主張

日本のむらの「協同」を見つめた人類学者

 目次
◆ようやく全容を現した「日本村落研究の最高峰」
◆行政村と部落(集落)を区別、「部落生活にボスはいない」
◆中心テーマは「協同」
◆村人の暮らしを見つめて

ようやく全容を現した「日本村落研究の最高峰」

 この5月、農文協では『新・全訳 須恵村−−日本の村』を刊行する。著者はジョン・F・エンブリー(1908〜1950)。アメリカ・コネティカット州生まれで、カナダのトロント大学で人類学の修士号を取得、シカゴ大学に進んだ。当時、シカゴ大学では、従来の無文字社会の調査から発展途上の半文明社会へと調査領域が広げられており、その一環として調査地を東アジアに拡張。なかでも一足早く文明化した日本が選ばれ、1935(昭和10)年8月、大学院生だったエンブリーは妻エラ、幼い一人娘のクレアとともに来日を果たす。夫妻は、西日本を中心に2カ月、21カ所に及ぶ調査地探しの末、11月2日に熊本県須恵村(現あさぎり町)覚井部落に居を構え、まる1年かけて調査した。日本が日中戦争、太平洋戦争の泥沼に踏み込む前夜のことである。

 エンブリー27歳、エラ26歳。村が欧米人を迎えたのは初めてのことだ。若い2人は、慣れない日本農村の暮らしに耐え、村民に助けられながら調査に奔走。その成果として、エンブリーは英文タイプ1276ページのフィールドノートと1608枚の写真など、貴重な記録を残した。36年に夫妻はアメリカに帰国、その翌年にエンブリーは人類学的日本研究ではアメリカで第一号となる博士号を取得。博士論文をもとに、『Suye Mura: A Japanese Village』(1939)をシカゴ大学出版から刊行し、熊本県でもっとも小さな村だった「須恵」の名が日本農村の「典型」として知られることになり、戦後のベスト&ロングセラー、ルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』(1946、邦訳は1948)の重要な参考書ともなった。

「海外における日本村落研究の最高峰」(桑山敬己関西学院大学教授 文化人類学)とされる『須恵村』だが、原著刊行後82年が経過するのに「いまだにその全容を日本人読者の前に現していない」(同)とされてきた。邦訳は1955(昭和30)年と1978(昭和53)年に別々の出版社から出版されているのだが、同じ訳者によるほぼ同じ内容で、原著354ページのうち5分の1、約70ページほどが割愛されているからだ。

 また「旧・抄訳」では、「誤記」「誤訳」が多い。人名、地名などの固有名詞の誤字、明らかな誤解あるいはうっかりミスに加え、訳者の思い込みによる「誤読」の例もある。たとえば「……古くからの停滞性に関しての一つの理由は、きっと球磨地方が山また山に囲まれた生気のない谷間であり……」という一節がある。「停滞性」は「stability」、「生気のない」は「dead-end」の訳だが、それぞれ「安定性」、「行き止まりの」と訳すほうが一般的である。「行き止まり」はたんに地理的表現にすぎず、「停滞」と「安定」では、この一節の印象と価値観が逆転する。

「新・全訳」に挑んだ田中一彦氏は、このような「旧・抄訳」の「誤読」の背景に、日本の戦争を支えた基盤として、戦前の農村共同体を否定的にとらえる近代主義的な戦後民主主義の思潮があったのではないかと推察する。

 田中氏は1947年、福岡県瀬高町(現みやま市)生まれ。西日本新聞でパリ支局や東京支社編集長、編集局次長などを歴任。国民総幸福(GNH)政策を進めるブータンに関心を抱き、3度訪問。同じころ『須恵村』に接し、80年前の須恵村がヒマラヤの小国ブータンにそっくりに見えたという。そして退職後の2011年から3年弱、あさぎり町に単身住み込む。自転車に乗って50を超す祭礼や婚礼、葬儀などを回り、エンブリー夫妻を知るお年寄りらに話を聴いた。その取材、調査や、アメリカの関係者、研究者との交流を経て、田中氏は2017年、『須恵村』とエラがロバート・J・スミスとの共著で1982年に出版した『須恵村の女たち』(シカゴ大学出版)を読み解いた『忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』(忘羊社)を出版、第31回地方出版文化功労賞を受賞。2018年、続編『日本を愛した人類学者 エンブリー夫妻の日米戦争』(忘羊社)では、日米開戦後の夫妻の動向や、米国の対日政策と人類学者らの関係に焦点を当てた。

エンブリー夫妻と須恵村の村人(1936年)

エンブリー夫妻と須恵村の村人(1936年)(写真:福岡日日新聞社)

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行政村と部落(集落)を区別、「部落生活にボスはいない」

 四六判で428ページにわたる『新・全訳 須恵村』の章立ては次のようになっている。

第一章 歴史的背景/第二章 村の組織/第三章 家族と世帯/第四章 協同の慣行/第五章 社会階級と社会集団/第六章 個人の生活史/第七章 宗教/第八章 須恵村の社会組織における注目すべき変化

 そのうち「第七章 宗教」が81ページでもっとも多いが、ついで多いのは「第二章 村の組織」74ページ、「第四章 協同の慣行」50ページである。調査時、戸数285、人口1663人だった須恵村は、エンブリーによると下記のように区分されている。

 一つの「村」=町や市に当たる県政の行政単位。その統一性は共通の村長、役場、学校、神社に基づく。
 八つの「区」=村の政治的区分であり、区長は役場から任命され、主な任務は税金の徴収。区は一つから四つの部落を含む。公式には区の番号で分かるが、普通は区の中の部落名の一つで呼ばれる。
 十七の「部落」=それぞれ約二十世帯から成る自然コミュニティ。歴史的には社会的、経済的単位が部落。村民は「村」と呼ぶことに注意。部落には独自の長(ぬしどうり)がおり、協同的な基盤に立って葬式、祭り、道路、橋など部落固有の行事の世話をする。
 多数の「組」=三軒から五軒の家の集まり。

 ここで重要なことは、ほぼ同時期に出発した日本の民俗学や農村社会学の村落研究にくらべても、エンブリーは行政村(mura)と部落(buraku)=集落を明確に区別していたことである。『須恵村』はタイトルこそ行政村であるものの、その調査対象はあくまで部落=集落なのだ。

 そしてエンブリーは、「部落生活にボスはいない」ということを再三強調している。そのいくつかを引用してみよう(文中の《 》は田中氏による訳注。3年間の取材、調査を経て、『須恵村』に記されている祭りや部落の役員が現在どうなっているかなどの訳注が多いことも「新・全訳」の特徴である)。

−−部落には「主どうり」と呼ばれる長(時には二人か三人)がいる《今もほとんどの部落に存在し「主どり(さん)」と呼ばれる》。部落の責任ある戸主の話し合いで選出され、任期は二年とされている。国政に関する選挙では、二十五歳以上の全ての男子は選挙権があるが、地方の問題については各家に一票あるだけで、世帯が部落の政治の単位ということである。部落の生活にボスがいないことは重要であり、主どうりは部落の行事の指導者というよりはむしろ世話人である。
−−部落生活の二つの顕著な特徴は、協同と交換である。協同は、村民のグループが自発的に一緒に作業することである。協同は「ボス」がいないことを暗に意味し、つまり一緒に働くことを人々に強制する人はいない。この協同で行う作業には、幾つかの動機、つまり利他的な共通の利益のほかに、やむにやまれぬ理由や経済的必要性など厳しい現実があるに違いない。

 また、球磨川の氾濫により毎年のように流される橋の架け替えについての記述。

−−稲刈り前の九月に、主どうりは部落の人たちと橋を再建する日取りを相談する。男たちが森に出掛けて、材木や竹、強いつたを集め、川岸に持って行く。
 当日は午前七時ごろ、部落の各戸から一人ずつ出てくる。もしその橋を二つの部落が使っていれば、部落それぞれが橋の別々の区間で作業する。前日に木を伐りに行かなかった者は、橋に使う縄の藁やござを持参する。一人一人が何か仕事に就くようになっており、ここにはボスはいないが、全ては滞りなく進む。丸太を適当な形に切ってそろえる者がいれば、十字割じゅうじわり棒《竹を四つに割るための十字型の木製の道具》を使って竹を割り蛇籠じゃかご《中に石を詰めて川の護岸に使う竹製の籠》を作る者もいる。女性や年配の男たちは藁の縄を綯う。娘や青年たちは、この藁縄を使って十字形の小枝を組み立てるが、橋を造るのに釘は用いられない《「びゃあら橋」と呼ぶ。「びゃあら」は小枝の意味》。このコミュニティの労働の機会に部落の人が共に集まることは、おしゃべりや冗談を言い合う良い機会でもある。

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中心テーマは「協同」

 田中氏はあさぎり町に移住して間もない2011年10月、旧須恵村役場跡で合併前の須恵村民憲章が刻まれた石碑に出会う。そこには「ハジアイとかちゃあで心豊かな村をつくりましょう」と書かれていた。それを見た瞬間、『須恵村』のテーマは「協同」なのだと確信したという。

「『はじあい』とは、この本『須恵村』に頻出する『協同(co-operation)』つまり村民の助け合いを意味する須恵だけの方言である。『はじぁあのよか』などと、日常会話で耳にする。活字の『協同』ではない、目に見える生きた協同がそこにあった。『かちゃあ』は『須恵村』に出てくる交換労働『かったり』の球磨弁である」(『季刊地域』45号「今も色あせない『須恵村』の先駆性」)

 エンブリーは『須恵村』で「かったり」について次のように述べている。

−−日本の村落コミュニティにおける経済的協同の最も顕著な慣行は、田植えのための労働力の交換であり、そしてほとんどの地域においては、集団労働を伴う他のいろいろな仕事である。それは、「結」「い」あるいは「かったり」など、様々に呼ばれている。須恵村では、「かったり」(普通は「かちゃい」と発音される)と呼ばれ、田植えで最も重要な役割を果たしている。

 田中氏は「協同は『強制力がなく自発的な関係』であり、『自治的』で『民主的』なのだ。これは、内部の封建遺制に加え外からの国家統制、集権的統制がムラに浸透する一方、なお自治や民主的な仕組みが暮らしに残っているとエンブリーが感じたことを表している」とする。またエンブリーは、「協同の慣行」として「贈答(贈与交換)」にも着目し、「小さな農民コミュニティでは、社会関係を維持する非常に重要な方法の一つが、贈り物のやり取りである。贈り物には同等の価値の物を返す義務があり、多くは返礼の訪問を伴う」として、労働(かったりによる労働の交換)、貨幣(講による資金援助と返済の利子の交換)、重箱に入れて持参された米、米と焼酎など11項目の具体例を挙げる。

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村人の暮らしを見つめて

 エンブリー夫妻の須恵村滞在は、対象社会に滞在して調査する「参与観察」と呼ばれる人類学の方法だが、戦争前夜の、しかも1年という短日月の滞在で初めて迎える欧米人と村人がかくも深く打ち解けられるものかと感じさせられる人間味あふれる記述があちこちにある。たとえば「コミュニティの仕事は、締めくくりの宴会なしでは終わらない」として記された「寄り合いと宴会」についての6ページにわたる記述だ。

−−須恵村の農家には、こなすべき重労働が山のようにある。この重労働は、農民とその妻の手をごつごつ節くれだったものにし、顔を赤銅色にしてしまい、しかも驚くほど従順な忍耐心を抱かせる。だが土を相手にする仕事は、機械相手の仕事とは違う。男はいつも座ってたばこをふかし、ひとしきりおしゃべりができるし、妻は赤ん坊に乳を飲ませるのに、ひと休みすることができる。土を相手にした仕事はまた、人に豊穣と性を意識させる。世界中の農民が開けっ広げで素朴なユーモアで知られているが、日本の農民も例外ではない。一年が巡り、農作業に追われ、そして終わりに近づくと、部落の人々や親戚が集まり、腹いっぱい飲み食いする愉快な時間を持つ機会が多くなる。

 そして近所の主婦による宴会の応援や接待、風呂敷に包まれた米や焼酎などの来客の贈り物、誰が上座に座るかの押し問答、「何もございませんが」という妻の挨拶、盃のやり取り、宴席を一層楽しくする「球磨拳」などの遊び、「足の長い私の歩き方の真似だったりする」踊り、男女入り乱れての「性的な性格を帯びた」踊り、暇乞いする客の挨拶、宴会翌日の手伝いの主婦や娘たちへのお礼の様子まで細やかに記し、「今日でも宴会は多いが、村人は皆、もっと頻繁に大きな宴会があった時代のことを口にする」と結ぶ。

 エンブリーは日本を発つ日の前夜、横浜港に停泊する北米航路「秩父丸」の船室で、フィールドノートの末尾にこう記す。

−−須恵の暮らしは厳しい。朝は早く、激しい肉体労働が伴う。しかし、焼酎があり、たくさんの焼酎を飲める祭りでいっぱいの陰暦の暦がある。暗い夜々があり、魅力的な娘たちがいる。月光が、美しい山々があり、年を取っても話ができる古い友達がいる。私は、球磨郡の魅力を理想的なものと考えてもいいと思った。

 帰国後のエンブリーは戦争中は対日政策の要職を歴任、日本人は集団主義で好戦的とする支配的な論調を批判し、日系人強制収容所の待遇改善を訴え、戦後はマッカーシズム、FBIの監視を受けながらもGHQの力による上からの民主化が必ずしも日本の民主主義を育てることにならないと、強引な占領政策を批判した。一方、『須恵村』に記された、当事者同士が直接対するのではなく、間接的になることで「紛争の回避」に役立つとする「仲介の原理」は、地主対小作の直接対決でなく、中立的な農地委員会が間に入ることで円滑に進められた戦後の農地改革にも大きな影響を及ぼしたという。

 エンブリーは1950(昭和25)年12月22日、クリスマスの買い物中、コネティカット州ハムデンで飲酒運転の車にはねられ16歳のクレアとともに死去。享年42歳。

 夫妻は今も須恵村で「エンブリさん」「エラさん」と親しみを込めて呼ばれ、夫妻の滞在時に建て替えられた船場稲荷神社の寄附者芳名録には「金拾圓 ジョン・エンブリー殿」の文字が残り、熊本県教育委員会が2016年に制作した道徳教育用郷土資料映像「熊本の心」−「エンブリさん」はユーチューブで見ることができる。

(農文協論説委員会)

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