「総合的な時間」の総合誌
農文協
食農教育  
農文協食農教育2005年11月号
 

食農教育 No.44 2005年11月号より


陰暦10月に、その年に成長した楮の若枝を収穫している(『紙漉重宝記』より)

教材への切り口 紙

江戸の紙事情

作家 石川 英輔

 江戸時代の日本は「紙使用大国」

 江戸時代の日本が「紙使用大国」だったことは、江戸時代後期に日本へ来た西洋人の記録に、日本人が紙をたくさん使うことに驚く場面がしばしばあるのでわかる。

 あの時代のヨーロッパ人にとって、極東の島国の日本へ来るのは容易なことではなかった。開国前なら長崎の出島に来た人びとだけで、開国後でも、外交官やかなりの金持ちでないと高価な旅費を払いきれなかっただろう。つまり、日本の庶民の紙の使用量の多さは、そういう身分の人が見て、わざわざ書き残したくなるほどだったのだ。

 出島の蘭館付きの医師として来日した医師のフォン・シーボルトもその一人で、文政九年(一八二六)に蘭館長に随行して長崎から江戸へ来る途中、駿河の蒲原で紙漉き場を見せてもらい、素朴な道具だけで紙が簡単にできるのを見てよほど驚いたらしく、日記に「日本人が紙を大量に使うのは、紙がこれほど簡単にできるからだ」と書き残した。

 ヨーロッパでは、十八世紀末から十九世紀初期にかけて、今と同じ原理の連続抄紙機ができていた。シーボルトの来日当時は、すでに蒸気機関で運転する製紙工場が稼働していたが、多額の投資を必要とする製紙工場でできる紙はかなり高価で、庶民が使い捨てるような商品ではなかったのだ。

 開国直後の安政六年に来日した一人に、ギリシャのトロイ遺跡を発掘したシュリーマンがいる。彼の日記の中に、日本人が紙を使って鼻をかみ、一度で捨ててしまうことに驚いている部分がある。シュリーマンは、自費でトロイの発掘をやり通したほどの金持ちだが、ハンカチで鼻をかみ、洗わずに乾かしては何度も使っていた。ヨーロッパでは普通の習慣だったが、「汚い」といって日本人があきれているとも書いた。

 完全な循環型の製紙法

 日本に紙の製造が伝わったのは七世紀はじめだが、かつては貴重品で庶民と縁の薄かった紙が、子どもの絵本やちり紙にまで使えるようになったのは、世の中が平和で安定した江戸時代になってからである。産地も土佐、美濃、越前、若狭、駿河をはじめ全国に広がり、各地で特色のある紙を生産するようになった。

 近代的な製紙は、一〇年以上かけて成長した樹木を伐採して原料にする。林業を基盤とした産業なので、植林を続けないと資源が枯渇するが、日本の伝統的な製紙は農業を基盤とした産業で、同じく製紙とはいってもかなり異質な産業構造だった。

 今では和紙と呼んでいる伝統的な紙は、原料として楮、三叉、鴈皮など成長の早い植物の樹皮を使ったが、紙の大部分、八〇〜九〇%ぐらいは、楮が原料だった。楮は桑科の低木できわめて成長が早く、春に発芽した芽は初冬までに一メートル以上に育つ。その若い枝を切って皮を紙の原料にするのだ。楮の木そのものは畠に植えたままであり、翌年にはまた発芽して枝が成長するから、基本的には一年単位で成長と収穫を繰り返す一種の農業によって原料を供給できるのが、大きな特長だった。

 和紙の製造技術については、書く余裕がないので省略するが、紙の生産に必要な動力は人力だけで、道具もほとんどが木や竹を材料とした製品だった。製品の紙も植物繊維だけでできており、不要になれば、捨てても燃やしても二酸化炭素と水に分解するが、発生した二酸化炭素は、次に楮が成長する段階で完全に吸収される。つまり、伝統的な製紙は、原料から生産までほぼ完全な循環型産業だったのである。

江戸市中を行く紙屑拾い(『四時交加』より)

 紙屑を利用するリサイクル社会

 捨てても燃やしても自然に循環したからといって、昔の人が紙を粗末にしたわけではない。私の子どもの頃は、母に「紙を粗末にすると、死んでから地獄で血の池の上にかけた紙の橋を渡らされる」といい聞かされたものだ。子どもが使う紙だからすべて量産品の安物だったはずだが、昭和初期でも、紙は貴重品だという感覚は濃く残っていたのだ。

 紙はすべて手漉きだった江戸時代は、紙はさらに貴重であり、古紙の回収はちょとした産業になっていた。紙屑買いは、町を巡回して古紙を買い集める商人で、いわばリサイクル産業の第一線に立つ仕事だった。集めた古紙はさらに紙屑問屋が買い取った。

 資金はないが、リサイクル産業に従事したい人は紙屑拾いになった。今のわれわれが考えると、そんなことで生活が成り立つものだろうかと不思議に思うが、江戸時代の絵にはあちこち登場するので、かなり大勢いたようだ。拾うための長い箸と拾った紙を入れる笊を持っているが、気の毒なことに、たいていは犬に吠えられている。

 放っておけば朽ちてしまう紙を拾う職業があり、資源の再利用と町の清掃を同時にやっていたのだから、まさに徹底したリサイクル構造の社会だった。

 今に残る江戸時代の再生紙

 わが国の製紙原料中の古紙の比率は、世界最高の五十数%にも達している。江戸時代の比率はよくわからないが、和紙は洋紙に比べて材料の繊維がはるかに長くて漉き返しが容易だったので、再生紙の製造量は多かったようだ。残念ながら、再生紙は使い捨てのちり紙になる場合が多く資料が残っていないが、一〇年ほど前に、私は、江戸時代の刊行書、いわゆる和本の表紙の芯に大量の再生紙が使われていることに気づいた。

 最初は、たまたまその本だけ再生紙を使っているのだろうと思ったが、念のため自分の蔵書を片端から調べてみたところ、合巻本という小説本の袋綴の表紙は新しい紙を使っているが、分厚いていねいな装丁の本の表紙の芯には再生紙を使っていることがわかった。しかも、厚い表紙用の紙は、何度漉き返したかわからないような、もとの紙の姿をまったく留めないどころか、藁や毛髪まで漉き込んだ灰色の汚い紙が普通なのだ。

 汚いといっても、表面は色のついた化粧紙で飾り、必ずといっていいほど模様を型押ししてあるから、外見はとても綺麗で独特のしなやかさがある。裏も、その本の表題、著者名、版元名などを印刷した見返しの紙を貼って、再生紙の芯は外からまったく見えないので、再生紙であることを確認するためには見返しをはがさなくてはならない。

 上製本の表紙になるような分厚い紙を新しく漉けば、かなり硬い厚紙になる。洋装本のハードカバーなら硬くてもいいが、和綴本では、表紙の紙質が柔軟でないと読みにくいばかりか、型押しもできないため、厚くてもしなやかな再生紙を使っているのだと思う。

 江戸時代の再生紙に関しては、もう一つ面白い発見をした。それは黒紙である。調べているうちに、薄手の表紙に真っ黒な紙を芯に使っている本を何冊か見つけた。子どもが手習いの練習をして、墨で真っ黒になった古紙を原料として漉き返した紙らしい。

 幕末期には江戸だけでも一五〇〇以上の手習塾(寺子屋)があり、大勢の子どもが毎日文字の練習をしていた。子どもの手習いは、一枚の半紙の上に少しずつずらして同じ文字を重ね書きするので、練習用の紙は真っ黒になる。黒い紙はかなり需要があるため、大量にできる手習いの反古紙を原料として製造したのだ。

 江戸時代の人びとは、紙を完全なリサイクル商品として製造し、外国人が驚くほど大量に使う一方で、使い捨てた紙をさらにさまざまな形の再生紙とし、ここまで徹底的に使い抜いたのである。だが、こういう巧妙な生き方からほとんど何も学ぼうとしないどころか、最近でも、昔の人がリサイクルをやったのは自然を大切にしたからでなく、貧しかったから仕方なしにしたのだ、などといいたがる人がいる。

 貧乏だからリサイクルがうまくいくのなら、今でも世界中にある貧しい国ぐにでは、われわれの先祖のように洗練された資源のリサイクルをやっているはずではないか。


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