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農文協トップ主張 1986年07月

いまこそ、米価値上げをするときだ
「現代農業」は、はじめてそれを主張する

目次

◆生産者米価値下げ論が次々打ち出されるが
◆米価はそのときどきの政策できまる
◆今年こそ値上げ政策をとるべきだ

生産者米価引き下げ論が次々打ち出されるが

 米価の季節に入って、今年はとくに、生産者米価引き下げ論が盛んだ。例えば、読売新聞の五月三十一日社説は、

「生産者米価算定にあたって、重要な米の生産費は物価、賃金の安定、低金利を反映して前年比マイナスになるのは必至とみられる。従って経済的には米価を引下げることが筋である」と主張する。

 どういうわけかこの社説は算定が「前年比マイナスになるのは必至」である理由に、昨年、一昨年と二年つづいた豊作をあげていない。同じ生産費をかけても、天候次第で収量はかわるから、豊作なら単位生産量当たりの生産費が下がるのは当たりまえで、それが今年の算定を「前年比マイナス」にさせる一つの大きな要因になるのだが、社説はそれにふれていない。

 豊作のときに、計算上単位生産量当たりの生産費が下がるのは当たりまえだが、同じように、不作ならば上がるのも当たりまえである。政府は五十五年以来の四年つづきの不作のときには算定方式を巧妙にあやつって、生産費の上昇が試算米価にあまり反映しないようにした。不作を反映させず豊作は反映させるというおかしさを目立たせないようにという配慮のようにもとれる。

 それはともかく、いずれにしろこの社説は、米価をめぐる「厳しい事情」として、「米の構造的な供給過剰」、「国際的な格差の拡大」、「厳しい国家財政」などをあげ、積極的に米価引下げを支持している。

 一方、朝日新聞は、このところ、米価値上げの要求はしないという風に傾いている全国農協中央会の姿勢について、五月二十日のコラムでつぎのようにいう。「農協側が例年通りの引下げ要求を出してくれれば、農水省も開き直って相当の引下げをして見せられる。しかし、『据え置き』要求が出てくると、受けて立たないわけにはいかなくなる」

 農協の戦術に一定の効果があるとみているわけである。

 こうした文面を読みつづけていると、引下げ止むなし、せめて据置きを……というふうに、思い込みやすい。

 果たしてそうだろうか。

米価はそのときどきの政策できまる

 まず、単純明快なことを確認しておこう。

 第二次減反が始まる前年の、五十二年の生産者米価と六十年のそれとを比べてみる。

 五十二年の生産者米価は一万七二三二円、六十年の米価は一万八六六八円。九年でわずか一四三六円のアップ、率にして八・三%。年平均にするとたった一五九円である。

 この間、米の生産費は四〇%のアップ。生産費のなかの<物財費>をみると、五十二年五万七二二〇円から五十八年の八万五八九八円へと、五〇%ものアップだ。消費者物価も三〇%上昇している。

 八%対四%。これでは生産費と所得を補償するもくそもあったものではない。

 つまり、生産費所得補償方式という方式は形がい化していて、そのときどきの政治判断で米価は決まるのだ。

 ところで生産者米価の算定に生産費所得補償方式が採用されたのは昭和三十五年である。高度経済成長の政策が全面的に展開されはじめた年だ。

 この年から四十二年(米の「過剰」がいわれはじめてきたころ)までの八年間に、生産者米価は八七%アップした。高度経済成長のなかで、消費者物価も労賃も上昇し、米価がそれを追いかけたのだから当然だともいえるが、これは生産費所得補償方式の理念が正常に働いていたことを意味する。

 すなわち、三十五年に対して四十二年の消費者物価の上昇率は四六%、賃金の上昇率は一〇四%、物価に比べれば米価の上昇率は高く、賃金に比べれば低く、ほぼその中間にある。生産費に相当するものが物価であり、所得補償に相当するものが賃金であって、その両者がうまい具合にミックスされたという考え方もある。

 しかしながら、この時期の米価引上げも、政策であったことにかわりはない。三十九年からの米不足状態のなかで、米価を引上げないわけにはいかなかったし、なにより、高度成長の前提である国内需要の喚起のためにこそ、米価を上げることが必要だったのである。米作農民に生産費と所得を補償することが、ときの政策にかなっていただけのことである。

 このように、米価はそのときどきの政治判断で決まる。

 ところでこの政治判断には二つの型がある。一つは米価の算定方式をいじるやり方。もう一つは米審の答申が出たあと、さらに政府が政治的判断をするやり方。“政治米価だ”とマスコミが政治をやり玉にあげる、あれだ。

 前者はどちらかというと上げないように上げないようにと働く力だ。政府の意志の反映である。後者は少しは上げなければというふうに働く政治-というよりも政治の力の反映だ。

 マスコミは後者を“政治米価”というけれども、それならば前者はまちがいなく政策米価である。生産費・所得を補償しようという食管の大義を第一義とした米価ではない。

 米価が政策的、政治的判断できまるのは、誰がどういおうと、客観的事実。問題はどのような政策的、政治的判断が働くかにある。

今年こそ値上げ政策をとるべきだ

 以上を前提として、今年の米価をどう考えるか。

 われわれは引き下げにも据置きにもくみしない。読売新聞のいう「供給過剰」「国際的な格差の拡大」「厳しい財政」などの「厳しい事情」があってもなお、今年の生産者米価は値上げしなければならない。それが、正当な政策米価であると考える。

『現代農業』はこれまで米価のあり方については一度も主張しなかった。米価が日本経済の基本問題ではないと考えていたからだ。しかし今年は主張する。米価は値上げすべきだ-と。

 理由は二つある。

 第一に、農家の暮らしの側から-。

 全般的にいま、農家は負債にあえいでいる。北海道の酪農地帯にそれが顕著にみられることは、多くの論者が指摘するところだが、この傾向は四十年代の激しいインフレのもとで規模拡大にふみきった農家全般にみられることである。五十年代に入り、インフレによる借金の目減り効果がなくなり、一方で農産物価格が低迷をつづけ、さらに資材依存度の上昇によるコスト高が慢性化する。そうしたなかで負債の圧迫が一気に噴出してきたのである。

 ここに、専業農家の苦境がある。

 一方で、兼業農家も苦境に陥っている。もともと、兼業農家は恒常的な勤務であっても賃金は安い。したがって、農外収入に農業収入を加えることで家計をなりたたせているのである。農外収入が、あるいは農業収入が、どちらか一方のオマケであるわけではなく、合算してはじめて家計がなりたつ。

 農外の賃金はあがらず、農業の収入もあがらないとなれば、兼業農家の家計もまた苦しい。

 円高の影響で地方の下請産業や特産的輸出産業が不況となれば、これは一層普遍的な傾向になってくる。

 こうしたなかで、専業農家も兼業農家も、この打ちつづく据置き的米価によくガマンしてきた。農内、農外の収入増、あるいは経費の節減によく努力してきた。しかし、もう限度である。今年あたりが限度である。ここで米価引下げをするようなことがあれば、農家の家計を破錠にみちびくことになるだろう。

 国税庁の発表したこの三月の確定申告の状況によると、税金を払えた農家が、五年ぶりに減ったという。人数にして三一万五〇〇〇人(五・八%)、納税額にして三一二億円(二・九%)も減っている。野菜や果樹などに収入金課税が導入され、野菜農家や果樹農家が増税になっているなかでのことだ。

 税金も払えない農家がふえた。それで政治が、うまく機能していることになるのだろうか。政策がうまくいっているといえるのだろうか。

 第二に、あえて政策的な視点から-。

 政府は、内需の拡大をいう。

 内需の拡大をいうのならば、地方経済を活性化させることが考えられなければなるまい。五十年代の低成長に五十五年来の不作が重なって地方経済は冷えきっている。そうしたなかで巨大都市だけが活性化するわけはない。かりにそうなれば、多くの社会問題が発生する。地方経済が小ぢんまりと成り立っていることで、全体経済がうまくいくという構造が、高度経済成長以来、ずっとつづいてきた。低成長になってもそれはつづいた。

 しかし、円高傾向が定着しはじめている今といういま、地方経済を活性化させなければ、この“小ぢんまり”ももたないというところまできてしまった。

 地方経済を活発にさせる一つの方法として、生産者米価の引上げは有効な方法である。生産者米価を引上げても巨大都市の景気には何の影響もないだろう。だが、米価の引上げ(総じて農産物価格低迷の打破)は、直接に地方経済を生きかえらせる。

 そのような政策的な観点は、いまだかつて一度も検討されたことはない。

 ことしは選挙の年だ。

 そして、生産者米価が決まる前に投票が行なわれる。この本が、お手元に届くころは、選挙戦まっさかりだろう。米価についても集会や演説会で、候補者が口にするだろう。

 その際、「ことしは米価を上げる状況ではない。ガマンしてほしい」とか、「まかせてくれ、わるいようにしないから」という話になったら、どうかこの一文を思い出してほしい。

(農文協論説委員会)

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