主張
「地域の底力」を信じ続けて──結城登美雄さんを偲ぶ
目次
◆居久根の残るむらの歴史を掘り起こす
◆「何もない町」の自給の食資源300種
◆「地域の食卓」で次世代に食を引き継ぐ
◆「生きることは食べること」――鳴子の米プロジェクト
◆「ぐずぐずと変わっていく」のが地域の力
東北を中心に農山漁村の集落を訪ね、農と食をベースにした地域づくりを支援してきた民俗研究家の結城登美雄さんが、7月20日、仙台市内で亡くなった。80歳だった。
生涯をとおして訪ねたむらは、600カ所以上にのぼる。結城さんが提唱した「地元学」は「ないものねだりからあるもの探しへ」という惹句とともによく知られている。その人生をとおして、むらで生き続ける人びとに思いを寄せ続けた結城さんの足跡と言葉の一端を、その著書『地元学からの出発』(農文協)を頼りにたどってみたい。
居久根の残るむらの歴史を掘り起こす
結城さんは1945年、敗戦直後の旧満州で生まれ、母の実家があった山形県大江町の山間部の集落で育った。山形大学人文学部卒業後、仙台市で広告代理店に勤務、のちに仲間と広告デザイン会社・タスデザイン室を興す。
ときはバブル絶頂期の1980年代後半。華やかな広告業界に身を置いていた結城さんの転機となったのは、仙台の市街地に奇跡的に残った屋敷林との出合いだった。
「杜の都」と呼ばれる仙台は江戸時代、その大半を武家屋敷に占められ、その屋敷は自給自足ができるように菜園や茶畑、柿や梅、クルミや椿などの実のなる木に囲まれていた。戦災と近代的都市計画によって、その面影はすっかり失われてしまったが、一軒だけ屋敷林に囲まれた家が残っていた。結城さんは暇を見つけてはこの家に通い詰め、詳細な図面をとり、そこでの暮らしを家の人から丹念に聞き書きした。これを機に結城さんは、開発の陰で失われつつあった人びとの暮らしに目を向けていく。
仙台地方では農家の屋敷林を居久根と呼ぶ。仙台市東部に居久根が残る田園集落・七郷地区があった。結城さんはバイパスの開通と宅地化によって姿を変えつつあったこの地区で腰を据えて調査に取り組む。聞き取りが思うように進まないなか、圃場整備以前の田んぼの様子を再現するために、昭和37年頃の空中写真をトレースして2畳分ほどにつなぎあわせた図を持ち込んだ。この図を見た老人たちの目つきがみるみる変わった。
「一つひとつの田のかたちをみんなが覚えていた。一つひとつに汗と苦労と喜びがあった。(中略)1枚の田んぼの図面をとり囲み、老人たちの話はいつまでも尽きることはなかった。七郷の歴史とは何か。それは人びとが土地に刻んだ歴史だった」(『地元学からの出発』農文協、30頁)
その後、地域の人たちは田のアゼ近くにあった石碑・石仏をすべて写し取って解読、年中行事や食事を再現し、足下の歴史を掘り起こしていった。3年半の調査を経て、A4判240頁の『ふるさと七郷』をまとめあげた。
自分の住む地域を歩き、かつての暮らしを再現し、現在との変化を読み取る。そこから地域の未来像を構想する――「地元学」の手法が確立していった。
「何もない町」の自給の食資源300種
地元学のなかでも結城さんがとくに心を砕いたのは、地域の資源を生かした食文化を次世代に伝えることだった。
宮城県の事業である「みやぎ食育の里づくり」。そのアドバイザーを任された結城さんは、開催地として北上町(現・石巻市)を選んだ。これは県の担当者にとっては意外な選択だった。当時、宮城で食といえば、米どころ大崎平野の中心地・古川市(現・大崎市)、県南の農業先進地・角田市、全国有数の漁業水揚げ高を誇る気仙沼市などがまず思い浮かんだからである。「あそこは何もないでしょう。せいぜいシジミとワカメが少しとれるぐらい、ほかに何がありますか?」と。しかし結城さんの見方はちがった。
北上町は北上川が太平洋に注ぐ河口に位置し、かつて人びとは半農半漁の暮らしを営んでいた。それだけに「海・山・川・田・畑・沼・沢・野というすべての自然環境をあわせもったところ」であり、「宮城県をコンパクトに凝縮したようなところ」なのだ。全国レベルで「外貨」を稼げるような産物こそないが、自給という視点でみれば、豊かな地域資源とそれを生かす技をもっていた。それを実証したのが、「北上町の食資源調査」だった。
この町に暮らす13人の女性たちに、自給食材の種類、播種・収穫期、調理・料理・加工保存の方法を1カ月かけて詳細に答えてもらった。その数はなんと約300種。庭先の畑を中心に農産物が約100種、山菜が約40種、キノコ約30種、果実と木の実約30種、海の魚介類と海藻類が約100種、北上川から獲れる淡水魚介類が約10種。
そのリストを見た地元の女性がしみじみとこう語った。
「40年ほど前、北上川上流の町からここの河口の町に嫁いできた。見知らぬ町の生活は不安がいっぱいだった。しかし1年間ここに暮らしてみて、ここは安心して子育てができるところだ、とわかった。田畑だけではなく、海、山、川から四季折々に、次々とごちそうが届く。暮らしの基本はまず食べることが安定していること。子どもに食べもので不自由をさせるのは親として一番つらい。親はそのために必死に稼ぐのだが、ここは銭がなくても楽しく暮らせるところだと思った」(同書 115~118頁)
それが「この町にはなにもない」といわれた北上町の宝であった。
「地域の食卓」で次世代に食を引き継ぐ
だが、豊かな食資源は暮らす人の技があってこそ生かされる。結城さんの言葉を借りれば、「20歳で嫁いできて70歳になるおばあさんは、50年間も毎日食事をつくってきた人である。1日に3回、1年で1095回、50年ならば約5万5000回の食事を生み出してきた人。それも店で食材を買うのではなく、自ら種をまき、海辺で海藻をとり、山できのこや山菜を収穫してくる人たち」なのだ。
現代はこうした女性が支えた「家庭の食卓」がやせ細り、「お店の食卓」が幅をきかせている。だが、日本の農山漁村にはもともと季節の節目に食材や料理を持ち寄り共食する文化があった。そこは「互いの食の知恵を交換するだけでなく、次世代に地域の味を伝える場であり、何よりも地域の人びとの楽しいコミュニケーションの場」であった。そして北上町では「地域の食卓」がまだまだ健在だった。
北上町の子どもたちをもう一度「地域の食卓」へ。結城さんが着目したのは女性たちの骨休めでもある観音講の際に供される精進料理だった。地域の女性たちに呼びかけて精進料理を小学生たちにふるまう課外授業をおこなった。
なぜ精進料理か。それは肉類などの動物食品を禁じつつ旬の食材をできるだけ生かすという精進料理の特質が、限られた条件のなかで食を豊かにする農山漁村の女性たちの現実の工夫と呼応すると考えたからである。子どもたちはまず、北上町の女性たちからのヒアリングでまとめた「北上町の食べもの読本」をテキストに、食がたくさんの地域資源とそれを生かす多様な技から成り立っていることを学んだ。「いただきます」の前には、北上川の橋のたもとにある「魚介類之供養塔」の意味も伝えた。生きとし生けるものに感謝しながら先人たちは生きてきたということも。
共食の場=「地域の食卓」を通して、食の資源を発掘しその知恵と技を次世代に伝える――その手法は宮城県宮崎町(現・加美町)での「食の文化祭」に発展する。宮崎町の1500世帯の家庭内で食べられている自慢の料理を一堂に集めて展示したのである。それはそれまで見えなかった地域の人材やアイデア発掘の場にもなっていった。
「生きることは食べること」――鳴子の米プロジェクト
そんな結城さんの集大成ともいえる活動が、宮城県鳴子町(現・大崎市)の「鳴子の米プロジェクト」である。
品目横断的経営安定対策という経営規模による農業選別政策がはじまろうとしていた2006年の秋、山間地である鳴子地区の農業の将来を憂えた鳴子町役場の安部祐輝さん(現・大崎市産業経済部長)が結城さんに相談にいく。結城さんは「まず、山間部に合ったおいしい米をさがすこと」と助言する。鳴子地区の人びとは古川農業試験場に紹介された米を地域の力で「ゆきむすび」という品種に育て、「つくり手」である農家と「食べ手」である消費者を直接、予約販売方式でつないでいく。そこに旅館や菓子店、漆塗り職人など地域の多様な人びとがかかわっていく。その経過は『つながるごはん』(農文協)に詳しい。
JAの概算金が1俵1万1000円程度だった2007年に、販売価格を2万4000円(農家手取り1万8000円、事務局経費等6000円)と定めたのはプロデューサーである結城さんだった。「高すぎるのではないか」と危惧する声に、「茶碗一杯24円のごはんがなぜ高い」と言い放ったのも......。このプロジェクトはNPO組織によって20年たった現在も継続している。
2025年12月、その大崎市で「鳴子の米プロジェクト20年感謝祭」が開かれた。久しぶりに講演した結城さんの演題は「食べることは生きること」。「人は生きるために食べなければいけない。食べなければ人は生きられない。長年積み上げた経験をみんな忘れている。当たり前と思わずに、鳴子などで食べもののイロハを学ぶ場が必要」と。
「食べなければ人は生きられない」とは、戦後の引揚者として、食うや食わずの暮らしを体験した結城さんの腹の底から出た言葉ではなかったか。それだけに「人間の値打ちも、その生活空間としての村も農地も経済効率という金のモノサシだけで判断」する、新自由主義的な農政や学者に対しては歯に衣着せず批判を浴びせた。
「ぐずぐずと変わっていく」のが地域の力
そんな結城さんが信じたのは「地域の力」だった。では「地元学」とは、「地域の力」とはどういうものか。
最後に結城さん自身の言葉を引いてみよう。
「地域とはさまざまな思いや考え方、そして多様な生き方と喜怒哀楽を抱える人びとの集まりである。しかし誰もが心のどこかでわが暮らし、わが地域をよくしたいと思っている。だが、その思いや考えを出し合う場がほとんど失われてしまっているのも地域の現実である。
『地元学』とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場はいっきに変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである」(同書14頁)
(農文協論説委員会)