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第13回 自分の暮らしている街を撮ろう(最終回)

 さていよいよ最終回である。今回はこの連載の総仕上げという意味も含めて、自分たちの住んでいる町を題材にしてみよう。
 古い街道筋にある町。新興住宅地の町並み。下町の商店街。田園の中の町。山の中の町。いろいろな町があるけれど、住んでいるものならではの視点をどうもったらいいのかを考えてみよう。

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見逃してきた風景

最終回にふさわしいお話はなんだろうと考えた。この連載でやってきたことのすべてを網羅していて、さらに実際の授業で活用できるということを考えて、「自分の住んでいる町を撮影する」ことを考えてみることにした。

観光パンフレットをつくるわけではない。住んでいる人、とくに子どもの視点で自分たちの町をもう一度見直してみると、新しい発見が必ずあるように思う。

愛国教育やら、英語の必修化がとりざたされている。国を愛するなどというのは人間のもっとも基本的な感情であり、それは決して自分の国さえよければよいとか、自分の国が一番えらいのだなどというナショナリズム(国益主義・国粋主義)ではなく、自分の国の風土や歴史や文化や文明を深く理解しそれに誇りをもつ、つまりパトリオティズムであることは疑いえない。

郷土に深い愛着と理解をもつことはとりもなおさず、よその国に住んでいる人の郷土にも思いを寄せるということ。それがふつうの国際化だと思う。英語ができるということは国際人としての絶対条件とはいえないのは、英語を母国語とするアメリカ人やイギリス人のすべてが国際人ではありえないことをみても明らかである。

自分は何者でどこから来てどこに行くのかを知ること、つまり郷土を深く理解するところからしかはじまるはずはないと思う。英語はその次で充分。ロシア、ドイツとたて続けに取材してその思いを強くした。よその国で問われるのは、日本人として何をどう考えるのかというただ一点だった。

住んでいるがゆえ見逃してきてしまったたくさんの生き生きとした郷土の風景や人々の暮らしを、カメラを通してもう一度見つめなおしてみよう。

自分の国を愛せない人はよその国を大切になどできないと思う。


コツ1 何を見逃してきたかを考えよう

左の写真をご覧いただきたい。なんてことのないどこにでもある商店街。けれども、ここから川越(埼玉県)の蔵の町がはじまるのだ。

この起点というか、はじまりというのは意外に見落とされてきた。もちろん明確な「はじまり」の場所がないことも多い。

けれども、象徴的な場所への入り口はこんな感じですよという説明はほとんど見ることがない。

理由は、写真にしてもツマンナイからである。

これもなんてことのない横丁である。
縦画面にすることで、横丁の奥行きが表現できる。この横丁とか路地裏というのはじつに味わい深い。人々の表の顔ではなくて、その町の本質、つまりもっともその町らしさが現れているところでもある。

子どもが走り回るのは、今も昔も横丁とか路地裏である。
人の暮らしそのものにしっかり視線をおきたいものだ。

上の写真と同様、なんてことのない横丁である。横画面にしたことで左右の広がりを強調した。

こうしてみると、コンクリートの壁がいかに味気なく冷たい感じがするのかが一発で理解できよう。
写真にお話をさせるということの意味は、撮影した人がどんな問題意識や感動をその場所で味わったかということだ。

だから、100人いたら100通りの「川越」がある。そこにこそ写真を撮る意味がある。

いくら観光パンフレットじゃないからといって、有名な場所をあえてはずすことはない。有名な場所というのは、やはり魅力的なことが多い。

魅力的な場所というのは、たとえば岡山市でいうと、岡山城ではなくて後楽園である。
とってつけたようにコンクリでつくられた岡山城に魅力を感じて誇りに思う岡山市民とは出会ったことがない。

けれども、岡山にきたら後楽園に行かなくちゃという岡山の人は多かった。
暮らす人が誇りに思う場所が本物なのではないかなと思う。

上の写真のようにまずは全体像を引いてみる。
次に、もっとも印象的な部分を思いっきりクローズアップにしてみる。

写真1枚ですべてを物語ることができればそれが一番いいのだけれど、それはほとんど不可能。
だからこそ数枚の写真を組み合わせて、全体を表現するのだ。

このとき、思い切って遊んでみよう。
誰も考えもつかなかったようなアングルを探すというのは楽しいことである。


コツ2 見せたいものを効果的に

川越といったら、菓子屋横丁。
子どもも大人も大好きな場所である。その賑わいを写さない手はない。

とにかくまず最初に、こんなところですよという全体像を見せよう。ツマンナイ写真かもしれないけれど重要な情報だ。

情報の価値を決めるのは、情報をだす人ではなくて受け取る人である。つまり、はじめてそれを見る人にとって有益かどうかである。
2度目以降に見る人には同じ内容であっても新たな発見がなくちゃいけない。

情報に貴賎はないし、重要かそうでないかを決めるのは情報の受け手だということを肝に銘じていただきたい。

最初に全体像を見せちゃったあとは、そこに行った人の興味のままでよろしい。
このとき、何を伝えたかったのかさえ明確であれば、後でそれをまとめるときに悩むことはない。

いくつかのテーマがある場合、それをムリやりひとつにまとめようとしなくてもいい。それぞれのテーマで自分の町を見つめればよろしい。

川越の場合、お菓子の町であり、そのお菓子も芋菓子もあれば、どこかよその町でつくられたお菓子もあるし、豆菓子もある。
それの全部が川越のお菓子なのだ。

横丁で働く人もぜひ撮影したい。
たんなる風景ではなくて、そこに働く人がいると、写真がとたんに生き生きとしてくる。

左の写真は、以前解説したように、被写体の視線の方向をあけて撮影している。
こうすることによって、画面に動きがでるばかりではなく、働く人の視線の先にはお客さんがいてそのお客さんとなにごとかお話しているのが読みとれる。
お客さんまで写してしまうと、働く人の顔が小さくなって写真の力が減ってしまう。

写真は引き算ですよというのは、じつはこういうことであったわけだ。余分な情報というのはないけれど、それを省略することによって、より伝えたいことが強調されることもあるということだ。

下の写真もそう。
漬物を袋に入れる手元だけをクローズアップした。逆光線にきらきら光って美しかった。
光がやってくる方向も、写真にとっては大切な要素だ。

どんなものを写したとしても、美しくなくてはいけない。表面的に美しいというのだけが美しいのではないのはいうまでもないこと。


コツ3 人が写さないものをどんどん写そう

連載の最後に、ものすごく大切なことをちょっとだけ。

他人になにごとかを伝えるというのは、人間の基本的な欲求である。欲求であると同時に、権利であり、義務でもある。

伝える手段は無数にある。
文章もそうだし、写真もそうだし、音楽も絵画も彫塑も踊りも演劇も、なにごとかを他人に伝える手段である。

手段(手法)は違うけれども、人と人を結びつける道具という意味ではまったく同じであろう。
肝心なのは、物事をうまく伝えるためには、ある程度の訓練が必要であるということと、なによりも、伝えたいと願う心がなくてはいけないのではなかろうか。

その願う心は、他人を喜ばせたい、おもしろがらせたい、楽しんでもらいたいという、いわばサービス精神のような気がする。

情報の受け方も、この人は何を伝えたいのだろうかと、積極的に受けるほうが、よりその情報の本質に近づけるように思う。
おもしろがる心とでもいおうか。

体重とは逆に、年とともにおもしろがる心がだんだんやせてきた己を考え直すいいチャンスを与えていただき、みなさんといっしょに考える機会を得られたことに心から感謝申し上げる。

担当してくれた農文協の伊藤伸介君に深く感謝する。

参考文献 藤原正彦 「祖国とは国語」「国家の品格」ほか

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