主張

チューブをつなごう
次世代に向けた「新しい消費者教育」のすすめ

 目次
◆「田んぼの先生」はなんのために
◆生協といっしょに食と農の本をつくったわけ
◆白熱した「食と農の哲学ゼミナール」
◆藤原先生の「人間チューブ論」とは
◆ブラックボックス化する食
◆食べることへの想像力を養う消費者教育

「田んぼの先生」はなんのために

 もうしばらくすれば、学校の新学期が始まる。読者のなかには、小学校5年生などの「田んぼの先生」や「畑の先生」を毎年つとめおられる方も多いと思う。

 学校の田んぼで苗の育て方、田植えやイネ刈りの仕方を教える。その場合、多くは現代の田植え機やコンバインの機械化稲作体系ではなく、昔ながらの手作業での稲作を教えることが多いと思う。では、現代においてなぜわざわざ手作業の稲作を子どもたちに教えるのだろうか。

「勤労体験」という意味もあるだろう。いまどきの子どもは泥田に足を踏み入れた経験がほとんどない。昔の農家はこんなに苦労してイネを育てていた。それを知ることで、忍耐力が身につくかもしれない。いまどきはサラリーマンの子どもだけでなく、農家の子どもだって、ふだん田んぼで手伝いをしたことがないし、その必要もない。いや下手に手伝いなどさせたらあぶないのがいまの機械化稲作だ。だから、学校の授業で初めて田んぼに足を踏み入れた、という農家の子どもはけっして珍しくない。

 そして、学校での農業体験を応援する側としては、この子どもたちの中から一人でも二人でも農業を継ぐ子ども、新規就農する子どもが出てほしい――そういう願いも込めておられることだろう。しかし、ほとんどの子どもは将来農業につくことはない。だとすれば、子どもたちに田植え、イネ刈りを教えることにどんな意味があるのだろうか。

 学校の側にはいろいろな教育目的があるだろうが、農家の立場から見れば、広い意味で「消費者教育」の一環という思いがあるはずだ。消費者でありながら、農家のことがわかる大人が少しずつでも増えてほしい。そんな思いではないだろうか。

 この「消費者教育」のとらえ方について、最近少々気づくことがあった。中高生向けの食と農にかかわる本を編集した経験から考えてみたい。

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生協といっしょに食と農の本をつくったわけ

 その本づくりはパルシステムの職員の方との雑談から始まった。パルシステムは首都圏など12都県に食材などを宅配する生協グループである。もともと運動意識の高い比較的小さな生協の集まりで、産直比率が高く、農業体験ツアーや料理教室などの交流イベントも活発に行なっている。

 その職員から見ると、組合員のなかで、農業のことをまじめに考えているお母さんたちには次のような悩みがあるという。小学校高学年くらいまでの子どもには、学校での農業体験もあるし、農や食にかかわる絵本もいいものがたくさんある。でも、それから上の中学生高校生となると、農業にかかわる体験が切れてしまう。せめて、本のなかでそういう世界に触れさせようとしても、食や農についてわかりやすくまとめたよい本がないというのである。

 農文協もじつは食と農の絵本をたくさんつくっている。なかでも学校図書館や公共図書館でもっとも利用されているが『そだててあそぼう』だ。1997年発行の『トマトの絵本』から始まって、既刊105冊にのぼる人気シリーズである。32ページ15見開きのコンパクトな絵本のなかに、トマトの育て方から、生理・生態、食文化、来歴などの情報がぎっしり詰まっており、プロの農家にとっても読みごたえがあるとの評価もいただいている。

 問題は絵本世代の次の世代に、どのような食と農の本を用意するかだ。中学生から高校生世代は、クラブ活動や塾通いに忙しい。わかりやすい本にはしたいが、そうかといって教科書のような本ではこの世代は手にとってくれないだろう。

 考えあぐねた先にパルシステムと私たちが選んだのは、食や農に見識をもつ研究者にじかに中高生に語りかけてもらって、そのやりとりを含めて本をつくることだった。中高生と講師との間の化学反応に期待したのだ。最初の講師として白羽の矢を立てたのは、『ナチスのキッチン』『戦争と農業』『トラクターの世界史』『給食の歴史』といったユニークな著作を次々に世に送り出している京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史さん。農の視点から歴史の深層をえぐり出す気鋭の研究者だ。

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白熱した「食と農の哲学ゼミナール」

 2018年の3月末、藤原辰史さんと子どもたちはパルシステムの東京・東新宿にある本部に集まった。組合員への呼びかけに応じて集まった子どもたちは8名。年齢は12歳から18歳までで、小学校の卒業式を終えたばかりの子どもから、大学の入学式を前にしている青年まで広い幅があった。そのなかには、小学生の頃から7年もトマトの育種を続けている「そらくん」(15歳)のような強者もいたが、おかあさんに「行け」と言われたから仕方なくきたという、マクドナルドのフライドポテトが大好きな子どももいた。こうして12歳から18歳の子どもたちと京大准教授との世にも珍しい「ゼミナール」が行なわれた。その結果は期待以上だった。

 藤原さんは座談会を終えてこう書いている。

「参加者の目に野性味が蘇るような、不思議な空気が漂っていました。うまく言葉にできないのですが、みんなの呼吸の速度が徐々に速まり、心臓音が少しずつ高まっていくような古代の祭りのような経験でした」

「座談会のはじめには、先生という役割と生徒という役割をもってその場にいましたが、最後のほうにはそれも崩れ始めてきました。問いの前に人間は平等だからです。知識には差はありますし、経験値も違います。(中略)ただ、問いの前、言うなれば、学問の神様の前ではみなさん当然平等です。脳細胞がどんどん増えていく小学生も脳細胞が死んでいくばかりのおじさんも、真理の前ではもうひれ伏すしかないのです」

 その丁々発止のやりとりの中身はこのたび発行された『食べるとはどういうことか――世界の見方が変わる三つの質問』(農文協)を読んでいただくとして、ここでは、ゼミナールでの議論のひとつの軸となった藤原さんの「人間チューブ論」をご紹介しよう。

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藤原先生の「人間チューブ論」とは

 まず、高校の生物の授業で習った「受精卵の発生」を思い出していただきたい。ウニも人間も元は一個の受精卵だ。それが2個、4個というように分裂することから生物はできていく。そして分裂が終わったあと、表皮にある細胞が中に潜り込んで穴ができる。この原口は将来肛門になる部分だ。まずお尻の穴があいてチューブが通って、口ができる。これこそが人間(生物)のはじまりで、人間の本質はひとつの「チューブ」(管)なのである。

 この「チューブ」は自然界から孤立して存在しているわけではない。そこにまさしく「食べる」という行為がかかわってくる。

 私たち人間は食べもの――牛や魚やワカメなど生きものを殺し、台所で包丁で刻んで、火であぶったり煮たり蒸したりして食べている。胃腸のことを内臓というが、われわれは食べものを口に入れ、咀嚼する前に、台所で「食べる」行為の前哨戦が始まっているのだ。だから台所は体の外にある内臓=「内臓の派出機関」ということができる。

 現代日本では、食べるために動植物を殺すのは、人任せになっていて、普通の人が目にする機会は少ない。「内臓の派出機関」としての台所の役割も著しく縮小している。都会のマンションでは電子レンジで温めるだけでほとんどの料理が事足りるようになってしまった。チューブの口と畑や海が切れているのである。

 肛門のほうはもっと見えにくい。

 昔は肥溜めがあったし、人糞尿を畑にまいたりしていたから、われわれの肛門が田畑につながっていることを否応なく知ることができた。いまはどうだろう。マンションの水洗便所から流された人糞尿は下水管を通って、屎尿処理場に運ばれ、微生物処理を加えられて海に流れ着く。普段の生活の中で、肛門と自然がつながっているという実感を持つことはほとんどない。

 この口と肛門が自然とつながっているという実感をもてるかどうかで、もの見方は大きくちがってくる。藤原さんは言う。

「食べるということ、食べものは、生きているものたちによってにぎわっている世界のなかの、ものすごい大きな循環のなかの一部にすぎない」と。

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ブラックボックス化する食

 この「食と農の哲学ゼミナール」は子どもたちの感性を揺さぶるものだった。参加者のひとり、フライドポテトが大好きなコーセイくん(12歳)はゼミナールの最後にこう語っている。

「食べものを食べるということは何かを殺して食べているということだから、その食べものを残しちゃったりすると、人が殺しておいてその死を無駄にしているということになっちゃうから、そのことを考えてちゃんと食べられるようになりたい」

 藤原さんの投げかけが子どもたちの感性を揺さぶったのは、食べるということを深く問うほどに、人間とは何か、生きるとはどういうことか見えてきたからではないだろうか。この問いはけっしてすぐ答えが出るようなものではないが、だからこそ、それを問い続ける想像力を鍛えることの楽しさを子どもたちが実感したのかもしれない。

 そして、いま「食べるとはどういうことか」を問うことは、けっして自分自身の生き方だけの問題ではない。グローバル時代の食は世界の人々の生き方にもつながっている。自分がどう食べるということが、見知らぬ土地で生きている人々の暮らしのあり方とつながっているからである。

 2018年から発行を開始した農文協の新しい絵本シリーズ『イチからつくる』が問うているのも、私たちの日々の暮らしとつながった「見えない世界」の存在だ。この表紙カバーには次のような言葉が掲げられている。

「わたしたちのくらしになくてはならない、食べものや着るもの、道具の多くは、いまでは、自分でつくらなくても、手にすることができます。そのいっぽうで、それらをだれが、どこで、どのようにしてつくっているのか、とてもみえづらくなっています。そもそもの素材である自然のものから自分のアタマとカラダを使って『イチから』つくってみると、みえづらくなっていたものがみえてきます。日々のくらしを支えている農家の人たちや職人さんの営み、世界の人びとや、歴史とのつながりにも気づかされるでしょう。いまのくらしや生き方をみつめなおすきっかけになるかもしれません」

 たとえば『イチからつくる チョコレート』では、原料であるカカオは熱帯作物でアフリカ、中南米、熱帯アジアで大部分が生産されていることが描かれている。これまでこれらの産地では、豊かな先進国に言われるままにカカオを生産し、自分たちはチョコレートを食べたこともないという状況があった。一方チョコレートを楽しむわれわれ先進国の人間は、西アフリカでカカオを生産するために子どもたちがろくに教育を受ける機会も与えられないままに生産に駆りだされているという現実を知らない。

 あるいは『イチからつくる あめ』には、昔、私たちのおばあちゃんがつくってくれた「麦芽水あめ」とともに、それとはまったくちがった工業的なあめの世界が描かれる。実際のところ、今日の日本ではあめばかりでなく菓子をつくるためのデンプンの多くが、海外から輸入したトウモロコシのデンプン(コーンスターチ)でまかなわれている。あめの原料の水あめやさまざまな糖化製品をつくるために、たくさんのトウモロコシやコーンスターチがアメリカやブラジルなどから輸入されているのである。

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食べることへの想像力を養う消費者教育

 これまでの消費者教育は賢い消費者をどうつくるかという観点からすすめられてきた。食品についていえば、より安く、安全な食品とはどのようなもので、それを手に入れるにはどのような仕組みをつくったらいいかという視点だ。生協運動もそのような方向で発展してきた。そのことは非常に重要であって、そうした消費者教育自体を否定するつもりはまったくない。

 ただ、今日必要なのはこのような「モノとしての食品」のとらえかただけではなく、食品の来し方と行く末をとらえる想像力ではないだろうか。言い換えれば、今日のグローバル化する社会において「チューブとしての人間」の口や肛門を、田んぼや畑(すなわち自然)に再びつなぐことである。

 学校の田んぼで田植えやイネ刈りを教える。ふだんの暮らしのなかで見えないご飯(お米)を「イチからつくる」のは、そのような自分の体(チューブ)と自然との関わりを、体験を通して認識するきっかけをつくることに通ずる。それはまさしく日々を生きるうえで必要な想像力を鍛えることなのである。その想像力とは、自分たちが食べること=排泄することが自然とつながっていること、そして世界の人々や自然ともつながっているという「想像力」にほかならない。子どもたちの多くは将来農業という職業には就かないかもしれないが、未来の農業をどうしていくか、そのために食はどうあるべきかを誤らないための重要な礎を、いまのうちにしっかりとつくっておくことになるであろう。

 田んぼの先生、畑の先生が担っているのは、そのような子どもたちの想像力を育てることなのである。

(農文協論説委員会)

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