● 共生思想に基づき農場を解放した有島武郎


 大正期に真摯な思想的葛藤によって文学による精神遺産を残し、自らの農地を小作農に無償解放した有島武郎は、狩太村には最初不在地主の子として現われました。札幌農学校や欧米留学で西洋キリスト教思想とクロポトキンの相互扶助思想に親しんだ有島は、自らの理想と不在地主としての現実の狭間に苦しんだ末、大正11(1922)年7月18日、父武が命名建立した弥照神社に小作人を集め、30分ばかりかけて農場を解放する旨の話をしました。
「この土地のすべてを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するよう御願いするのです。その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類のものは、人類が全体で使用し、人類全体に役立つようし向けられねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものではないからです。諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況の変化する結果となることを祈ります」
 農民には有島が何を言っているのかよくわかりませんでしたが、もう年貢を納めなくてよいということがわかったとき、神社の階段を転げるように駆け下りたといいます。有島が解放した農地は第一、第二農場あわせて約400町歩、有島44歳のときでした。