主張

川と人の関係を結びなおすために

 目次
◆川の国、日本の水文化の復興を
◆社会を揺るがす大論争をへて
◆流域の知恵を集めて語り合う

川の国、日本の水文化の復興を

 私たちは、なぜ川の流れを見ると、ほっとするのだろう。せせらぎから大河まで、水のゆらぎ、水辺の空間には不思議な力がある。水は太陽エネルギーを受けて海から蒸発し、上空で雲となり雨や雪となって大地に降り注ぐ。それが集まって川となり、ふたたび海に帰る。この絶えざる水の動きを「水循環」という。水は何十億年もの間、この地球で循環を繰り返してきた。私たちは、穏やかな川の流れのなかに、悠久の循環する時間も見ているのかもしれない。

 このたび農文協では、蔵治光一郎編『長良川のアユと河口堰 川と人の関係を結びなおす』を発刊した。編者の蔵治先生は、水循環の研究の第一人者である。以下は、本書の内容にもとづく「川と水と人の物語」である。日本は「川の国」である。明治政府が招聘したオランダの土木技術者ローウェンホルスト・ムルデルは、富山の川を視察した際に「これは川ではない。滝だ」と言ったそうだ。大陸の川はゆったりと、時に国境も越えて流れるが、日本の川は急峻な山から海まで一気に流れ下る。南北に細長い列島を大小無数の川が血流のように流れ、それぞれの流域に太古から人が暮らし、文化が育まれてきた。

 私たちは、生活用水、農業用水、漁撈、舟運、川遊び、工業用水、発電など、さまざまな形で川の恩恵を受けてきた。洪水ですら、肥沃な土壌をもたらす恵みの一部だった。一方で、川が氾濫し、人や財産に被害が生じれば、それは「水害」と呼ばれる。水害を最小化するために、さまざまな治水の知恵が蓄積されてきた。本書では、長い時間をかけて醸成されてきた川とつきあう生活の知恵を「水文化」と呼んでいる(『長良川のアユと河口堰』p203)。

 しかし、近代化や高度経済成長、都市化の過程で、川と人の関係は遠ざかり、水文化も衰退してきた。川は「水資源」として経済活動に役立つこと、水害を起こさないことを求められ、多くのダムや堰が建設され、洪水がすみやかに流れるように整備されてきた。水は人間の生活と生産のために最重要の資源だが、水資源には川に棲む多くの生き物は含まれない。だから川は、人が水を取り、排水や洪水を流すための「水路」へと姿を変えていった。

 川に棲む生き物は、ずっと川にいるものばかりではない。サケ類、アユ、ウナギ、ハゼ類、モクズガニなど、川と海を行き来することで、その生を全うすることができる回遊性の生き物がたくさんおり、流域の人びとにとって重要な種が多い。山・川・海を行き来するこれらの命は、川のもう一つの循環である。ところが、川を水資源として開発し、水害を封じ込めるために改変し続けた結果、命の循環は分断され、回遊性の生き物は激減することになった。

 農山村のダムや堰から得られた水と電気は、大都市や工業地帯に送られる。ダムで水没する村は利害関係で分断され、世のためになるならと泣く泣く離村した人も少なくなかったと聞く。川を分断され、姿を消した生き物たちは、人が使う水と電気のために死んだ。東京の山手線は新潟の信濃川発電所の電気で動いているが、利用者の多くは、そのことを知らない。水や電気はあって当たり前で、水害はダムや堤防が防いでくれると考えられている。

 しかし今、生物多様性の喪失は「地球の限界」を超えていると環境学者のヨハン・ロックストロームはいう。人間の社会・経済活動は、生物圏を基盤として営まれてきたが、地球全体で人間活動により生物多様性が急速に失われている。さらに地球温暖化が進み、より多くの水が海から蒸発し、日本列島に雨として落ちてくる。洪水の規模も頻度も大きくなり、水害のリスクは高まっているのに私たちは水とのつきあい方を忘れている。現代ほど水文化をとりもどす必要性が増している時代はないだろう。

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社会を揺るがす大論争をへて

 日本三大清流に数えられる長良川は、岐阜県の大日ヶ岳から伊勢湾まで延長166km、流域人口80万人を抱えながら中流域まで清流を保ち、名水百選、日本の水浴場88選(河川で唯一)に選定されている。1960年代、中京工業地帯への水供給と塩害防止のために河口堰の建設が立案された。その是非をめぐり、社会を揺るがす激しい論争が巻き起こったが、1994年に河口堰は完成する。

 1995年の河口堰運用前は本州の大河で唯一本流にダムと堰のない川といわれ、山・川・海の連続した生物圏の上に豊かな水文化が育まれてきた長良川だが、河口堰運用後は汽水域が消滅し、アユもサツキマスも激減した。秋、孵化したアユ仔魚の大半が海に下れず堰の手前で死んでいる。国土強靭化の名のもとで急激に進む河川整備、川の温暖化、放流魚の問題も影を落としている。

 しかし、堰が完成して今年で30年。さまざまな調査や検討が重ねられ、ゲート操作の変更で生態系と水文化が甦るという誰もが折り合える出口が見えてきている。オランダや韓国では堰の運用改善で生態系を回復させる取り組みが大きく前進している。今の若者にとって堰は初めからそこにあるもので、過去の論争も知らないが、SDGsは保育園・小学校から教育され、長良川の生物圏の象徴である天然アユは、2015年、岐阜市で準絶滅危惧種に指定され(のちに削除)、同年、世界農業遺産にも認定された。かつてとは異なる議論の土台ができつつある。

 生物多様性の喪失が地球の限界を超えている現代に、新たな議論の土台をつくり、川と人の関係を結びなおすために、『長良川のアユと河口堰』は企画された。「川の国」で暮らす人たちに知っておいてほしい科学的・社会的な情報をまとめた本だ。漁師4名を含む18名の識者の方々に、高校生から読める内容を心がけて書いていただいた。

 編者の蔵治先生は気鋭の水文学者で、『現代思想』2023年11月号「特集〈水〉を考える」でも巻頭討議「意味ある〈水〉を取り戻すために」を担当されるなど幅広く活躍されている。愛知県長良川河口堰最適運用検討委員会の委員も務められ、今回、長良川流域の漁師・市民、関係分野の第一線で活躍する研究者の力を集めていただいた。表紙画は、日本を代表する絵本作家・自然派アーティストで、故郷・岐阜の川を思い続けてきた村上康成さんによる長良川のアユ。本書のためにカバー全面に描かれた大アユは、静かに力強く訴えかけてくる傑作である。

 帯文(推薦文)は、著名なロックバンド「サカナクション」のフロントマンで、釣りを愛する山口一郎さんと、父で岐阜出身の木彫家である山口保さんによる合作だ。

「かつて、川には、人々の生活が息づいていた。夏の水辺は、水遊びの子供達でいっぱいだった。私達は、この国の自然に生かされ、文化を育み、時を繋いで来たのではなかったか」

山口 保(木彫工房メリーゴーランド)

「いつのまにか川は、ただの水路となり、山は無価値なものとして、打ち捨てられてしまった。いずれ『バチ(罰)が当たる』と、祖母の言葉を思い出した」

山口一郎(サカナクション)

 二つの世代(時代)から見た、川と人の関係性が見事に表現されていて、深く頷かれる方も多いと思う。

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流域の知恵を集めて語り合う

 長良川でアユがよく釣れたのは1992年の夏までだった。93年は記録的な冷夏と増水、94年は「平成の大渇水」で、アユの不漁が続いた。同じ時期、「冷水病」という魚の感染症が全国の川に広がり、長良川でも問題になる。さらに河川整備が進められ、絶好の釣り場(生息場所)が消えていった。この頃から、全国的にもアユが釣れなくなったといわれている。そして94年に河口堰が完成し、95年から堰の本格運用(湛水)が始まった。堰の運用による長大な汽水域の消滅は、事業者には予定されていた出来事だったが、そこに棲む多くの生き物には死を意味した。

 岐阜県の太平洋側には、木曽川・長良川・揖斐川が隣接して流れ、伊勢湾に注いでいる。長良川でアユが釣れなくても隣の揖斐川では当時それなりに釣れており、全国的に不漁といっても長良川は極端だった。アユがたくさんいる川には活気があり、川底の石が磨かれ、川が明るいが、長良川は火が消えたようだった。長年、川を見つめてきた熟練の釣り師や漁師たちは川の変化を深く感じていた。

 長良川に、いったい何が起きているのか。漁師の知恵と科学者の知恵が結びついたとき、川の中の真実に近づけるのではないか。本書は、それが実現した本だ。漁師の語りから、かつての川の豊かさや、川とアユ、生態系の変化が浮き彫りになる。そして、さまざまな角度から科学的にその謎が解き明かされていく。川の豊かさの源泉は汽水域、感潮域にあった。滞りなく流れ、川底の砂泥と底生生物が守られ、潮の干満で水位が変動することが、いかに重要か。本書を読まれた河川工学者で新潟大学名誉教授の大熊孝先生は「その過程は推理小説のようで、引き込まれた」とご書評くださった(『季刊地域』24年春57号)。

 そして、水資源開発と治水の実態が示される。河口堰の水は開発水利権の16%しか使われておらず、工業用水の利用はゼロ。治水自体に河口堰はそもそも必要ない。堰を開門すれば塩水が遡上するが、堰運用前から川の表層の真水だけ取水する「アオ取水」が行なわれていた。汽水域、感潮域を回復させるゲート操作は、河口堰の設備と技術があれば可能だ。堰を最適に運用する方法は、オランダと韓国の先行事例もあり、説得力のある提案となっている。

 川が直面している問題はダムや堰だけではない。本書は川の温暖化、放流魚の問題などにも光を当て、各地で議論する材料を提供している。川の流域には、農山村から都市まで、そこに暮らす人の数だけ川とつきあう知恵や思いが存在する。それらを持ち寄り、川と人の未来を語り合えたら、きっといい答えが見つかるのではないだろうか。

 子供たちは、川遊びが大好きだ。今の若者たち、子や孫の世代にも、豊かな川で遊ばせてあげたいと思う。本書が新たな議論の土台になり、長良川を起点として、私たちが川との関係を結びなおすことに繋がればと願っている。

 身近な生き物が生きる環境を回復する「小さな自然再生」が全国で進んでいる。昨年12月に発刊した中川大介著『水辺の小さな自然再生 人と自然の環を取り戻す』では、北海道で地域住民の発意により行なわれている小さな自然再生、とくに「手づくり魚道」の取り組みを紹介している。併せて参考になればと思う。

(農文協論説委員会)

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