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Ruralnet・農文協食農教育2002年5月号


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田んぼで算数

田んぼの中で
 子どもたちがガウスになった

山形県遊佐町西遊佐小学校   大井 康嗣

田植えの型つけを押す子どもたち
田植えの型つけを押す子どもたち

教師を驚かせたガウスのアイデア

  数学者ガウスの天才ぶりを伝えるこんなエピソードがある。ガウスが10歳のとき、小学校の先生が「1+2+3+…+100」を計算せよと授業中に問題を出した。先生はその間に他の仕事をやろうとしたらしい。しかし問題を出してすぐに、ガウスが「できました」と手をあげたのである。先生は彼が嘘をついているものと思った。しかしその答えを見てみると、5050という正答が書いてあった。ガウスの計算方法は次頁の表のようなものだった。  山形県遊佐町にある西遊佐小学校。平成12年度の4年生は17名。彼らは決して天才ではない(と思う)。しかし、彼らが出した答えは、ガウスと同じものだった。違っていたのは、彼らが田んぼの中で考えたということ。そして、本気でお米を作ろうとした結果のことだということ。

台形の田んぼを17人で分ける

図1子どもたちが測量して描いた田んぼの図
図1 子どもたちが測量して描いた田んぼの図

 子どもたちが解いた問題は、「台形の田んぼに、どうやって17人が田植えをするか」というものである。3月から塩水選、芽だし、種まき、田起こしの作業をやってきた。育苗箱にやってくるカラスを追っ払うために、授業中も交代で見張りについていた。そんなふうに育ててきた自分の苗を、ようやく植えるところまできた。
 子どもたちは「自分の育てた苗は自分の田んぼに植えたい」と主張した。その気持ちはよくわかった。それぞれに自分の育苗箱を持って、ここまで本当によく世話してきたのである。植える田んぼも自分の場所を決めてやりたいと思ったのである。
 では「どうやってたんぼを17等分するか」……ここが問題になったのである。
 子どもたちは、すぐに田んぼに行ってみようと言う。確かに行ってみなければわからない。「じゃあ玄関前集合、10分後ね」と告げた。集まった子どもたちは、ノートに筆記用具、時計、ビニール紐それに巻き尺を用意していた。なかなか先を考えている。
 1時間ほどかけて測量が終わった。なんとか描いた田んぼは、図1のような形だった。
 「こんな複雑な図形を17等分する?これは難問だなあ…… 」と思いながら、とりあえず僕の描いた正確な図面を彼らに提示した。図面を見ながら子どもたちは、こんな話をしていた。「ここ少し水溜まってたよ。こっちがいいなあ」「こっちのほうが道路に近くていいね」……どうやら彼らは図面を見ながら、実際に作業する場面を想像しているらしい。どろんこになってやった田起こしも、1時間かけてみんなで測量したことも無駄ではなかったようだ。図面を見ながら、図面にはないさまざまな情報を想起できるということは、この問題を解くときにも実際に作業するときにも大きな力となる。図面を見ながらわいわいやっている時間は、その情報を互いに交換し合っている時間なのだ。こういう場面では、僕はほとんど何もしないで黙って座っている。

面積の計算は習っていないが

 ところで彼らはまだ面積について習っていない。そこで図面を提示した後、20分かけて「面積」の勉強をした。とりあえず今回必要となりそうな知識だけ教えた。教えた内容は、(1)方眼の1マスは1辺が1mの正方形であること。(2)この面積を1m2と呼ぶこと。(3)正方形のマスの数がいくつ分で何平方メートルと呼ぶこと。(4)面積は足したり引いたりできること。
 説明を終えると、僕はただ黙って子どもたちのやることを見ていた。僕自身どうやっていいかわからずにいる。子どもたちはまず総面積を求めることにやっきになっていた。総面積を求めるには、斜辺部分の面積をどうやって求めるのか解決しなくてはならない。しばらくすると、「先生、紙切ってもいい?」という子が出てきた。斜辺部分を切り取って、他の斜辺部分にくっつけると1つの正方形ができることに気がついたらしい。1人の子がそれに気づくと次々に伝播してゆく。そのうち1個1個切り取るのは面倒だからと、斜辺部分を全部切り取って一挙にくっつける者も出てきた。ようやく総面積を算出できる目処が立ってきたところで時間切れ。後は明日、続きをやろうということになった。

子どもから出てきた3つの案

図2 大井先生が黒い部分をもらうことに
図2 大井先生が黒い部分をもらうことに

 翌日。朝から総面積はいくらか、子どもたちは教室でわいわいやっていた。昨日、家に帰ってからもやってきたのだろう。家族で考えてきた子もいたようだ。
 ここで僕は、次のような課題に修正した。「黒い部分を大井がもらいます。残りの部分を17人で分けなさい」。総面積を17等分するのは無理と考えたからである。台形の高さを17等分しやすい51mにしてやったらどうにかなるだろう……その程度の思いつきで当面する課題を修正した(図2)。
 51mの辺を17等分することに注目している子が大半だったが、なかには1m2の正方形を数えることに注目している子も2人いた。こうして、大きく分けて3つの案が出てきた。

a案(人頼み式)(図3)
 「斜辺部分を誰かにやってもらって、残った長方形部分を等分する」

b案(マス数え式)(図4)
 「全部で1m2の正方形を1人ずつ端から測って分けていく」

c案(能力差式)(図5)
 「3mずつ区切っていくと、広い所と、せまい所が出てくるけどいい」

さて、出揃ったところで話合い。
 「a案はダメだよ。3角の所を誰かにやってもらうって、誰かいるんですか? 地主の青山さんは絶対手伝ってくれないって言ってたし、先生だって自分の所で精一杯だし……」
 「早くできた人からやってもらったらいいよ」
 「でもそうやると、1番端っこの狭い所の3角はすっごい小さいよ。そんなのわざわざ測って人にやってもらうなんて面倒だよ」
 「b案はいいけど、どうやって田んぼに線を引くの?」
 「それに型押しするとき、面倒だよ」
 a案とb案に対する反対意見が続いた。子どもたちは、実際の作業をイメージしながら考えているようだった。黒板ではできることでも、実際にやるとなったら、方眼を田んぼに引くのは厄介だ。小さな端っこを人に任せるのは面倒だ……そういう実際の作業を想定して思考している。結局、c案しかないだろうという結論になった。

図3 a案(人頼み式) 
図4 b案(マス数え式) 
図5 c案(能力差式) 
図3 a案(人頼み式)
図4 b案(マス数え式)
図5 c案(能力差式)

2人合体するとちょうどぴったり

図6 c案を修正した分担図
図6 c案を修正した分担図

 さて、では誰がどこを受け持つか… …。これは結構もめるだろうと思いながら見ていた。しかし、すんなり子どもたちは、自分の分担したい場所を決めていった。経験のある子は広い場所を取り、自信のない子は狭い場所を取っていた。あっという間に完成した分担図を見ながら、ある子がこんなことを言った(図6)。
 「ひろし君、苗余るよ。かずき君にあげるとちょうどいいと思うよ。かずき君はたぶん足りなくなる。2人合体するとちょうどぴったしだもん」
 「んだよ。ひろし君、絶対うまいもん。手伝えよ」
 「そっか! じゃあかずき君1緒にやろ」
 「あ! 1番と17番が1緒でしょ。じゃあ2番と16番も1緒にやればいい」 
 「3番と15番も1緒にやるといいよ。ああ! 僕はさとし君と1緒だ」
 「1番と17番。2番と16番。3番と15番。4番と14番……これみんな同じ面積だよ」
 「あれ? けんと君は1人? 誰もいないよ」
 「けんと君のところはちょうどぴったしだもん。1人だけどみんなと同じ分やるんだよ。ちょうど真ん中」
 「やった。できたあ」
 僕は面積を均等に分けることしか考えていなかった。しかし子どもたちはそうではない。「多少の多い少ないはあっていいのだ。多い人は少ない人を手伝ってあげればいい」と言うのである。なんと大らかな素敵な考え方なんだろう。それ故に、ガウスと同じ発想にまでたどり着いたのである。

田んぼのガウスを作った「だんどり」の力

 「最も多い人と最も少ない人を合わせる。2番目に多い人と2番目に少ない人と合わせる。同様にして合わせていくとすべて同じ面積になる。だから、それぞれ2人ずつペアになって、協力して田植えをする」。こんな素敵な結論を出すことを、僕は予想していなかった。僕自身なかった考えだったのだ。
 ではなぜ子どもたちは、教師の思惑を超えてガウスになれたのであろうか。ここに体験学習の醍醐味があるように思うのである。
 僕がこの体験学習を仕組むうえで、最も大事にしてきたことは、「だんどり」である。人が何かを為すときに、まず「願い」がある。「願い」をかなえるために、道具や場所や時間を調達するわけである。それらをうまく組み合わせて、実行する……これが「だんどり」である。
 「計画」とか「見通し」という言葉もあるが、「計画」や「見通し」という言葉にはどこか一直線に進んでいくような、何か機械的なニュアンスがある。しかし実際に事を運ぶときには、そんなふうに一直線に進んでいくわけではない。紆余曲折があるのである。紆余曲折を経て事を運ぶからこそ、その過程で身につけた豊かな情報が、次に生きてくるのである。それが「だんどり」である。
 たんぼの面積を測りに出かけるとき、子どもたちは何も言われなくてもノートや巻き尺、紐と時計を用意していたし、田んぼの図面を見たとき、自分が田植えをすることを想定しながらあれこれ考えていた。これこそが僕の願っていた「だんどり」の力である。ガウスになれたのはその副産物なのである。


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