕稼春秋』の著された宝永四(一七〇七)年に千歯扱きの記載がなかったことを考えると、この数年後に導入されたことがわかる。この稲扱き、すなわち千歯扱きについては、すでに正徳年中(一七一一〜一六)、江州辺から導入されたことが明らかにされていた。しかし正徳三、四年と特定し、さらに売人の名前まで明確化したのは、この史料が初めてである。この稲扱き導入を機に、続く享保年間には唐箕・千石とおし・土臼など、当時として革新的な農具が相次いで導入されるのである。この点、『農業図絵』の著された享保二年は、まさに元禄期農業の大きな転換点であった。

  (2)作物

 『耕稼春秋』は、栽培作物として、稲をはじめ田畠植物および三草四木と広範多岐の作目を記している。これに対し『農業図絵』の場合は、実際に栽培している作物といった感が強く、それだけ作目数も少ない。そうしたなか三項目にわたる刈大豆の記述が目を引く。
 まず、三月・畠方において、「一、野畠、刈大豆蒔」(六七頁)として、

是ハ馬の飼草也。七十年以前まて御当地になし。万治二年、上使御馬入用に御尋有て、同三年より蒔、泉野村に蒔。御厩其外御家中、此村より売、在々よりも秋こき葉等買集て売。

と記している。七〇年前といえば正保末年から慶安初年のころで、加賀藩農政の一大改革である改作法の施行が準備されていたときであり、また万治二(一六五九)年は改作法終了直後の時期に当たる。このことは幕府の加賀藩への関心を一段と高め、また武士の知行地直支配の廃止を柱とする改作法が、武士をして馬一匹の飼料をも金銭支出に頼らざるを得なくさせたことを示すものである。なお、改作法施行後、農民と給人との関係が疎遠になったとの記述は、全体を通じていくつか見られる。
次に、例二として瓜を挙げよう。すなわち六月・畠方に「一、瓜」(一一三頁)をあげ、次のように導入時期を明らかにしている。

(前略)熟瓜、四十年余以前、美濃国より種色々当国江御取寄の事有。但加州上也。田中村・徳用村辺ハ上瓜也。

として、城下町金沢の拡大とともに需要の高まった菓子瓜に対し、藩が名産として知られる美濃の真桑村(現岐阜県本巣郡真正町)から美濃瓜の種子を導入し、産地化した様子を述べている。

  (3)肥培管理

 肥培管理として中打に関し、五月の田方に「一、早稲田一番中打」(九一頁)を掲げ、

惣して田の中打ハ堅田ハ三度、沼田ハ二度、土を和くため也。五畿内ハ上田ゆへ田に苗を細かに植る故中打なし。夫故田埒もせばし。

と記している。中打すなわち埒打(らちうち)に関し、畿内との比較において論じていることである。当該地域のみでなく、広い視野に立っての叙述態度を示すものである。
 次に、六月の田方にみられる「一、惣田三番草取」(一〇五頁)の項目を掲げよう。

右同断。加州四十ケ年以来、男女不残出て草とる。

として、家族総出できつい田の草取り作業に精を出している様子を強調している。この四十ケ年以来とあるのは、いわゆる改作法施行直後を意味し、改作法により勧農対策が一段と強化され、労働集約化が進んでいることを示すものである。
 次に、金沢近郊農民が藁まで販売するなど、元禄期貨幣商品経済の影響をもろに受けている例として、九月・田方の「一、中稲刈最中」(一四八頁)を掲げよう。

稲たばの事、金沢の壱束は越中・能州の一把程也。加州別而小束に仕る。稲よく干る。第一ハわら数多して売ため小束にする。

 すなわち、販売用わらの束数を少しでも多くするため、越中・能登にくらべ極端に小束としていることが強調されている。貨幣経済にあがいている様子がうかがわれる。



  (4)生活面

 百姓と胡麻の油は搾れば搾るほどとれる、といった言葉に代表される近世農民の貧困と働きづめの農民像に対し、この『農業図絵』は憩いとうるおい、そして豊かな精神生活面があったことを知らせてくれる。詳細についてはすでに先の解説・解題でふれているので参照されたい。この補記では、著者の又三郎がどう説明しているかという観点から、民俗学的にも興味があるものを二点ばかり述べることにする。まず八月の畠方に「一、村々氏神を祭る」(一四三〜一四五頁)」の項があり、次のように記している。

神明帳に載る大社ハ一郡に十二、三社程有。今ハ元和の比伊勢おとりの節より、村々榊の立所に小社を建て、在々不残祭。土民祭にハ■(酉+差)を献して悦。

と述べ、鎮守の社成立の経緯と、これを祭る慣わしを記している。氏神は村人にとり心の拠り所だったのである。絵図も祭りを楽しむ人々の明るい笑顔を描いている。ただどういうわけか、氏神以上に農民の精神的支えであった仏事・仏閣についての記載が一切ない。
 次に休み日についての記述をみよう。九月の田方に「一、稲不残取入て一日休」(一六一頁)の項がある。

惣して農人纔に年中両度の休有。田植済一日、又秋稲取入て一日如此休。此外月々半日宛、所により二、三日休。是をやひこと云。屋彦の本地下越後に大社有、此神を祭心得なりと云。追而可尋農神故歟。

 これによれば、かなり臨時的な休みがあったようである。加賀石川郡には今も臨時的な休みを「やしこ」と呼ぶ慣わしがある。たとえば旱天続きのなか、雨が降ったときに休む「雨ふりやしこ」がそれである。この記述から「やしこ」の語は「屋彦」から出ていることが考えられる。
 以上、解説文の特色的な叙述に関し、農具・作物・肥培管理および生活の観点から一応の概観を試みた。そこには少ない字数でいかに主題に迫るか、また作物や生活・制度のルーツにふれるなど、読者の興味を引き出し、画中の世界に取り組もうとする気迫がうかがわれる。十村役としてさまざまな体験をし、高い識見と視野に立った土屋又三郎ならではの筆力といえよう。



 5、『農業図絵』の図絵解説と発見「農業図之目録」の解説との関係

 日本農書全集第二十六巻『農業図絵』の解説・解題が筆者(清水)の手になることは既述したとおりである。ここで問題になるのは、先の筆者の図絵解説と新発見史料にみる解説との関係である。つまり両者の間に齟齬がないかという点である。
 新史料の場合、一項目当たりの解説文は平均四二・七字の短文であり、特色をもつ叙述がみられるものの、概してイントロ、かつ概括的説明が多い点、すでに明らかにした。筆者の場合、各図、各頁ごとに絵に沿いながら著者の又三郎が典拠とした『耕稼春秋』を中心に、同時代の加賀江沼郡の農書『農事遺書』をはじめ、天明期加賀石川郡の農書『耕作大要』、同越中砺波郡の農書『私家農業談』、天保期の加賀能美郡の絵農書『民家検労図』、さらに元禄期の全国農書『農業全書』などを取り上げ、これと比較しながら農事内容の叙述を進めたのであった。
 また、加賀藩農書のほどんどが十村役の手になることから、十村制度、加賀藩農政、さらに加えて時代背景とも結びつけながら説明を加えたことはいうまでもない。そこには読者が抱かれるであろう疑問点をも念頭に置きながら、読者と一体となり、楽しく絵図をひもといていく立場を堅持したのである。したがって微に入り細を穿つ面もみられ、おのずから紙幅も増大したのであった。
 たとえば、正月・田方の「一、二日より田畠育(こえ)取」の項(九〜二七頁)全一九頁に関して、土屋又三郎の解説文が六七字であるのに対し、筆者の解説が一三、四四〇字に及ぶのはこの表れである。同様に七月の田方「一、畔草取」(一二三頁)の土屋の解説が「是ハ畔大豆の修理也」としてわずか九字の説明であるのに対し、筆者の場合四四八字分の解説を加えている。さらに土屋の解説文で最長一三九字におよぶ「一、田植付毎日田廻りして田へ水を当る」に対し、筆者の場合、二、〇四八字分の紙幅となっている。筆者の解説は、土屋解説部分も含めた総括的説明である。したがって土屋解説と齟齬するものではない。土屋の解説書は手書きの折本であり、その目的が、何が描かれているのかを一見してわからせようとするものである以上、当然短文とならざるを得ない。この点筆者の場合、そうした制限がなく、編集部の配慮により思うままに解説しえたということである。



五、おわりに

 今回の『農業図絵』の目録と解説の発見は、長年捜し求めていたものだけに、偶然とはいえ、目に見えない大きな力によるお引き合わせとの思いが強い。それはまた、本史料を保存してこられた林家への感謝の思いでもある。ともあれこの発見により、類まれな近世絵農書としての『農業図絵』が、付属史料を含めほぼ完本の形でととのったことは、農業史究明の貴重史料として大きな収穫であった。
 目録項目に対応した解説については、簡にして要を得たものである点、先の断簡史料においても感じていたが、今回の発見によりさらにその感を深めたといえる。『耕稼春秋』にみられなかった特色ある記述もみられ、また読者の好奇心にうったえるなど、読み手を意識しての筆の運びがみられた。
 これらは『農業図絵』、「農業図之目録」が、まさに出色のものであることを示すものである。そしてこの中に、著者土屋又三郎の農業への思いや、自然の息づかいとともに生きてきた農人の姿をみるのである。それは上意下達の村役人でなく、大地に根ざした農民の姿そのものであった。



 〈付記〉有沢武貞写本の発見

 先の本全集第二十六巻『農業図絵』解題において、『農業図絵』の現存本には、第二十六巻底本の石川県鶴来町桜井家蔵本(以下、桜井本と呼ぶ)と、愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫本(以下、岩瀬文庫本と呼ぶ)および常民文化研究所所蔵本(以下、常民本と呼ぶ)があることを述べた。また、桜井本に対し岩瀬本と常民本は、内容的に全く同じものの、描かれている人物数や図絵内容の一部に省略等が見られることから、『農業図絵』に二系統が存することを明らかにした。
 さらに有沢写本の存在についても言及した。この写本は昭和十四(一九三九)年刊『尊経閣文庫加越能文献目録』の第九門産業・科学類第一類産業に、「耕稼春秋図会・有沢武貞(4)撰、元文二年写(自筆)」として登載され、つとに知られるところであった。なおこの写本に関し『国書総目録』は、「耕稼春秋図会一冊、類農業、著有沢武貞、写金沢市加越能(自筆)」と記し、さらに日置謙『加越能郷土辞彙』は有沢武貞著述の一つとして『耕稼春秋図会』の書名を記しているのである。しかし、尊経閣文庫からは所蔵していないと言われ、また第二次大戦後、尊経閣文庫の加越能文庫分の寄贈を受けた金沢市立玉川図書館加越能文庫にも架蔵されることがなかった。このため有沢写本は幻の写本ということで、筆者はその所在を捜し求めていたのである。
 ところが一九九八年、金沢市在住の山岸栄之氏から「最近『農業図絵』の写本を入手したので見てもらえないか」とのご連絡をいただき、初めて披見の機会を得るにいたった。
 当該写本は、「耕稼春龝(秋)図絵春夏」の題簽が付されていた。春秋とあるように二冊本のうち第一巻(正月〜六月)だけであり、元文二年四月の年月と有沢武貞の署名と落款をもつ序文が付され、『農業図絵』の書名はないものの農業図絵そのものであった。本写本が、内容的には原著者土屋又三郎が命名した農業図絵でありながら『耕稼春秋』の題名を付しているのは、内容が『耕稼春秋』記述の「耕稼春秋年中業事」を図絵化していることと、『耕稼春秋』が『農業図絵』より十ケ年も前に発表され、この名が農政担当役人や十村役層等を通じて広く知られていたことから、この書名となったものと考えられる。本写本の判型は半紙判で、墨付五九丁からなり、表紙・裏表紙ともに朱色で、表紙には前述のように異体字も混じった題簽が貼られ、その次に扉、ついで有沢武貞の漢文による序文ががみられる。本文は正月から六月にいたる農事図で、それぞれタイトル的説明を掲げ関係作業図を描いている。
 扉に前の文字があり、書物の背に「共二冊」と墨書されていることからも、本書が第一巻であり、別に「後」秋冬編としての第二巻の存在が考えられる。表紙の朱色には顔料の部分的剥落があり、また手ずれ跡が見られるなど年代の経過がうかがわれる。叙述の内容は前述岩瀬本系統に属する。具体的内容に関しては紙幅の制約上困難なので、後掲拙稿(5)をご参照願いたい。


〔注〕
(1)清水隆久著『近世北陸農業史―加賀藩農書の研究―』農文協刊、一九八七年。
(2)清水隆久「『農業図絵』に関する新史料について―目録・解説の発見―」石川県郷土史学会々誌第三十号、一九九七年。十二月
(3)清水隆久「土屋又三郎著「耕作私記」原本の発見」石川郷土史学会々誌第三十三号、二〇〇〇年十二月。
(4)有沢武貞は、金沢市立玉川図書館蔵加越能文庫の有沢武貞自筆年賦によると、天和二(一六八二)年生まれ。宝永六年(二八歳)新番、正徳五年(三四歳)遺知三〇〇石襲封、享保九年(四三歳)御細工奉行、享保十九年(五三歳致仕)。元文四年(五八歳)永眠。通称森右衛門、字は伯赳、号は桃水軒、後に栖老亭。父采右衛門から家学の甲州流兵学を受け継ぐ、となっている。『加能郷土辞彙』は、武貞の生涯における著作として二六点を挙げている。
(5)清水隆久「有沢武貞『農業図絵』写本の発見―図絵の特色と武貞の思い―」石川郷土史学会々誌第三十一号、一九九八年十二月。


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