自給ルネッサンス

21世紀は自給と相互扶助の社会化の時代


目次
◆マネーゲームの経済学から自給の経済学へ
◆自給野菜と山の木の葉で地域を拓く
◆金儲けより先に「人に会える楽しさ」
◆自給の社会化から相互扶助の社会化へ
◆貨幣と市場の経済学から自給と相互扶助の経済学へ

◆マネーゲームの経済学から自給の経済学へ

 日本が「大不況」の深化に直面した98年、ノーベル経済学賞をインド出身の英ケンブリッジ大学アマルティア・セン教授が受賞した。彼の経済学の特徴のひとつ「ケイパビリティ」という概念については、すでに本誌95年3月号主張「21世紀は自給〈ケイパビリティ〉の時代」で、農家が地域の自然や産物と向き合い、それを生かそうとするときの「自給」の発想や方法に非常に近いものである、と述べていた。いわば「自給の経済学」の受賞である。

 その前年の同賞はそれとは対照的な「マネーゲームの経済学」であった。アメリカのヘッジファンドのひとつLTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)で、コンピュータを駆使し、巨額の資金を動かして利ザヤを稼ぐデリバティブ(金融派生商品)を開発した学者が受賞したのだが、そのLTCMは昨年経営が破綻し、今年になって件の学者は引退した。世界は「マネーゲームの経済学」から、「自給の経済学」の流れに変わり始めたのである。

 日本では、97年から98年にかけて有名な大企業がつぎつぎに倒産し、ほとんどの企業が減収減益となった。それらの企業の多くは、バブル期にマネーゲームに狂奔し、その時のツケが不良債権と信用収縮として回ってきたのである。一方、わが農村の「自給を社会化する場所」としての朝市・直売所は順調に売上げを伸ばし、前年対比二桁台の伸びを実現したところも少なくない。

 「大不況」の中で、なぜ「自給の社会化」だけが伸びているのか、また、「自給の社会化」の向こうに展望できる新しい地域経済、ひいては新しい日本経済とはどういうものかについて考えたい。

◆自給野菜と山の木の葉で地域を拓く

 17年間で売上げを10倍以上に伸ばした徳島県勝浦郡農協上勝支所の例を、役場産業課課長補佐の横石知二さん(41歳)が「現代農業」98年11月増刊『田園就職』で報告している。

 上勝町は人口2300人あまりの「四国で一番小さい町」。徳島市出身で市内の大学の施設園芸学科を卒業した横石さんが農協に就職したのは79年(その後役場に転属)。上勝支所に初めて採用された営農指導員だった。当時の上勝町の主要販売作物は米、ミカン、香酸カンキツ。典型的な米プラスアルファ農業だったが、81年、その主要作物であるミカンが、零下16度という異常大寒波によって壊滅的な打撃を受けた。前年までは約4000万円、全販売高の31%もあったミカンの販売高が、その年2000万円(18%)、翌年には1000万円(8%)と激減する(その後87年の1300万円を最後に消滅)。

 「売るものがなくなった」81年から87年にかけて、横石さんがミカンに替わる農家の現金収入の手段にしようとしたのが、山あいの畑で女性高齢者がつくる自給野菜だった。

 徳島市の自宅から上勝に通っていた横石さんは、勤務終了後に自家用の軽トラで自給野菜を集め、徳島市の市場に出荷し、翌早朝のセリに立ち会って出勤……という毎日を送るようになる。そんな若者の存在に気づいた市場の産地部長に声をかけられ、上勝の窮状を訴えて相談に乗ってもらい、上勝で今後何をつくるかの指導を、町、農協、普及所で組織する指導者会で受けるようになった。

 そこで打ち出された方向性のひとつが、中山間地・上勝の特徴である標高差を生かし、かつ、女性高齢者の労力に適合する軟弱軽量野菜を中心に多品目少量産地化することだった。

 その結果、大寒波以前の80年には米、ミカン、スダチ、ユコウなど7品目しかなかった上勝支所の販売品目は、寒波翌年の82年に野沢菜、ホウレンソウ、ワケギ、キウイフルーツなどを加えて倍の14品目になり、84年にはタラノメ、ゼンマイ、ワサビなどの山菜の出荷を始めて24品目に増えた。そして81年に1億1400万円に落ち込んでいた販売高は82年に1億3300万円と、80年以前の水準をクリア、84年には3億3500万円と、倍増以上の伸びを見せるようになったのである。

 そして86年には、「上勝」の名前を一躍全国区のものにした「彩パック」の出荷が始まる。

 「彩パック」とは、上勝の山に無尽蔵にある木の葉、笹の葉などを、懐石料理、精進料理などの季節感を演出する“つまもの”としてパック詰めしたもの。女性高齢者向きの究極の軽量品目であり、彼女たちが自分でデザインした笹の葉細工の箸洗いや、おせち料理用の松竹梅の飾りも多種類ある。

 山村に暮らす女性たちが、自らが感じる季節感を込めてデザインし、町の食卓に届ける彩パック。その彩部会のメンバーは、事業が軌道に乗り始めた88年には四四名で販売高2100万円。それが現在では200名を超え、販売高は2億円にものぼる。「四国で一番小さい町」の女性高齢者が、中山間地の「木の葉」という資源を生かして年間2億円の「産業」をつくり出したのである。同時に、中山間地の標高差と女性高齢者の労力を生かした多品目少量産地化は年間一億円のペースで伸び続け、寒害から一六年目の98年には15億1520万円の売上げを記録した。女性高齢者による彩パックと少量多品目化、そしてその二つが、米プラスアルファ農業で伸び悩みつつあった中山間の村に活気を呼び戻し、いまではI・Uターンの50家族130名が定住するまでになっている。

◆金儲けより先に「人に会える楽しさ」

 「現代農業」99年2月増刊『帰農時代』には、愛媛県喜多郡内子町の直売所「フレッシュパークからり」の例が掲載されている。人口1万2000人で、典型的な中山間地の同町では「脈々と続いている農村文化、勤勉で技術力の高い農家の生産物、そしてそれに情報を組み合わせ、町内に新たな経済の循環システムをつくろうという構想」のもと、95年から98年までに総事業費14億円で農産物直売所、農業情報センター、レストラン、加工場などを整備する計画がすすめられた。

 それに先行する94年から「内の子市場」として実験的に直売が始まったのだが、初年度売上げは4200万円、95年が7080万円。本格的な直売所「フレッシュパークからり」がオープンした96年には1億円を突破し、二階建て120席のレストランが併設された97年には来客数20万人、2億円の売上げを記録した。

 野田文子さん(53歳)は、245名いる出荷会員の第一号。「直売所で1000円や2000円売れたとしても、ガソリン代はいるし何にもならん。やめてしまえ」という夫を粘り強く説得し、ついには家の畑全部をまかされ、直売所向けの野菜や花などをつくるようになるのだが、自分をそこまで駆り立てたのは「直売所で人に会える楽しさ」だったという。

 野田さんの住む立山地区は街と標高差で450mほどもあり、街に行くには車で20分ほども降りていかなくてはならない。それまで「いつも同じ仕事で、何の変化もない毎日。山と家の間を往復するだけで、化粧することもなかったし、ただ夫に合わせて働くだけでした」。それが「からり」に出荷するようになって、「直売所のある街に出て人に会える毎日。その嬉しさは『たいした売上げにはならんのに』と夫に小言をいわれる苦しさを上回っていました」「次の日にどんな出会いがあるのかが楽しいのです。これがほんものの農業だと思いました」と、変わってきた。そして「夫に叱られながら約一年を迎えたとき通帳に記入されていた収入は、パートに出たのと同じくらいは稼ぎたいと思っていた目標をはるかに超えていました」という。

 野田さんはまた、直売所では「スーパーでは売っていないもの」つまりそれまでは市場価値がないとみなされて流通しなかったものほど、よく売れるという。その典型が山のアケビやフジのツルで編んだリースや、かずら籠、またツルそのものである。それも「人に会える楽しさ」の中で売れていく。野田さんの籠を3個も買った東京からのお客さんは「製作者に出会えた」と喜び、東京に帰ってからも、「東京では売っていないから」と、リースやカズラ籠、ツルや木の実、ジャンボシイタケをよく注文してくるようになった。また、デザインと寸法を紙に書いて「こんな籠をつくっていただけませんか」と注文してくる広島県のお客さんもいて、「編めました」と知らせると、わざわざ受け取りに来る。それはまた、お客さんのアドバイスで野田さんのデザイン能力が向上することでもあるのだ。

 「人に会える楽しさ」はさらに発展する。「自分も編んでみたい」というお客さんに呼びかけ、リース体験ツアーを募集した。20名も集まればと思っていたら、応募が多すぎて40名でうち切らなくてはならなくなったほど。

 「山に入って自分でツルを採り、そのツルで作品を作る。都会の教室では味わえないことなのでしょう。とても喜んで満足して帰られる姿は、『からり』だからできる、新しくて、楽しい取り組みでした。山もまた私たちの大きな財産だったのです」と野田さんはいうのである(山を荒らすツルを採りに行くことは、お客さんはもちろん、野田さんも意識しない「環境保全」になっている)。

◆自給の社会化から相互扶助の社会化へ

 「自給の社会化」の場である直売所は、そこに参加する女性や高齢者の潜在能力、埋もれていた地域の資源を顕在化するだけでなく、お客である都市生活者にも働きかけ働きかけられて、その知識や能力や労力さえも引き出す場なのである。それはものづくりをとおして暮らしをよくしていくということだけではない。人と人とが支えあって暮らしをよくしていく「相互扶助」をも引き出してゆく。

 たとえば愛知県豊川市の直売所「グリーンセンター」は、もともと役員のなり手がいなくなり、解散の危機にあったひまわり農協女性部が起死回生の策で始めたもの。五〇名の女性部員による、二坪のプレハブに始まったささやかな無人市が、10年間で出荷会員1000名、5カ所の店舗、年間20億円の売上げを誇るまでに発展した。管内を国道一号、東名高速の大動脈が走る同農協の主力は東西の大都市に向け大型トラックで施設野菜・果実・花卉などを出荷する「輸送園芸」なのだが、その販売高は一〇年前も現在も150億円。女性高齢者による自給農業は、10年間でゼロから20億円の「市場」を地域内に起こしたのである。

 そのひまわり農協女性部を母体に、95年に「ひまわりたすけあいの会」が誕生した。かつて解散の危機にあった女性部が、直売所の成功を機に結びつきを深めて高齢者福祉活動に取り組むようになり、ホームヘルパー3級(50時間の講習を受講)の有資格者が120名、2級(同130時間)が56名も誕生し、97年には派遣時間で878時間、98年度4〜10月で793時間の介護活動(有償ボランティア)を展開したのである(『帰農時代』)。そんなひまわり農協女性部のように、いま、全国の農村では四万名以上のヘルパーが誕生しており、利益追求の福祉ビジネスとは異なる高齢者福祉サービスを提供する母体として、おおいに注目を集めている(たとえば厚生省社会福祉専門官・蟻塚昌克「高齢化社会を耕す農協高齢者福祉活動への期待」「現代農業」98年5月増刊『21世紀型農協』)。

◆貨幣と市場の経済学から自給と相互扶助の経済学へ

 「人間と人間、人間と自然との間の調和した関係に配慮しながら、各人のもつ埋もれた能力と地域の資源を利用すること」「参加することで、そもそも自分が一体何ができるのか、他の人に何をしてあげることができるかを考え直すようになる。自分の才能の発掘になる」。これは、これまで述べてきた朝市・直売所の「自給の社会化」に関する文章のようだが、そうではない。エコマネーという、いま経済学者や行政関係者の間で注目されている「貨幣にかわる貨幣」、「地域通貨」の目的について述べた文章である(『地域開発』98年12月号・今泉みね子「ドイツ・フライブルグ市の『交換リング』」)。

 このエコマネーは、かつて農村で行なわれていた「お返し」(物々交換)や「手間返し」(労働やサービスの交換)を1対1ではなく、複数間で可能にするものであり、限られた地域やネットワークの中でしか使えず、さらに貯えることはできるが利息はつかない(信用創造をしない)。

 なぜこのような「貨幣にかわる貨幣」が必要なのか。98年度補正予算等を活用した“エコマネー普及事業”を構想している通産省の加藤敏春サービス産業課長・余暇開発室長兼務は次のように述べている。

 (バブル崩壊後の金融システム不安定化や九七年からのアジア通貨危機、ロシア、中南米のみならずアメリカの金融不安定化などは)「私たちが使っているマネーが過剰に信用創造され、デリバティブなどによって増幅されてコントロールの効かない状態にまで達していることにより引き起こされている。21世紀を迎えるにあたり、私たちはこのようなマネーの在り方をも根本から考え直す必要がある。“エコマネー”は現在のマネーとは異なり信用創造しないので、インフレやバブル、その後の信用収縮を起こすことはない。二度と金融の不安定化を経験しないためにも“エコマネー”の登場が必要である」(前掲誌「21世紀の“エコマネー”、その可能性と意義」)

 「私たちが現在使っているマネーは、ビジネスなどお金に換算できるほんの一部の情報(貨幣部門)を対象として、しかもその情報を画一的な価格に置き換えて媒介しているに過ぎない。(中略)“エコマネー”は人間の多様性をそのままのかたちで媒介する“温かい”お金であり、現在貨幣に置き換えられていない多様な情報や価値(非貨幣部門)をも媒介して、21世紀において多様な富を創造するものである」(同前)

 ではその「非貨幣部門」とは何か。それがじつは「自給」であり「相互扶助」の部門なのだ。20世紀前半の経済学は、マルクス経済学にせよ、近代経済学にせよ、「貨幣部門」、つまり市場経済のみを対象領域とし、貨幣化されない自給や相互扶助は対象外であった。そして貨幣に置き換えられる富の増大をもって「成長」「進歩」を説いてきた。しかし、20世紀後半の経済学の中には、冒頭のアマルティア・センのように、人間本来の自立・自存を本質的に豊かにするには「自給」「相互扶助」の領域を対象とすることが不可欠だとする潮流が生まれてきていたのである。

 「ポランニーは市場社会がいかに異常な性格をもっているかを分析したうえで、それに先行する非西欧的な非市場社会をつぶさに考察し、経済学に代わる経済人類学を確立しようと試みた。ポランニーが市場制度の経済唯一主義を徹底して巨視的に批判しつづけたのにたいし、イリイチは、逆に、家庭や学校や女性の活動に微視的に注目し、経済学がまったく無視してきた人々の『シャドーワーク』に光をあてたうえでヴァナキュラーな動向こそが社会・経済・文化の本質を表現していると分析してみせた」(金子・松岡・下河辺著『ボランタリー経済の誕生』実業之日本社)

 この「ヴァナキュラー」という言葉は日本語に訳されていない。だが、それが「自給」や「相互扶助」に関するものであることは、次のイリイチ自身の言葉から明らかである。

 「ヴァナキュラーというのは、“根づいていること”と“居住”を意味するインド―ゲルマン語系のことばに由来する。ラテン語としてのvernaculumは、家で育て、家で紡いだ、自家産、自家製のもののすべてにかんして使用されたのであり、交換形式によって入手したものと対立する」「すなわちそれは、生活のあらゆる局面に埋め込まれている互酬性の型に由来する人間の暮らしであって、交換や上からの配分に由来する人間の暮らしとは区別されるものである」(I・イリイチ著、玉野井芳郎・栗原彬訳『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』岩波書店)

 このような考えのもとに、自給や相互扶助の社会化によって本質的に暮らしを豊かにしていくための「エコマネー」が、イギリスではすでに500カ所以上の地域で実施されている(日本では先述の通産省の事業に対して富山県山田村、札幌市、東京都三鷹市、神戸市、高知県、沖縄県などから積極的な反応が寄せられているという)。

 そのエコマネーが普及するかどうかはともかく、日本にはすでに全国1万2000カ所以上の朝市・直売所という同じ機能をもつコミュニティが存在する。それはまた大不況下の日本で、唯一「成長」(これまでの「経済成長」とは異なる質の)を遂げている部門である。その自給と相互扶助の社会化の論理をすべての暮らしの部門におしすすめていくとき、自然と人間、人間と人間が調和するための21世紀の新しい経済の展望が開かれるにちがいない。

 時代はいま、「自給ルネッサンス」なのである。
(農文協論説委員会)