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日本文化の原郷としての農書 

徳永光俊

老いも若きも

 最近、農書を読む楽しみを広げようと、いろいろな試みをしている。私の勤める大学の研究所では、農書を読む寺子屋を開いた。農書の原文コピーと該当する「日本農書全集」の翻刻と現代語訳を配布して、江戸時代の農書の雰囲気を味わってもらった。参加者は六十代、七十代の方がほとんどであった。最高齢は八三歳。感想を一つ紹介しよう。
「戦後アメリカナイズ一方で、いま破綻に瀕している日本農業の現在を読み解き、これからの方向を示して頂いた。この四十年で失ったものの大きさに落胆している世代として、胸に沁みました。」(六十代・女性)。
 また、山形県村山市の農家である門脇栄悦さんの紹介により、小学五年生の息子さんのクラスで授業をした。
「寒だめし」と呼ばれる民間の古い天気予測が、農書に「寒三十日の刻積り」としてちゃんと出ていると話すと、みんなびっくりする。作物の根は人間で言うと何に当たるだろう? みんなに質問する。いろいろ考えているうちに、「口です」と答える子供がいた。「そうや! 実は、江戸時代の農書も同じこと言うてんねん」と誉めると、うれしそうに笑う。
 老いの経験は、農書に感動する。若い感性は、農書と響きあう。



農書を味わう

 「日本農書全集」全七二巻の中から、どれか一つの農書を選んでじっくり読んでいくのは楽しい。津軽の農書「耕作噺」(一七七六)をひもとけば、「去ば、漢家に斉民要術、農政全書等の書有而農書に乏しからず」。ほう、中国の農書も伝わっていたのか。「我朝に於ては古より農事の書有ことを聞かず。然るに貞享の頃筑前の産宮崎安貞といへる翁、貝原篤信と心を合せ、農業全書を作りて普く民間に行ひ、勧農の補益とす」。やっぱり農業全書というのは、当時から有名だったんだな。「其後に至て農術鑑正記、勧農固本録、農制随筆、農家貫行、民間備荒録等の著連綿と行れて農業耕植事業頗る備れり」。ふむふむ、たしか農術鑑正記と民間備荒録は、農書全集に入っていたぞ。
「農事は其国其土地により異同有て、東西南北の四方各一様ならず。……故に耕作の業は能く其国土地の事に詳かならずしては、その功を得る事かたかるべし」(以上は第一巻一七頁)。おっー、こりゃすごいこと言いよる。その土地土地で風土も歴史も違うんだから、農業のやり方が違っているのも当然だ。この農書の作者、ようわかっとんなー。



別巻「分類索引」の活用

 ところで、中国の農書はどれくらい普及していたのだろうか。一つ一つ農書を調べることは、容易でない。しかし、今度出版された別巻『収録農書一覧 分類索引』の「分類索引」の中の「U 書名」をひけば、たちどころにわかる。
 斉民要術は、民間備荒録(一七五五)、私家農業談(一七八九)、農業談拾遺雑録(一八一六)、勧農和訓抄(一八四二)が書名をあげている。農政全書はとみれば、農業全書、民間備荒録、私家農業談、農事常語(一八〇五)、農業要集(一八二六)で引用されている。
 一方、日本の農業全書(一六九七)は、実に四五の農書に引用されているのである。ただ「農書」とだけ記して、農業全書をさす場合も多かったから、引用農書はもっと多いことだろう。二番目に多いのが農業余話の一一だから、農業全書の影響力がいかに大きかったかがわかる。中国農書の影響は直接ではなく、農業全書を通じて全国の農家に広まったのである。
 この別巻の活用によって、農書を読む新たな楽しみがふえた。七二巻の農書全集をすべてまな板の上にのせて料理する。「A 農法・農作業」から「Z 絵図」まで分類索引二六項目を使って、レシピをいろいろ作ってみよう。また、成立地や分野別などの収録農書一覧といった総まくりの見方も、きっと新たな発見があるだろう。現代的課題を解くキーワードからの収録農書一覧により、別の農書に当たっていけば、古いと思っていた農書が今に甦ってくる。



土地相応の工夫

 それでは、農書の作者たちにあったこだわりは、何だったろうか。甲斐の「農事弁略」(一七八七)は言う。「農業全書を友(と)して、積徳の道をこころむ。此書 詳 かなりと云へども、此辺の土地相応成事少し。故に全書を本とし、且老農の巧者をバ遠路雨雪をいとはず尋聞、耕作に心を寄(せ)、日記を集め農事弁略を作る」(第二三巻二九七頁)。
 自分たちの経験だけを頼りにしていては、農業はいつか袋小路にはまってしまう。そんな時、「外来」の情報である農業全書は、自分たちの農法を「在来」として見直す鑑となる。農業全書に学び、他地域の上手な老農から聞き取りし、自ら工夫をこらし記録していく。こうした積み重ねから、その土地に合った「在地」の農書が産み出される。そして徳を積む。農藝の道。
 在地→外来→在来→在地の繰り返しである。その根本にあるものは、土地相応という考え方である。「風土の勘弁」「粗濃の多用」「都鄙寒暖の違ひ」「土地に厚薄寒暖有り」と表現はさまざまだが、土地相応の重視こそが、農書の魂といってよかろう。



産土神のお恵み

 もう一度、別巻「分類索引」の助けをかりよう。「O 年中行事・信仰」を引いてみる。あるわ、あるわ。田の神、山の神に、氏神、土神。しかし、八百万の神という言葉は一度しか出てこない。いろいろな神さまが登場する。こうした中で一番多いのは天照大神で一五農書あり、次いで一三例の産土神である。
 おもしろいのは引用の仕方の違いである。天照大神は、食物の神である保食神などとともに、序文で日本列島の農業の起源をおごそかに説き起こす際に引っ張りだされる。産土神は、年中行事の一環としてさりげなく書かれるにすぎない。飛騨の「農具揃」(一八六五頃)が、八月「村々多く産土神の神事あり。……惜かな、敬神の心なし」(二四巻一〇九頁)と嘆くほど、日常化してしまっている。
 しかし、天変地異の「大変」の時、神の立場はひっくり返る。一八四七年の善光寺地震の際、「土地神江参詣せしに、拝殿散々潰(れ)、屋根計ニ相成。人々打寄(り)、産神之身代りに立せ給ふを恐(れ)悦ひ拝しぬ」(第六六巻二五七頁)とある。一八五四年の安政東海地震による津波被害の際には、「村内無難ニ而有之候趣、是全ク産宮諸神の神力ニ而誠ニ天ニも登ル心地」(同巻三九七頁)がしたのである。天照大神の出る幕はなかった。
 土地相応の工夫をする農民たちの原郷は、夫々の土地に根付く産土の神であったのだ。



今こそ「日本農学」を

 日本列島で日本語を話しながら暮らしてきた人たちが、万物の根源を感受し、自然・宇宙への畏怖、感謝の気持を表現した言葉、そして実在こそ〈カ=ミ〉であった。太古の人々は、目に見えない潜象(カ)と形而下の現象(ミ)の表裏一体の世界を〈カ=ミ〉という和語で呼んだ。
 何千年の間に神・儒・仏が外来した。しかし、一方的に排除するのでなく、在来のものに融和させながら、新たな在地の神を作り上げてきた。産土神然り。天照大神然り。根幹には〈カ=ミ〉があった。枝葉はまさに八百万の神々である。花実はこの私たちの現象世界である。
 江戸時代の日本農書の作者たちは、中国農書を受容しながら、世界でも稀に見る良質で膨大な農書群を産み出した。遡って弥生時代の人たちは、稲作の渡来に対し縄文農耕と融和させながら、新たな農耕文化を築いた。明治に入れば欧米農学が、戦後は米ソ農学が、そして今は欧米の環境学が外来している。はたしてこの一五〇年ほどのあいだに、日本列島に根付く在地の「日本農学」は産み出されたであろうか。
 日本文化の原郷としての農書は、「日本農学」創造のための宝庫である。今回の別巻は、ありがたい導き手である。



日本列島の住民たちの「和學」

 しかし、ことは農学にとどまらない。「日本農書全集」の裾野は広い。別巻「分類索引」の項目をみると、「A 農法・農作業」からはじまり「L 経営」「M 諸稼ぎ・職業」までは農業や生業関係だが、「N 衣食住」からは江戸時代の人々が直接書き残した生活や社会の貴重な記録である。「V 名産品」「Y  成句・ことわざ」など、どんな言葉が出ているか興味津々である。
 農書は、日本文化の原郷である。農書の泉に育まれた「和學」をいまこそ樹立しよう。「和學」の大樹を子や孫へ、そして世界に伝えたい。



(大阪経済大学日本経済史研究所所長)

 引用は農書の原文によっているが、全集には原文に現代語訳を併記し、かつ詳細な注記を付してある。(編集部)
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