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農文協トップ主張 1985年10月

「土つくり運動」では土つくりにならない
いま最も理にかなった土つくりとは

目次

◆土つくりで畑が資材の処理場に
◆土つくり運動の中でこわされるもの
◆おばあさんのダイズつくりは菌根菌を生かしていた!
◆近代の常識「施した肥料を作物が吸う」は誤りだった
◆古きに学ぶ新しい施肥、土つくりの常識

土つくりで畑が資材の処理場に

 土つくり運動が各地で盛んだ。

 いつの時代でも、世の中の大勢の意見は強いもので、ついつい自分も大勢の意見と同じように考え込んでしまう。「土が死んでいる」。いま、こんな意見が、農家の外から、ときには中からいわれ出して、すっかり世の中に広がってしまった。だからつい、「病気が出るのは土がいたんでいるからだ」と考えてしまう。「だから、何かの形で土つくりをやらねば」と思ってしまう。

 そんな雰囲気に乗って、いま指導機関や農協がすすめる土つくり運動の二本柱は、深耕と有機物(良質堆肥)の投入だ。大型機械を使って深く耕す、完熟堆肥をつくって畑に入れる、いずれも、ハッキリと目に見える土つくりの象徴である。しかし、この二本柱は全ての人ができるというわけではない。機械はいるし、堆肥材料がいる、手間がかかる。

 そこで、農協の土つくり運動は、もう一つとっつきやすい柱を出している。“土つくり肥料・資材”の投入である。「土つくり肥料」とは、これままで土壌改良資材といわれていたもののうち、石灰窒素、熔リン、苦土重焼リン、ケイカル、アズミン、石灰質肥料など大量に使われるもののことだ。これら“土つくり肥料”と各種の“土壌改良資材”とをつき合わせて“土つくり肥料・資材”と呼び、土つくり運動のもう一つの柱、もっともとっつきやすい柱に据えようというわけである。

 そのために、土壌診断を実施する。土質ごとによい土の基準をつくり、基準にあわせて診断をして、この畑はphが低い、石灰欠乏だ、苦土がたりない、腐植が少ない、と次々と欠陥を明らかにする。そして、“土つくり肥料”投入のメニューをつくって、土つくりの指導をすすめる。

「土が死んでいる」「いたんでいる」といわれ、“土つくり肥料・資材”のメニューが出されれば、よほどのことがなければ、「いらないよ」とはいいにくい。決して安くはないが、「なんといっても肥料である。聞かないことはないだろう」と、つい注文書に手がのびる。“土つくり肥料”を買うことが、土つくりの証明となり、自分の畑の土に対する安心料となってしまう。

 こうして、田畑は、土つくり肥料の処理場になっていく。いま、ハッキリと形にあらわれ、目に見える土つくりとは、熔リンや苦土石灰やケイカルなど資材の大量投入型土づくりになってしまった。

土つくり運動の中でこわされるもの

 土つくりの基本は深耕と完熟堆肥の投入、それができない人はせめて“土つくり肥料”。指導機関や農協がすすめる土つくり運動は手間と金がかかる。それでも、手間と金に見合う効果が確実に出ればいい。ところが、実際は無益、さらには有害な場合も多いのだ。

 深耕は、土の水もちを悪くしたり、干ばつが激しくなったという結果も出ている(二六〇ページ参照)。さらには、水田に施す“土つくり肥料”ケイカルがほとんどの水田で意味がないことは、本誌で追求してきた。熔リンや石灰質肥料が畑土のアルカリ化をすすめ、土の悪化に拍車をかけてきたことも本誌を通じて明らかにしてきた。

 “土つくり肥料”の散布といったハッキリと目に見える土つくりは、目に見えないところで逆に土を悪化させているのである。目に見える土つくり、つまり資材大量投入型の土つくりが盛んになればなるほど、目には見えないところで土がこわれて作物に障害が出る。そこで土壌診断をして、またまた“土つくり肥料・資材”のメニューがつくられる。土つくりが土をこわす悪循環がこうしてできあがる。

 「土つくりは必要だがやっていられない」という人が出るのは、金と手間がかかるだけでなく、効果があいまいなものがあるうえに、土をこわす悪循環への不安がつきまとうからだ。

 しかし、問題はさらに根深い。というのは、土つくり運動がそのように進む中で、農家が一軒一軒でおこなってきた、目に見えない土つくりが、ないがしろにされ、いつの間にか消えていってしまうことだ。

 茨城県のTさんの家には、今も草木灰を入れていた小屋がある。壁と床を土でぬった小屋で、灰置き専用だった。土壁だから火事の心配がないうえに、通気もいいから灰は何年おいても湿気をもたず、使いたいときにいつでも使えた。とくに、二〇年くらい前までタバコを作っていたときには、灰は欠かせなかった。大事なものだから、専用の小屋までつくっていたのだ。

 タバコばかりでなく、灰は使い道が多かった。キャベツに雨露があるうちにかけるとアオムシのつきが少なくなるし、ナスに灰と鶏ふんをしっしょにやると色つきがすばらしくよくなる。ニラに施すとふき出しがいい。だから、Tさんのおばあさんは、今でも自家用の野菜畑には、今度はあっちの畑、次はこっちの畑と、かわりばんこに入れている。そうすると、とくにダイズで効果が明らかだという。葉を食害する虫・コワムシがこなくなるし、何よりも、灰を施しておくと根に根粒がギッシリついて、豆のできがいい。

 Tさんのおばあさんは、畑にときどき灰を施し、タネをまいたり苗を植えつけたりするときには、まき床・植え床に、落ち葉・モミガラに米ヌカまぜて腐熟した土(手肥と呼んでいる)をひと握り入れる。そして、化学肥料はごく少量やる。こうすることで、野菜の育ちも味もグーンとよくなる、とおばあさんは確信している。

 このおばあさんがやっているのは、特別目に見える土つくりではない。施肥でもあり、種まき・定植でもあり、庭そうじ(灰ができ、落葉の腐熟土ができる)でもある。そういう仕事のつながりだから、土つくりとはいえない。しかし、確実に、おいしい野菜を、虫や病気をつけずに作れる畑が、こわれることなく保たれてきているのだ。

 このような、土つくりには見えない土つくりが、資材大量投入型の目に見える土つくりがすすめられる中で、一つ二つと消えていってしまう。このことが、資材多投で土が悪くなるのと同じくらい、いやそれ以上に問題なのだ。

おばあさんのダイズつくりは菌根菌を生かしていた!!

 なぜだろうか。灰とか落葉の腐熟土とか、農家にあって金のかからない土つくり・施肥技術が失われていく。それも一つだ。しかし、そればかりではない。おばあさんの、ハッキリ土つくりとは見えない仕事の中にこそ、現代の最先端の土壌科学の目でみて、もっとも理にかなった施肥・土つくりがあるからだ。

 たとえば、二四一ページ「菌根菌を大切にしよう」の記事をご覧いただきたい。ここで著者の小川真先生は、ほとんどの植物の根には菌根菌が共生して菌根を作っているという。「菌根がつくと、リンやカリやミネラルなどの吸収力が高まり、植物の生長が良くなることや、根の病害がおさえられることがわかってきた」

 ダイズの根に根粒菌が共生し根粒をつくっていることは誰でも知っている。ところが、そればかりでなく、菌根菌というものがくっついて菌根をつくっていたのだ。ダイズは光合成で炭水化物をつくって根に送り根粒菌と菌根菌を養い、根粒菌はリンやカリやミネラルを吸収してダイズと根粒菌に送るというわけである。このようなすばらしい共生関係があるから、植物は少ない施肥量で育つのだ。

 さらに興味深いことには、木炭をごく少量(一%)の肥料とともにダイズに施すと、根粒がよくつき、菌根も多くなった、ふつうに化成肥料を施して育てたのと同じくらいの収量があがったという。また、野菜でも、炭と落葉をポットに入れたものは、菌根が増え効果的だったという。

 これは、Tさんのおばあさんがやるダイズや野菜づくりと同じだ。草木灰を施し、タネまき床や植え床に落葉の腐熟土を入れ、肥料をごく少量施す。それで「ダイズには根粒菌がギッチリと豆がよくとれるようだ」

 小川先生は、おばあさんたちのやり方ではなく、江戸時代の農書『農業全書』(宮崎安貞著、農文協より「日本農書全集」として刊行)から、「万の物をつみ重ねてむしやきにし、其灰をこきこえに合わせて」という記述を引用し、昔から作物と共生する微生物を生かす農業があったことに注目している。そこには、今の施肥・土づくりの一面性と誤りをつく、本来の施肥・土づくりの原型があるからだ。

 どういうことか。小川先生は、灰や炭を施すことは、根と共生する微生物の棲みやすい環境をつくることだという。そして、土に施す有機物などの肥料は微生物のエサである。「施肥」とは微生物の棲み家をつくり、微生物にエサを与えることであった。その結果微生物の活動が盛んになり、作物の養分吸収力が高まる。これが「施肥の効果」であった。

近代の常識「施した肥料を作物が吸う」は誤りだった

 ここには、これまでの施肥の常識とは決定的な違いがある。明治以来、作物に不足する三大肥料成分はチッソ、リンサン、カリであり、これを肥料として与えることが施肥だとされてきた。とくに、化学工業が、その副産物などとしてチッソの化学肥料を作り売りまくるのと合わせて、施したチッソ、リンサン、カリが作物に吸われて、生育をよくし収量があがるという考え方が固まってきた。微生物の力を借りて養分を吸わせるのではなく、肥料成分を直接吸わせるという考え方だ。

 こうして、田畑は、化学工業の副産物や廃棄物同様のものも含めた化学肥料の処理場の様相を呈するようになってしまった。

 ところが、そのような発想での施肥は、右に紹介したような、作物と微生物の共生関係を急速に貧しくする。菌根菌は、化学肥料を多く施すとその活動が衰え菌根が減ってしまう(同様に除草剤や土壌消毒も微生物群を狂わせる)。そして「菌根が消えると作物の養分吸収力が落ちるので、いきおい施肥量をふやすことになる」

 化学肥料が硫安や過リン酸石灰などの単肥から、三要素を含んだ低度化成へ、さらにはより高濃度の三要素を含む高度化成へ、微量要素入り化成、有機入り化成へと進みながら、施肥量が急激にふえてきたのは、土の中の根と微生物の関係の悪化による養分吸収力の低下が背景にある。その悪化に乗じて、肥料メーカーは次々と高値・高濃度の肥料をつくり、農協をはじめとする業者が積極的にそれを販売してきたのだった。

 その方向をつき進めば進むほど、土と根と微生物の関係は悪くなる。土壌病虫害かふえる。天候異変に弱くなる。このような中で、クローズアップされたのが土つくり運動だ。しかし、その土つくりも、実際には熔リンや苦土石灰やケイカルを入れる資材大量投入型の土つくりであり、逆に、微生物との共生関係を狂わせ土の悪化を強めている場合が多いのだ。

 そしていま、有機入り化成の使用も含めて有機物の投入の必要性が叫ばれているが、これも根本的な発想は同じだ。つまり、作物が吸うのは肥料として施したチッソ、リンサン、カリであるという発想。それらを安定的に土に保持させて吸収できるようにするために、有機物・腐植が必要だという考え。つまり、化学肥料を大量にぶち込める器を大きくすることを目的とした有機物投入である。

 作物の根と微生物の関係による養分吸収力を衰えさせておいての多肥化、その矛盾の上ぬりをするための有機物投入であり、また各種“土つくり肥料・資材”の投入である。農家の多くが「必要だがとりくめない」というのは、今の土づくりが、このような悪循環の上に立ったものだからだ。

古きに学ぶ新しい施肥・土つくりの常識

 いまや、肥料として施したチッソ、リンサン、カリが作物に吸われて生育がよくなる、という考え方を根本から見直さなければならない。科学の最先端がそのことを解明している。そして、江戸時代の伝統的「施肥・土つくり」や、おばあさんの野菜つくりの仕事の合理性を裏づけている。

 事実、ここ一〇年くらいの間土づくりが叫ばれる中で、確実により多くの農家の田畑で効果を上げた「土つくり」とは、高度化成を低度化成さらには単肥にかえ、同時に化学肥料の施用量を減らしていくことだった。化学肥料減らしこそ、作物の安定生産につながったのである。化学肥料を単肥にかえ量を減らすことが、目にこそ見えないが、土と根の生き生きした関係、根と微生物の共存関係をよみがえらせたと考えることができる。土つくりとは、こういうことをいうのである。

 本誌二五〇ページで三枝敏郎先生は、一〇aの畑の土には、なんと一tの微小生物が住んでいるという驚くべき事実を紹介している。センチュウ三〇〇kg、カビ二〇〇kg、細菌三〇〇kg、ミミズ二〇kg、他の微小生物二〇〇kg。しかもこの数字は比較的やせた畑のことで、下草のよく育っている果樹園などではこの二倍以上の量がふつうにいるという。一平方mの地表数cmのところにいるセンチュウの数は二〇〇〇万から一億、この数や種類が多いほど作物の生育にとってもいい土であるという(センチュウを害虫に仕立て上げたのは多肥など人間のなせる技だ!)。

 土の中で根とともにある生物は、根粒菌や菌根菌だけではない。土にひしめくセンチュウ、カビ、細菌、小動物が、生きた状態であるいは死がいとなって、作物の根、その養分吸収活動と関係し合っているのだ。

その関係は科学的に解明し尽されてはいない。しかし、これら地中の生物の棲み家をととのえ、望ましいエサを与える、それに有害なものは施さないという、江戸時代の農書にあらわれ、今でもおばあさんが自家用野菜に施しているやり方こそ、より長い目で見て安定性のある土つくりだといってよいだろう。そのような土つくりは、科学的な施肥と土つくりの圧倒的な潮流の中でも、破壊されずに残ってきている。今月号で特集した「民間施肥技術」とは、その潮流に対する意識的抵抗である。さらに各地域・各農家の中には、土つくりだと意識されない形で、多様に残っている。

 土つくりとは、その家の作物、有機質の素材、家族の働き手、時間や季節の流れなどなどによって、実に多彩である。多種多様ないろいろな仕事として組み合わせられるものである。そこに、その家の土の特徴、微生物の種類や繁殖の特徴、つまり家風とならんで大切な土風といったものがつくられる。これが、生物の生きる場としての土をつくる、本当の土づくりだ。

 化学肥料の施肥量を減らすことと合わせて、おばあさんの仕事に見られるような、各地域、各家で独自な土つくりを行なうことこそ、最先端の土つくりなのである。

(農文協論説委員会)

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