主張

「農の哲学」ってなんだろう? 宇根豊さんとアゼ道で考える

 目次
◆とんでもない普及員がいた
◆虫見板と「ただの虫」の「発見」
◆「生物多様性」という言葉からこぼれ落ちるもの
◆「農」を哲学するとは
◆殺すことは「また会える」ための準備
◆「めぐみ返し」こそが農の営み

とんでもない普及員がいた

 宇根豊さんを知っているだろうか。ひとことで紹介するのはなかなかむずかしいので、佐賀県唐津市の農民作家山下惣一さんの言葉を借りることにしよう。辛口で知られる山下さんは生前、宇根さんをこう評していた。

「『農薬をまけという指導は机の前に座っていてもできるが、まくなという指導は一枚一枚の田んぼを見ないとできません』普及員になったばかりのペイペイの若造がこういったのである。『すごいことを言う奴がいる』これがオレにとっての宇根サンの第一印象だった。(中略)そんな時代に『田んぼの虫の状態を見て農薬をまくべきだ』と若い普及員がいいだしたのだからおおごとだよ。要するに『お上の指導』に内部の職員が異議を唱えたわけだ。当然内外から圧力がかかる。宇根さんもがんばったが、まわりの百姓たちも懸命に彼を支えた。まさに減農薬は『コロンブスの卵』だよな」(『百姓の遺言』2023年、家の光協会)

 宇根さんが福岡県の農業改良普及員になった1970年代、多くの稲作農家は普及所や農協がつくった栽培暦に沿って農薬をまいており、西南暖地である福岡では種子消毒を含め散布回数が11回にのぼっていた。若き普及員だった宇根さんは、あるとき知り合いの農家・八尋幸隆さんから「あなたたち普及員は農薬をふらせすぎる」といわれる。そして八尋さんや地元農家とともに、田んぼの農薬散布と害虫の発生状況の関係を「虫見板」を使って継続して観察する。

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虫見板と「ただの虫」の「発見」

 虫見板とは下敷き状のもので、これでイネの株元をトントンとたたき、板の表面に落ちた虫の種類と数をじっくり調べるのである。じっとしているのが害虫で、他の虫をとらえようと動き回るのが益虫だ。観察を続けていると、害虫がいっとき増えてもその後数が減ることがあることや、逆に農薬をふったあとに害虫が急増することもあることに気づく。しかも、こうした虫の発生状況は農家によって、また田んぼ一枚一枚によってちがっていた。それを調べることで、栽培暦に沿って一律に農薬を散布していたときより、大幅に農薬を減らすことができた。農家一人ひとりの田んぼやイネへの向かい方、仕事の仕方が変わった。それを変えたのが虫見板という「農具」であった。

 そのうちに、田んぼには害虫でも益虫でもないトビムシのような虫が一番多いことにも気づいた。宇根さんはそれを「ただの虫」と呼び、注目していく。害虫と益虫は人間の都合(有用性)に合わせた分け方だが、田んぼにはそのいずれにも属さない「ただの虫」が圧倒的に多い。「ただの虫」は害虫や益虫その他のあらゆる生きものの死骸や作物の枯れた葉などを食べていたりする。「ただの虫」を入れないと田んぼの全体像は見えてこない。

 その後、宇根さんは福岡県二丈町(現・糸島市)に移住し、農業を始める。そして、2000年、49歳の時に、県の職員を退職し百姓一本になる。あわせて、「農と自然の研究所」を設立。農家や市民、子どもたちと「田んぼの生きもの調査」に取り組み、田んぼとその周辺の水路などに生息する動植物・微生物をつぶさに記録していく。「田んぼの生きもの全種リスト」にまとめられたその数は5668種(当時)にのぼった。

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「生物多様性」という言葉からこぼれ落ちるもの

 このように書くと、「ああ、田んぼの生物多様性を追求した人ね」と早合点する人もいるかもしれない。それはあながち当たっていないわけではないが、宇根さんの本意ではない。なぜなら「生物多様性」という言葉は百姓の言葉ではないからだ。いま、地球環境問題やSDGs、生物多様性といった観点から農業について語られることが増えてきた。その一方で農業の未来像としては、AIやゲノム編集などの科学技術を駆使したスマート農業への過大な期待が行き渡っているようにみえる。向きは違うが、いずれの考え方も、ベースにあるのは科学的・客観的な知識や技術であり、そこには実際に農を営む百姓の言葉や技はない。

 いったい農とはなんだろう......科学的客観的な視点(「外からのまなざし」)ではない農家の仕事をとおした視点(「内からのまなざし」)で「農の哲学」を語ることはできないか。宇根さんはそのことをひたすら問い続けてきた。

 そうした農、食、いのちへの問いかけとその答えが、このほど農文協から出た2冊の本にまとめられた。『百姓・宇根豊と考える農の哲学 上 AIは百姓になれるか』『下 殺さずに食べることはできるか』がそれである。いわば宇根さんの長年にわたる思索の集大成となる作品だ。

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「農」を哲学するとは

 哲学とは、ものごとの「そもそも」を問うこと。だから農の哲学とは「農とはそもそも何か」を問うことだ。こう書くとひどく難しい本のように思われるかもしれないが、その語り口はいたってやさしい。あくまで農家の日常に密着した問いであり、いわばアゼ道で見つけた哲学である。

 この本では当たり前のこととして私たちが見過ごしてきたことが次々に俎上にあがる。

 おばあさんはなぜ草取りが楽しいのだろうか。アゼ塗りを「農業技術」と言ってしまうと何が言い足りないのか。仕事が「はかどる」の「はか」とは何か。なぜ百姓はカエルやヘビ、たくさんの生きものを殺しても平気なのか。田んぼに毎日通いたくなるのはなぜか......。

 ときに宇根さんが舌鋒鋭く批判する場面がある。それは、「外からのまなざし」によって、百姓仕事がないがしろにされ、農と共にあった「いのち」もないがしろにされるときである。口蹄疫や豚熱、鳥インフルエンザで「予防的」に殺処分される大量の牛、豚、鶏の姿に、「清浄国」復帰といった国家としての価値がいのちより優先されていると憤る。

 地球温暖化の原因となるメタンガスが水田から発生するのを抑えるために、中干しを早めに強く、長くするという試験研究機関の指導を「外からのまなざし」の典型とみる。メタンガス抑制というひとつの目的のために、中干しによってオタマジャクシなどの多くのいのちが奪われることは一顧だにしない。空気中のチッソを固定する藍藻やメタンガスを抑制する可能性のある土壌微生物の役割についてもみていないからである。

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殺すことは「また会える」ための準備

 詳しくは2冊の本を読んでいただくとして、宇根さんがこの本を書くなかで見つけた言葉を二つだけ紹介しよう。

 まずは「また会える」という言葉について。

 宇根さんは百姓仕事とはたくさんの生きものを殺す仕事だという。田畑を耕せば草は土に埋め込まれて死ぬ。田んぼに水を引き入れればミミズが死ぬ。水を落とすとカエルが死に、草を刈ればヘビが死ぬ。そもそもイネ刈りも野菜の収穫も植物を殺すことである。こう書くと百姓仕事は「殺生」の連続で、残酷で殺伐とした仕事のようにも思えてくるが、農家がそう感じないのはなぜか。宇根さんはその答えは農を始めることによって、農家のなかにいのちに「また会える」という感覚が宿ったからだという。宇根さんは草取りを例にこう書く。

「『草とり』が一番楽しい」理由がもう一つあるのです。それは草とりが「殺す」仕事だからです。(中略)百姓の身体は、相手の生きものの生に触れ、その生と別れることを、直接手を下しながら感じとっています。これは残酷さではなく、ひとつの充実を身体で受けとっているのです。死んでいく『いのち』を愛おしいと感じて見送ると、『殺す』ことは、また生まれてくるための準備となります。『殺す』ことは『死』よりも『生』を実感することになるのです。草の生(精)は、待っていてくれるからです。(中略)翌年、つまり未来で、待っていてくれるのです。この『また会える』という実感は、百姓の身体の中に蓄積されているのです」(『上 AIは百姓になれるか』p78)

 百姓は「また会える」ことを信じて、そのための「務め」として田畑を起こし、草を取る。「草を殺すことを苦しまないように変えたのは『農』の力だった」(同p80)。

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「めぐみ返し」こそが農の営み

 だが、現実の農業はどうだろうか。

 資本主義のもとで、生産された米や野菜は「食料」としてカネで買われていく。カネは消費者から農家に支払われるが、宇根さんは、それは自然に対して「不公平」であり、その「対価」は生きものや天地自然にも支払われるべきだという。

 宇根さんはここに「めぐみ返し」という言葉を当てる。

「『めぐみ』を毎年毎年くり返して受けとることは、同じ材料を使って、同じ労働で『再生産』しているのではありません。天地自然からの『めぐみ』は、受け取りっぱなしではなく、百姓は必ず『返して』いるのです。百姓がふたたび作物のタネを播き、手入れをし、見守るからです。それと同時に田畑や水路や畦道で育つ生きものも百姓仕事を待っています。そうなのです。天地自然の現象とその生きものたちと『また会える』ようにするのが百姓仕事の本質であり『なりわい』の性質なのです」(『下 殺さずに食べることはできるか』p238)

 農という字はもともと「なりわい」と読んだという。「なりわい」としての農は、イネとともに田んぼまわりの生きものを育んでいた。

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 最後に宇根さんが好きだという句を紹介したい。

「いきかはり死にかはりして打つ田んぼかな」(村上鬼城)

 この句では、あくまで田が主役で人は何代にもわたって耕し続けるちっぽけな存在にすぎない。そこではカエルやヘビや赤トンボもまた数え切れない代を重ねて棲み続けている。人間が田んぼに働きかけているようで、逆に人間が田んぼやそのまわりの生きものに働きかけられている。農耕的自然とは「人を含む自然」すなわち天地であり、農とは天地と共にある「なりわい」なのかもしれない。

 しかしこれはけっして難しい話ではなく、農家が言葉に出さないまでも日頃感じていることではないか。人間中心主義から一度離れることで見えてくる新しい世界がある。

(農文協論説委員会)

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