主張

「あなたの給食の思い出は?」──過去から未来へつなぐ「地域に根ざした」給食を

 目次
◆学校給食から「食」の意味を問う講演会
◆米飯給食から始まった!?……かもしれなかった戦後の学校給食
◆「奇跡のような給食」が京都にあった
◆「学校は地域に何ができるか」をみんなで考えた
◆忘れたら箸作る
◆学校給食の可能性から未来を考える

学校給食から「食」の意味を問う講演会

「あなたの給食の思い出は?」と聞かれて、戦後の給食メニューの代名詞「脱脂粉乳・コッペパン・鯨の竜田揚げ」の3点セットしかり、揚げパン、ソフト麺……、ひとつも答えを持たない人はいないだろう。また米飯給食のある・なしを聞くだけでも、その人の育った年代や地域が特定できそうなほど、学校給食は時代と社会を映し出す鏡のような存在として歴史を刻んできた。

 その学校給食がどのような場であったのか、そしてどのような未来の可能性があるのかを、考えさせられる機会があった。

 新年が明けてまだ日も浅い2024年1月19日、農林記者会創立75周年記念講演会のテーマは「給食から考える食と農の自治」。講師は京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史さんで、講演は、藤原さんの「『食べること』を社会の問題として考えるには?」との問いかけから始まった。

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米飯給食から始まった!?……かもしれなかった戦後の学校給食

 歴史研究者である藤原さんは、「飢え」が放置される社会は人びとの信頼を勝ち得ることはできず、政権維持が危機にさらされ、時に革命などが起きることは数々の歴史が証明していると説く。

 実際、戦後日本でも、1946年5月1日のメーデーに全国300万人の労働者が参集して以後、民衆の怒りがたびたび爆発。これには連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)も「食糧メーデーは『暴動』である」との声明を出し、火消しに躍起になる。そんな時だからこそGHQは、日本政府に学校給食の早期実施を働きかけた。それは、「子どもたちが飢えている」という親の不安を取り除き、占領軍の統治を安定させるための「治安維持装置としての給食」だったと藤原さんはいう。

 さらに講演会では、藤原さんの著書『給食の歴史』(岩波新書)をベースに歴史的経緯が紹介されたが、ひとつ意外だったのは「当初、GHQは米飯給食を推していた」という事実だ。GHQ側の旗振り役であった、公衆衛生福祉局(PHW)局長のクロウフォード・サムスは、なんとか学校で1食を供給してやりたい、それには「日本の習慣に従って米のご飯と味噌汁を与えたいが」と、日本政府との会議の場で語ったという。それに応えて日本政府側は、旧日本軍の備蓄にあたるなど食材調達に奔走、やがて日本向けの援助物資「ララ物資」から脱脂粉乳などの割り当てが決まる。こうして始まった戦後の学校給食は、外国からの援助が終わっても「パンと牛乳」が当たり前のものとなっていった。

 この講演会とは別の機会になるが、ララ物資の給食を実際に食べたという女性(80代)に当時のことを聞くと「脱脂粉乳は、今までにない味だったのでおいしかったですよ。時折チョコレートをもらえるのがうれしくて、弟のために家に持って帰りました」と話してくれた。

 戦後アメリカで大量に余った小麦の引き受け先として、日本はパン給食に「させられた」と思い込んでいたけれど……少なくとも始まりは「パン給食ありき」ではなかったこと、脱脂粉乳は「まずい!」という感想ばかりではないことなど、史実と一人ひとりの生の声を突き合わせることで、これまでとはまた一味違った学校給食像が見えてくる。

 さらに講演会では既存の給食像を超えた実践例として、熊本女子師範学校附属小学校の例も紹介された。そこでは豚を飼い、その排泄物も利用して、児童が学校農園で給食素材を育てる(循環型の給食)といった、現在でも食育として十分に通用する内容が、1930年代にすでに行なわれていたのだ。

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「奇跡のような給食」が京都にあった

 講演をここまで聴きながら頭に思い浮かんだのは、和井田結佳子さんの新著『給食を通じた教育で子どもたちが学んだこと──旧久美浜町・川上小学校の〝給食教育〟が残したもの』(2024年3月発行、農文協)である。

 本の舞台は、京都府の旧久美浜町(現京丹後市)にあった川上小学校。パン給食が全盛だった1970〜80年代に「パン給食を一度も実施したことのない学校」として世に知られた学校である。「米どころの子どもらに、わざわざパンでもあるまい」という親や地域の要望にこたえて、自校炊飯の米飯給食を作り上げた。

 その中心となったのが1970年に教頭として赴任した渋谷忠男さんだ。のちに当時の実践内容を振り返った『学校は地域に何ができるか(人間選書 126)』には、次のような一節がある。

「パンを食べないからといって給食に対する補助金をもらえない時期が長くつづいた。やっと米飯給食の米代に補助が出るようになっても、学校給食会の米を使わないと補助金は出ない。それでも川上小学校の親たちは、わが家の米を学校に運ぶ。親たちは補助金政策の路線を拒否して、わが家でつくった自慢の米を学校に運びつづける。これが、川上小学校の手づくり給食を支えたど根性なのだ」(『学校は地域に何ができるか』p134)

 教職員も親も「学校ぐるみ・地域ぐるみ」で参加した奇跡のような給食。いったいこれは、どのようなものだったのだろうか。

「学校は地域に何ができるか」をみんなで考えた

 この奇跡のような給食の経緯を、当時の関係者たちへの丹念な聞き取りから明らかにしたのが、前述の本である。著者の和井田さんは1986年生まれ、栄養教諭として学校現場での勤務経験もある若手研究者だ。

 和井田さんは当初、栄養学の視点から学校給食の研究を始めるが、その途中で「むかしは、パン給食が基本だった」ことに驚く。ところがまさに同じ頃、米飯給食をしていた川上小学校のことを知り、京丹後市教育委員会を通じて、当時の調理員に聞き取りを依頼。すると「給食のことなら、先生たちを抜きには話せない」と考えたその調理員のおかげで、渋谷さんをはじめ教職員までも、インタビューに応じる展開へと広がっていった。最晩年の渋谷さんから「生の声」が聞けた点でも、じつに貴重な記録である。

 和井田さんが聞き取りを進める中で突如、「飯食わしたらにゃ、ってね。これがはじまりなんです」と、米飯給食のきっかけを語り始める渋谷さん。それに呼応するように、当時の用務員兼調理員の福井芳子さん、教諭の大場耕作さんも、地域をあげての「川上地域生活実態調査運動」が実践のベースにあることを証言する。これを「みんなが教育を作り上げとった」と評する渋谷さんの言葉から、川上小学校は学校に関わるすべての人が等しく「地域に何ができるか」を考えてきた、希有な存在であったことがわかってくる。

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忘れたら箸作る

 川上小の画期的な取り組みは、米飯給食だけではない。保護者が手作りした全校児童教職員が集まれる「食堂」や、家で栽培した米や野菜を学校に持ち寄る「地産地消給食」、児童が学級農園の野菜つくりや食事つくりまで行なう「労働教育」など……。特にユニークなのが「忘れたら箸作る実践」である。

 箸を忘れるたび、用務員室にかけ込む子どもたちに最初は箸を渡していた福井さんだが、一向に忘れる子が減らないどころか、「おばちゃん、何しとる、早く、早く」とせかす子どもまで現れる。そこに至って福井さんは、「自分は対応を間違えているのではないか」と気づく。それを機に、箸を忘れたら自分でその場で竹を削って箸を作り、その日の給食はその作りたての箸を使う、というルールができあがっていった。

 和井田さんはこの箸作りについて、教職員だけでなく卒業生6人にもインタビューしている。

 ようこさん:覚えています、覚えています! もうだから、忘れましたって給食室に取りに行って、竹を。で、それから削って、食べんなんですよ(笑い)。

 むつえさん:忘れた人は削って作れということなんですよ!(笑い)これは思い出しましたねえ!

 この生き生きした声からは、卒業から30〜40年を経ても昨日のことのように、この実践が強烈な記憶で残っていることが伝わってくる。

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学校給食の可能性から未来を考える

 歴史に「IF(もしも)」は禁物というけれど、戦後の学校給食がもし米から始まっていたら……この川上小学校のような画期的な取り組みは、全国で展開されていたのだろうか。いや「仮定」ではなく現実として、ここ数年、国のみどり戦略を追い風に「有機給食(オーガニック給食)」を行なう各地の実践が広がっている。40年以上にわたり地場産給食・有機給食に取り組む愛媛県今治市や、2018年に学校給食の100%有機米を実現した千葉県いすみ市、2019年に「遊休農地を活用した一人一坪農園」をきっかけにゼロから始めた長野県松川町の事例など、その内容は多岐にわたる(『有機給食スタートブック』農文協)。ただし取り組む人たちの思いや地域によって実現する給食は違っても、「給食の目指すところ」は変わらない。

 本稿冒頭で紹介した講演会の話に戻ると、会場の「給食とはどのようなものだと思いますか?」との質問に答えて、藤原さんは以下の3点を挙げている。

1.各人の文化的背景は尊重されつつ、誰もが同じテーブルにつけること。共食の場となること。

2.「地域に根ざした」食材が使われるのが好ましいこと。農家の方が「作っていてうれしい」と思えるような食材が使えること。

3.大人も子どもも一緒の目線で食べられること。平等であること。

 今も昔も、学校給食の現場には「食べること」にまつわる無限の可能性が開かれている。そして過去に学び「地域に根ざした」オンリーワンの給食実践を積み上げていくこと。これこそが子どもたちの未来への最大の贈り物であると信じたい。

(農文協論説委員会)

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