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農文協トップ主張 1987年06月

地域にカネと仕事を呼びこむ農協の減農薬運動
福岡市農協の実践

目次

◆減農薬運動を地域運動に発展させた農協
◆減農薬は農協経営を安定させる
◆農協への不信をとり払った減農薬のとり組み
◆減農薬が地域の仕事を豊かにした
◆営農指導、試験研究の仕事も問われる
◆新しい農家と消費者の提携の原理
◆農協がカネとモノの流を変えるとき仕事が変わり地域が変わる

 これまで反当一万二〇〇〇円かかっていたイネの農薬代が、五〇〇〇円に減ったとしよう。その差の七〇〇〇円、農家の手どりがふえる。一町歩なら七万円、イネの面積が二〇〇〇町歩の地域なら、農家全体で一億四〇〇〇万円ものお金が浮き、農家を潤すことになる。

 この数字、フィクションではない。農薬を減らした分だけ収量が落ちたわけでもない。減農薬運動を進める福岡市で実際におきている話なのである。

 さて、減農薬のとり組みで農家は得したが、農協はどうなのだろうか。単純に考えれば農薬が売れなくなった分、収益は減る。だが、それでも福岡市農協は減農薬運動を栽培面でも流通面でも大いに援助している。

 それはなぜなのか。

 そのことを通して、農家も農協もよくなる道、地域が活性化する道を考えてみたい。

減農薬運動を地域運動に発展させた農協

 「ムダな防除が多いのではないか」という農家の発言と、それにショックをうけた普及員の出会いから、この減農薬運動がはじまった。どこにどういうムダがあるかを確かめるための農家と普及員による実験、そして虫見板という強力な武器を得て、この運動は具体化した。その成果を防除指導の内容に反映させることによって、この運動は地域全体に広がった。そのコメを減農薬米として農協→生協ルートで売ることを通して、この運動は消費者をまき込む地域運動となった。

 減農薬運動の中で果たした農協の役割は決して小さくない。農薬を減らそうという農家と、宇根豊さんという情熱あふれる普及員がこの運動をリードしてきたことは確かだが、それでも農協の援助がなかったなら、まだ一部の先進的な動きにとどまっていたかもしれない。

 農協は何をしたか。

 まず第一に、防除暦の農薬散布回数を減らすことに協力した。昭和五十五年には一五回だった基幹防除回数が現在では四回まで減った。

 第二に、農協は減農薬を進めるべく虫見板を各戸に配布し、その勉強会を普及所とともに組織した。

 そして第三に、農協は減農薬米を生協ルートで売る道をひらき、二類のコメでも自主流通米として売れるような販売戦略を確立した。

 農協の組織力が、減農薬運動を側面から支えているのである。

 それでは、減農薬にとり組むことは農協にとってどんなプラスがあるのだろうか。

 見えやすいのはむしろマイナス面である。

 冒頭に述べたように、減農薬によって農家全体の手どりは一億四〇〇〇万円ふえるが、農協の売り上げはその分減る。購買手数料一割、すべての農家が農協から農薬を買っているとすれば一四〇〇万円の減益だ。

 農協もひとつの経営体である。経営である以上金を稼がなければならない。いくら農家に喜ばれるようなことでも、それで農協経営が悪化するようであれば取り組むことはできない。

 減農薬運動は農協経営にどのような波及効果をもたらしたか。

減農薬は農協経営を安定させる

 まず信用事業、共済事業との関連を考えてみよう。

 よきにしろあしきにしろ、信用、共済事業で収益を上げ経営を維持しているのが多くの農協の姿である。この傾向は都市農協ほど強い。福岡市農協(正組合員六八九七名、準組合員六八七三名)のばあい、六十年度業務報告によると、信用事業の純利益は八億四〇〇〇万、共済事業は二億六〇〇〇万の黒字になっている。一方、購買、販売のほうはそれぞれ二億六〇〇〇万、一億六〇〇〇万の赤字だ。貯金の期末残額は九七二億円で、五十五年より二七四億円、約四割、ふえている。

 減農薬による農家の手どり増の分が、貯金額の増加に果たした割合は、額からみれば多くはない。毎年一億円が貯金にまわるとしても五年間で五億円である。だが、それは確実に農協経営にプラスに作用する。

 だが、購買のほうはそうはいかない。購買手数料をとったとしても、人件費や資材管理費などにとられて、なかなかもうからないのである。購買事業費がふえてもそれが丸丸プラスにはならないというのが、多くの農協の実態ではないか。信用事業に利益を依存する農協の実情に、減資材、手どり増という減農薬運動はうまくかみ合っていると思うのだが、いかがだろうか。

 もちろん農協の経営体質が信用事業本位になることをよしとするわけではない。ただ、農家が必要としていない資材をムリに売るより、その分農家にもうけてもらい、貯金をふやしたほうが、農家も農協も助かるのではないかということである。

 大事なことは農協管内からでる金が減り、農家の手どりがふえ、地域が潤うことである。

 減農薬運動で農家は一億四〇〇〇万もうかった。農協は一四〇〇万損した。その差一億二六〇〇万、地域としてはもうかったことになる。もし、減農薬がなかったら、その一億二六〇〇万円は地域から外へでていってしまう。

 農協としても結局のところ、地域の中から金を集めるしかない。地域からのお金の流出をおさえることは、農家、農協ともに得することであるはずだ。

農協への不信をとり払った減農薬のとり組み

 そして何より大きいのは、減農薬運動によって農協に対する農家の信頼が回復するということである。

 金融自由化が日程にのぼり、一般の金融機関と競争しなければならなくなる農協にとって、農家を農協にどうつないでおくかは死活の問題である。そのためには農家に信頼され、あてにされる農協でなければならない。「われらが農協」であればこそ、農家は農協から資材を買い、お金を預けるのである。貯金、貯金とお金を集めまわるだけでは限界がある。農家に信頼される農協ならお金は自ずと集まる。

 その点で、農薬という資材を減らす運動をすすめた意味は大きい。農協はいつも資材を売り込み、金を使わせようとばかりしているのではないか、そんな不信感をもっている農家は多い。心あたりはないだろうか。減農薬運動はそうした不信感をとり払ううえで大きな力があった。そして、農家がイネつくりにむかう新たな意欲を引きだした。減農薬運動のなかでイネつくりへの情熱は高まり、市農協の普通作(イナ作)研究会の数は五十九年の一八四から六十二年の五〇六へと急増している。

 イネだけではない。農協への結集は野菜でもみられ、野菜の農協共販率も五十六年の五七%から六十一年には七三%まで高まっている。

 都市近郊の農協で生産活動の活性化が、それもイネを中心としておきているのである。農家が田に出向く楽しさをとりもどそうとし、農協がそれを励ますとき、農協への信頼は格段に高まる。

減農薬が地域の仕事を豊かにした

 地域づくりの一つの柱は仕事づくりである。

 減農薬運動は地域における仕事づくりの運動でもある。

 農家にとって減農薬運動は単なるコストダウンや省力化のための運動なのではない。農薬散布そのものは減るが、田まわりに努め虫見板で虫の数を調べるという仕事がふえる。虫見板をもって田まわりをするなかで、クモがウンカを食べていたり、農薬をかけるとかえって害虫がふえるといった発見がある。今まで見えなかった田んぼやイネの姿が見えてくる。イネつくりが楽しくなってくる。減農薬は田まわりという仕事をつくりだすことによって、一億四〇〇〇万円也のお金を生みだしたのである。天から降ってわいたお金なのではない。

 農協も新たな仕事をつくりだした。減農薬の営農指導、消費者との交流会などいろんな仕事がふえた。それは地域から信頼される農協をつくる仕事であり、自らの経営基盤を強化する仕事である。

 農協が減農薬運動にとり組む動機の一つとして高齢者問題があった。高齢化が進むなかで、お年寄りにいつまでもイネをつくってもらいたい。それには農薬散布の少ないイネつくりがいい。農薬散布は苦手だが田まわりは好きなお年寄りにとって、減農薬のイネつくりはピッタリなのである。

 減農薬はお年寄りの仕事をつくる。

営農指導、試験研究の仕事も問われる

 減農薬運動はまた普及員の仕事をつくる運動でもあった。普及員の宇根豊さんは、防除暦や普及員の防除指導が農家のイネや田を見る目をくもらせムダな散布を招いている元凶であると自戒も含めて告発し、運動を進めていった。宇根さんの著書『減農薬のイネつくり』(農文協刊)に、つぎのような一文がある。

「百姓の体験を理論化することが、私たち普及員の仕事だと思います。それは『科学』によってだけでは決してできないのです。百姓の知恵が『科学』をとりこんでしまうほど深まり、豊かになることをねがってこの本を書きました」。

 普及事業が行政の下請け的仕事になり、行革の下でその存亡が問われているなかで、宇根さんは確固たる普及員の仕事を見い出したのである。宇根さんはいう。「私にとっては普及員という存在を問わずして、百姓のことは一言も語れません」。と

 減農薬運動は試験場の仕事にも影響を与える。象徴的な一例であるが、減農薬運動のなかでツマグロヨコバイの保毒虫率というのが問題になった。ツマグロはイネを吸汁するとき、イネにイシュク病をおこすウイルスを伝播する。このウイルスをもっている虫の割合を保毒虫率というのだが、実はここ数年間保毒虫率は大きく下がっていたのである。去年のばあい、福岡県の平均でわずか〇・一%、被害がでるような数字ではない。福岡市の防除暦からはさっそくツマグロに対する農薬散布がはずされたが、それにしてもこれまで相当のムダをしていたことになる。ツマグロへの散布を反当一〇〇〇円(二回散布)とすれば、福岡県全体では六億円強もの額になる。

 福岡農試では保毒虫率の一連のデータをもっていたが、現場では生かされてこなかった。ここには複雑な事情がからんでいるだろうが、試験研究のあり方が問われる問題であった。逆に減農薬運動は、貴重なデータをまさに貴重なものとして現場に生かしたのだから、それは試験研究の価値を高め、仕事づくりに貢献したともいえよう。

新しい農家と消費者の提携の原理

 最後に地元消費者はどうか。

 減農薬米の購入をすすめている生協の主婦は、減農薬米の試食会のときにこう話した。

「決してコシヒカリでなければいけないなんて、思ってもいません」

「三等米でも引きとりたいぐらいです」と。

 消費者の一方的押しつけで減農薬米ができたのではない。農家が自分のために減農薬のイネつくりにとり組み、そのコメが消費者に届けられるのである。その量は六十年で七五〇〇俵までになった。

 農家(農協)と消費者(生協)の話合いのなかで、減農薬米についてつぎのような申し合わせがなされている。

 (1)品種は百姓にまかせる

 (2)価格は話合いで決める

 (3)品質は天候にまかせる(二等米まで買い上げる)

 (4)農薬散布は減農薬の運動を尊重する(無農薬の押しつけではない)

 ここに、農家と消費者の提携のしかたの原理をみることができる。消費者が求める規格化した商品(「無農薬作物」も今や、その一種になりつつある)を、農家がつくるのではない。その逆だ。農家が自分の都合もあわせて、田畑の条件にあわせて、地域の自然を生かしてつくったものを消費者が食べるのである。それは単なる産直ではない。地元のものを地元で食べるという大道をひらく運動の一環なのである。

 そのとき消費者に、新たな仕事が生まれる。自分の台所仕事を豊かにすることだ。地元のコメや野菜を、そのもち味を生かして食べるという台所仕事が主婦をまちうける。

農協がカネとモノの流れを変えるとき仕事が変わり地域が変わる

 減農薬運動は地域づくりに重要な着想を与えてくれた。

 まず第一に、減農薬運動はカネの流れを変えた。外にでていくカネを地域内にむけさせた。

 第二にモノの流れを変えた。外部から入ってくる資材を減らし、内部でつくられた農産物を地域内に流通させた。

 そして第三に、カネとモノの流れを変えるなかで、地域の仕事を豊かにした。

 カネ、モノ、仕事、このありようを暮らしの論理から見すえ変えていくことなしに、自立的な地域づくりはできない。

 この地域づくりにとって農協は要としての役割を果たした。その力はどこの農協にもある。なぜなら、地域のカネとモノを動かす巨大な力を農協はもっているからだ。購買も販売も信用事業もやれる農協だからこその力がそこにはある。

 その力でカネとモノの流れを変え、多様で豊かな仕事をつくりだそうとするとき、地域は変わる。

 ハイテク産業の地方誘致も、生産性の高い少数の企業的農家づくりも、決して地域を活性化させることはできない。なぜなら、それは地域の衰弱を招いてきたこれまでのカネとモノの流れをなんら変えることなく、むしろ助長するからである。 

(農文協論説委員会)

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