主張

コロナ禍を越え、兼業農家・多業農家新時代へ

 目次
◆「兼業農家雑草論」論争
◆農家は「多業」、農業は「家業」
◆半農半医を選んだ理由
◆非農家から兼業農家へ、「マルチノーカー」へ
◆中山間の田んぼを守る「グループ帰農」
◆特定地域づくり事業協同組合に注目

 昨年11月下旬に「2020年農林業センサス結果の概要」が公表された。全国の農業経営体数は107万6000で、5年前の調査に比べ30万2000も減っている。まだ数字は不明だが、この減少分の多くを兼業農家が占めるものと思われる。とくに、農外収入のほうが多い第2種兼業農家が顕著に減り続けているのは2000年代になってからの一貫した傾向だ。

 しかし一方で、1月号の「主張」でもふれたように若者の田園回帰志向がコロナ禍によりいっそう強まっている。本誌2月号と同時発売の兄弟誌『季刊地域』2021年冬号(44号)では、近年の田園回帰の高まりを「兼業農家・多業農家が増殖中!」ととらえた特集を組んだ。この内容にふれながら、新しい「農型社会」へ向けての希望を1月号とは別の面からとらえてみたい。国全体として農家の数は減っていても、新しいタイプの兼業農家・多業農家が「増殖」しているのだ。

「兼業農家雑草論」論争

 今でこそ減り続けている兼業農家だが、かつては「雑草」にたとえられるほど増え、邪魔者扱いされたこともあった。水田稲作をベースにした日本の農業政策は、1961年の旧農業基本法の制定以来、規模拡大による生産性向上を掲げてきた。だが、稲作農家の経営面積は一向に拡大しない。その原因は兼業農家が農地を手放さないからだとして、兼業農家は強くはびこって農地の利用権を手放さない「雑草」で、その「退治」が必要と主張する学者が現われた。81年の農業経済学会・大会シンポジウムでのことだ。

「兼業農家雑草論」と呼ばれたこの議論を提起したのは京都大学の中嶋千尋教授(当時)。中嶋教授は、「小規模生産の不経済性」や、兼業農家が裏作をしないことで農地の有効利用が阻害されているなどの理由をあげ、平坦部の土地利用型農業は大規模借地農と土地持ち自家菜園・非農家へ両極分解したほうがいいと主張した。

 それに真っ向から反論したのが同じ京都大学の坂本慶一教授(当時)だ。坂本教授は翌年のシンポジウムで「兼業農家の役割と日本農業の方向」と題して、経営規模が大きいほどコストが下がるという観点のみで農業を評価し、兼業農家を農地活用の阻害要因と見る中嶋教授の姿勢を批判した。そして、兼業農家にとっての農業は「低成長時代における所得源」「資産としての土地保全」「家族労働力の稼働化」「不況時や退職後の拠点、生きがいの拠り所」などの意味があり、兼業農家は人間の同時多職への潜在的欲求を表現しているという興味深い指摘までしている。また農村の地域社会では、兼業農家が多数存在することが土地基盤や水利施設などの整備運営において社会的費用の節減に寄与していること、それに企業にとっては労働力需要を満たし、景気変動に対する「衝撃吸収装置」の役割を果たしていることも示した。農家の兼業化は「社会経済的諸条件の変化の中で、家族的小農経営という制約を持つ日本の農家が主体的に選択した結果」だというのである。

 80年代前半といえば、第2種兼業農家の割合がどんどん増加していた時代だ。坂本教授は農地の流動化は「10年先で2兼農家の農地のせいぜい2割程度」と兼業農家の強靭さも指摘していた。その見立てはある程度当たっていたともいえるだろう。だが、2000年代になると2兼農家の減少に拍車がかかる。それは、95年の食糧管理制度の廃止などにともなって米価が長期低落傾向へ向かったため、小規模の稲作を続けるメリットより負担のほうが増したことが大きいのだろう。また、戦後の農村を引っ張ってきた昭和1ケタ世代のリタイアと裏腹の関係のようにも見える。

▲目次へ戻る

農家は「多業」、農業は「家業」

 歴史をさらにさかのぼれば、江戸時代の昔から農家は兼業がふつうだった。農閑期を中心にさまざまな稼ぎ仕事を生業としていた。農家の専業・兼業を区別するようになったのは明治時代からといわれるが、そもそも専業農家といっても田畑の耕作だけをしているわけではない。むらの普請で土木工事もやれば、最近は農産加工や直売にも取り組む。おカネになるかならないかを別にすれば、農家はすべて多業という言い方もできるだろう。「百姓=百の仕事をこなせる人」という言い方がされるのも、そんな実態があったからに違いない。

 さて、時代は下り田園回帰時代。新しい兼業・多業農家へのムーブメントは農の外側から起きている。『季刊地域』44号で「農業は家業だ!兼業農家のすすめ」と題した文章を寄せてくれているのは、本誌でも1月号から「ネギ農家、初めてイネをつくる」を連載している静岡県磐田市の小城こじょう寿子ひさこさん(45歳)だ。15年前、小城さんは会社員の夫の仕事の都合で磐田市にやって来た。

「まず驚いたことは『大きい家が多いな』ということ。人はおおらかでのんびりしているうえ、町全体が豊かな印象なのです。そして、周りの多くのお宅が、田畑を所有して農業も営んでいることに気づきました」

 夫も自分も両親は公務員+専業主婦、集合住宅や新興住宅街という環境で農業とは無縁で育った。数代にわたり同じ地域に住んで農業をする人たちにふれるのは初めての経験だ。観察の結果、小城さんは町全体が豊かでおおらかな理由は兼業農家だからという結論に至り、自分も兼業ネギ農家になる決心をする。リーマンショックで夫の勤務先が残業なしの週休3日になっていたときのことだ。その後、農業の規模はだんだん大きくなり、昨年はコロナ禍をきっかけに米づくりも始めた。そんな暮らしの大変化をふり返って、兼業農家には「メリットこそたくさんあるものの、デメリットはほぼ思い浮かばない」「農業は職業ではなく家業である」という考えに行き着いたというのだ。

 家業としての農業では一人息子も立派な労力。教育にも大いにいい影響をもたらした。「親の働いている姿を子供に直接見せたり、一緒に作業したりできるのも家業があることのメリット」と小城さん。そして「家族内で助け合えば、家業を軸にそれぞれが好きな活動や仕事をすることも可能」「家業をもつことが生活の自由度をより高め、人生の選択肢が広がるかもしれませんね」と書いている。

▲目次へ戻る

半農半医を選んだ理由

 和歌山県紀の川市の「パート医師」豊田孝行さん(44歳)の場合は、実家は農家であったものの、思わぬ事態がきっかけで帰農した。現在、医師になって20年の豊田さんは、29歳のとき大学病院を辞め開業医になる。ところが、毎日100人を超える患者の診察とクリニック経営に追われ、うつ病になってしまう。せっかく開業したクリニックは先輩医師に譲り、実家のモモ畑に通うことにした。毎日、日の出から日没まで農作業。インスタント食品やファストフード中心だった食事を改め、規則正しい生活を続けると、1カ月ほどで体調は見る見る回復したという。

 豊田さんは、このままモモ農家になることも考えたが、自分の経験を活かすため「半農半医」の生き方を選ぶ。開業医となった頃は「西洋医学を駆使して一生懸命診察していれば、患者さんはどんどん減り、健康で幸せに生きる人が増えていく」と思っていた。だが、医学で病気は治せても、病気になる人を減らすことはできない。「予防を中心としたセルフケアに目を向けてもらえるように活動していこう」と考え、現在は和歌山と大阪の病院・診療所にパート医師として勤めながら、栄養外来や心身のセルフケアを目的とした講演活動を続ける。

 一方、人も作物も薬に頼りすぎないほうがいいと思い至った豊田さんは、農業では「自然の郷きのくに」という自然栽培農家グループを立ち上げた。自身のモモ栽培では防除は石灰硫黄合剤散布1回のみの栽培を成し遂げ、一部の圃場では化学農薬をまったく使わずにすむようになった。豊田さんが医師のかたわら続ける農業には「身体をつくるのは食事」「そして、その食事のもとを育てる農家は、本当に尊い職業」という自負がある。農業は生きがいなのだ。

▲目次へ戻る

非農家から兼業農家へ、「マルチノーカー」へ

 非農家から農家への道も以前に比べれば格段にハードルが低くなった。その理由の一つに「農地取得下限面積」の引き下げがある。

 農地法では、農地の売買・貸借には都府県で50a、北海道で2haという下限面積が定められている。これが事実上の制約になり、かつては50a以上の農地を借りるか購入するかしないと農家になることはできなかった。だが09年の農地法改正以来、各市町村の農業委員会の判断で下限面積を10aとか20aに引き下げることができるようになった。さらに近年は、空き家と地続きの農地について、下限面積を1a以下に引き下げるところが相次いでいる。そうした市町村が20年8月時点で1道1府38県に324市町村もあり、なかには1m2まで引き下げたところも少なくない。

 兵庫県宍粟しそう市の中島秀志さん(53歳)は、空き家付き農地の下限面積を1aに設定していた同市の空き家バンクで2aの農地とともに古民家を取得し、古民家カフェ「遊楽里」を開業した兼業農家だ。その後、さらに80aの農地を借りて米や野菜をつくり、カフェの食材にするほかネット産直サイトでも販売する。

 同じく非農家から多業農家となったのは佐久間麻都香まどかさん(35歳)。山形大学農学部を卒業後、青年海外協力隊として西アフリカのブルキナファソに行き、「農」に関わりながら生きたいと思うようになった。結婚し、現在は山形県鶴岡市で暮らす彼女は、年をとって栽培を続けられなくなった高齢者の畑を引き継いで庄内柿を栽培。また、露地の畑とハウス計2aほどで葉物もつくる。さらに、柿の葉茶の加工、庄内産米ヌカをベースにドライフルーツなどを加えたエナジーバー(栄養満点の固形食)の製造販売、鶴岡市の観光案内所にも勤め、同市の地域おこし協力隊支援の仕事もするというマルチワーカーだ。農家が基本の多業だから、「マルチノーカー」と呼ぼうか。

 佐久間さんいわく「いろいろなことをやっていると、いろいろな世代・職種の人に出会えるので、思わぬところで仕事のアイデアやアドバイスをもらえたりします。日々楽しく仕事ができることが、33本のカキの樹を管理するモチベーションの維持につながっていると思います」。かつて兼業農家の意義を説いた坂本慶一教授の「同時多職への潜在的欲求」を地でいくような生き方ではないか。

▲目次へ戻る

中山間の田んぼを守る「グループ帰農」

 日頃『季刊地域』や『現代農業』の編集にかかわるわれわれは「農家を減らさない」ことを編集方針の一つと心得ている。その農家とは「家族的小農経営」であり、それは専業農家だけではなく、むしろ多くは兼業農家である。冒頭でふれた農林業センサスの数字に立ち返れば、2兼農家が減ることは、とくに中山間地においては農村から人が減ることとイコールである。人が減れば、耕作に人手がかかる中山間の農地は当然荒れてしまう。

 愛知県豊田市の山間部、旧足助あすけ村の萩野地区でおもしろい動きが起きている。一言でいうなら「グループ帰農」。非農家の30〜60代の男女4グループ・計36人が、地元の農家リーダーに呼び寄せられ、高齢農家が耕作できなくなった田んぼで自給の米づくりを始めているのだ。10年前、環境問題に関心のある子育て講座の女性たちが始めた「ママンの田んぼ」に始まり、3年前からは地元・萩野の非農家や移住者が「萩の田」で、高齢農家に代わって米づくりを担っている。

 仕掛け人の農家リーダーは20年ほど前にIターン就農した山本薫久しげひささん(66歳)。先ほどの佐久間さん同様のマルチノーカー、その先駆けのような人だ。山本さんは『季刊地域』44号の記事のなかでこう言っている。

「中山間の小さくて枚数の多い田んぼは家族農業で維持されてきた。3世代同居の大家族が暮らすための自給農業。それが中山間の田んぼには合っていた。ところが今や田舎でも核家族化している。それも80歳を超える高齢者の二人暮らしや一人暮らしだ。これじゃ、米づくりは続けられない」

 かつての大家族の代わりがグループ帰農の米づくり。田んぼの面積にすれば75aほどだが、こんな中山間地の田んぼの守り方もあるのではないかと問いかけている。グループ帰農の米づくりはいってみれば趣味の米づくりだ。だが、萩の田の中心メンバーの中には中古のコンバインを自前で購入する人も出てきた。山本さんの後継者として兼業農家になりそうな人が育ちつつある。

▲目次へ戻る

特定地域づくり事業協同組合に注目

『季刊地域』44号には、地域の兼業農家を減らさないためのしくみについての記事もある。その一つが集落営農だ。東北地方は西日本に比べると集落営農法人が少ないが、宮城県丸森町で設立して6年になる農事組合法人・羽山はやまの里佐野の代表、矢吹純一さんはこう書いている。

「大規模化、効率化を優先していくことは中山間の私たちの地域にはそぐわないと感じています。平場では、1枚数ha規模の水田が整備され、個人経営でも当法人と同程度の規模の耕作は難しくなくなってきました。しかし、私たちのところは条件がまったく異なり、どうしても機械化できずに人手に頼らなければいけないところがあります。

 ただ、その人手も年間を通じて必要なわけではなく、5〜9月の水田の管理時期に限られます。そういったことを考えると、その期間の休日などに作業してもらえる兼業の方がいることが、地域の農地とその周辺環境を守るうえでは欠かせないといえます。いま当集落はそんな方々に支えられ、自分たちが誇れる集落環境を守ることができています」

 遅まきながら政府も、20年3月公表の新たな「食料・農業・農村基本計画」で、活力ある農業・農村には、従来の経営規模の大きな担い手だけでなく、中小・家族経営などの多様な人材・主体の活躍が必要であることを位置づけた。

 また6月には、人口急減地域の複数の事業者が組合をつくって都会からの移住者を雇用し、それぞれの事業者の繁忙期に派遣するしくみとして「特定地域づくり事業協同組合」の設立を可能にする法律が施行された。いわば農業を含む多業で暮らしをつくろうという若者を応援する制度。平日は組合の派遣職員として働きながら、休日に農業をする。あるいは、派遣先に農家や農業法人もあればそこで農業の技術習得もできる。詳しくは『季刊地域』44号をぜひ見ていただきたい。

 各地で増え始めた農外から兼業農家・多業農家になろうという人たち。コロナ禍を乗り越え新しい農型社会をつくるうえで、心強い味方であることは間違いない。

(農文協論説委員会)

▲目次へ戻る