現代農業1999年11月増刊
『田園工芸』 
 豊かな手仕事の創造

【編集後記から】

「この条件下で1000人以上の人が住んでいたことが奇跡的。今は途絶えていても、この土地に人々を根づかせる何かがあったはず。年寄りたちに昔の話を聞き、それを復活させてみては……」。岐阜県川上村の「山まゆ」復活のきっかけは、昭和40年代末の地域開発コンサルタント企業のアドバイスだったという。ところが「肝心の山まゆが、川上村にはほとんどいなくなっていた。ヒノキの植林を進め、山まゆの餌となるクヌギが激減したためである」。川上村での山まゆの復活は、餌となるクヌギの確保から始まった(本号82頁)。また今でこそ「からむし織の里」の名で全国的に知られるようになった福島県昭和村だが、かつて戦中戦後の食糧不足と人手不足によって、からむし畑は作物畑に変えられていた(74頁)。

 別の見方をすれば、かつての農山村の生活材料生産、すなわち『田園工芸』は、それほど密接に周辺の自然環境と一体になっていたということだろう。姫田忠義氏の「米の生産が極めて乏しかった山国・白川では、焼畑による雑穀生産が生命線であり、それと合掌屋根の材料であるコガヤの生産が完全に結びつき、リンクして、白川郷の食住をまかなっていたのであった」(226頁)との指摘も同様である。だが、山は木材生産、畑は食糧生産という単一の機能でしか評価しない見方、つまり経済合理主義が農山村に浸透するにつれ、周辺の自然環境も、景観をも一変させるほど変わっていったにちがいない。

 しかし、川上村山まゆ生産組合事務局長の小縣雅文さんが“繊維のダイヤモンド”と呼ばれる糸を生み出す山まゆを見たとき「なんだコイツかと思った」ように、かつて人の暮らしと密接に結びついていた生物資源は、そう簡単に消え去ってはいない。私自身も、スカーフ一枚が数万円するというからむし織の「からむし」をはじめてそれと意識して見たとき、「なんだコイツか」と思ったものだった。今回もまた、道端のクズから織られる美しい葛布を見て驚いた。これらの遺産を生かすのはこれからだ。(甲斐良治)


 


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