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Ruralnet・農文協食農教育2000年春 8号


寄島小四年の実践を読んで

ただひたすら生活をするなかでこそ生じる真実の学び

国立教育研究所主任研究官 奈須正裕


手段としての「体験」を超えて

 寄島小は、はるかに突き抜けてしまった学校である。あるいは、これを学校と呼んでいいのかとすら、疑問に思う人があるかもしれない。無理もない。子どもたちの夢・願いの実現のためとはいえ、どこの世界に校地の一画をパワーショベルで掘り、レンコンを栽培する学校があるだろう。
 だいたい、9品目もつくろうなどと本気で思うあたりが普通ではない。もちろん子どもは本気で願うだろうが、たいていは教師がそれを許さない。多くの学校というか教師なら、子どもたちがなんといおうと、米作りだけをやるだろう。あるいは教材的に整理していって、特質の異なる数種類に絞るのではないか。それでも、結構なことが学べるはずだ。いや、栽培についてとりあえずのことを学ぶ手段としてなら、それでも十分すぎる。
 これを授業と呼ぶべきか、という疑問も頭をもたげてくる。私には、どうにもそぐわない感じがしてしかたがない。授業というには非構造的にすぎる。やはり、これは文字通り開墾であり、農作業であり、料理であり、祭りなのだろう。それは、勤労奉仕でも、栽培体験でも、調理実習でも、お祭りごっこでもない。
 その意味で、この報告から、例の体験学習という言葉は浮んでこないだろう。いや、体験学習などとして読まれては困る。そんな「いやらしい」ものではないのだ。だってそうでしょう。普通、人は体験を通して学ぶのであって、あえて体験学習などと断る必要がどこにあるのか。やはりその背後には、つまり本と黒板を足場に、書き言語と抽象記号にもっぱら依拠した、「あの」学習を標準とする考え方があるのだろう。それに、たまには添え物程度の体験も交えてやろうというニュアンスを、私は体験学習という表現から嗅いでしまう。要するに、とってつけた体験であり、しかもそれはあくまでも学習の手段なのだ。そして、寄島小がやっているのは、そんな代物ではない。
 そう、子どもたちが、そして教師たちがここで追い求め、営んできたのはただひたすらの生活、本物の暮らしなのである。あらかじめの何かを学ばせる手段としての体験などではない。
 と同時に、もちろん単なる活動でもない。自分たちが求める生活を自力で実現しようとするなかで、子どもたちは解決すべき切実な問題にいく度も出会い、その問題解決過程で、結果的に実にさまざまなことを学ぶ。そしてそうなるよう、教師は意図的で計画的な投げかけや場づくりを行なってもいる。このようにして、子どもたちはかくもたくましく、また誠実にして思慮深くなっていくのである。

「近代」をつきぬけた先に見えるもの

 この報告から強く印象づけられるのは、総合学習は、もちろん大人が考えたあるべき生活を教え込むのでもなければ、生活について第三者的に研究するのでもない、ということだ。総合学習では、まず何よりもただひたむきに自分たちが求める生活を「する」ことが大切なのである。そして、真実の生活を「する」中でこそ、人は真実の生活を「学ぶ」。
 考えてみれば、当たり前のことである。問題は、それが当たり前ではなかった従来の学校なり授業のあり方のほうにこそある。その意味で寄島小の実践は、伝統的な教育に対する鋭い告発であり、その抜本的にして自然な改革の具体的方途の提案である。
 冒頭に、寄島小ははるかに突き抜けてしまった学校だと書いたが、寄島小が突き抜けてきたのは「近代」であり、近代を生み出すために仕組まれた装置としての伝統的な学校なり授業である。そしてここにあるのは、その表面的なのどかさや素朴さ、ノスタルジックな感じとは裏腹に、まさにポスト近代の学校教育の青写真の一部なのではないか。その意味で、副題にある「父母や地域の人といっしょに」の後に続くべき言葉は、やはり「学ぶ」ではなかろう。「生活する」あるいは「暮らす」であり、もちろん人はその時にこそよく「学ぶ」のである。このあまりに当然にして、だからこそ私たちが忘れがちな教育上の深遠な真実を、寄島小の実践は身をもって教えてくれるような気がしてならない。


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