主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食農ネット 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 1987年11月

中央型付加価値から地域型付加価値へ
農業にとって付加価値とは何か

目次

◆窮余の策、付加価値農業
◆中央志向の付加価値づくりでは痛手をこうむる
◆付加価値の源泉は「自然価値」
◆自然一般でなく地域独自の自然
◆暮らしが地域自然をつくる
◆地域地域で最も付加価値の高い生活を

窮余の策付加価値農業

 ある業種の不況感が増してくると、付加価値型産業への転換ということが叫ばれる。もっと付加価値の高い、すなわち高く売れて身入りの大きい仕事への転換である。

 いま、わが国では、円高や貿易摩擦のもとで、不況業種が急増し、そこからの脱出のために、やれ先端的コンピュータ産業だ、バイテク産業だと、多くの企業が付加価値の高い仕事探しにやっきになっている。

 そして、農業・農村でも、付加価値なる言葉が、これからの地域づくりの代名詞のごとく用いられている。一村一品運動、一・五次産業、差別化農産物、植物工場などなど、いずれも地域農業を高付加価値型に変えていこうというねらいを、少なからずもっている。

 さて、この付加価値とは、一〇〇円でしか売れないものを、何らかの手をかけて一二〇円で売れるようにするといった意味あいであるが、冒頭で述べたように、付加価値が取り沙汰されるのは、どうしようもない不況の局面であることに注意を要する。農業・農村の場合、米価の据えおき、そしてついに値下げ、減反強化に代表されるように、あらゆる作目の価格引き下げ、輸入農産物急増による収益性の低下が背景にあってのことだ。

 つまり、政策的に農業・農村の経済性が悪化させられる中で、それへの対応として、高付加価値農業や一・五次産業が叫ばれるのである。だから、一〇〇円の農産物に二〇円の付加価値をつけて一二〇円にするというよりは、一〇〇円で売れていたものが、八〇円に切り下げられて、そのうめ合わせに、何らかの手をかけなければならない、二〇円の付加価値をつけなければやっていけない、あるいは同じ元手をかけて一〇〇円で売れるものを探さないといけない――これが、現在の高付加価値農業の実態である。

 そして、高付加価値農業をどこの地域も目ざすとなれば、やがて同じような産物が殺到し、あるいはよほど魅力があれば企業がその市場にのり込んできて、価格は一〇〇円が八〇円、六〇円と低落していく。付加価値をつけるために投入した労力や資金のムダ、大きな出血というハメになってしまうことが少なくない。高付加価値農業、一・五次産業は、国や大企業による国内農業・農村の圧迫、破壊政策が大前提としてあっての、大出血の危険をはらんだ窮余の策、という面のあることをしかとおさえておかなければならない。

中央志向の付加価値づくりでは痛手をこうむる

 私たちは、この不況時代にあって、一〇〇円のものを八〇円に切り下げることを唯々諾々として受け入れ、その埋め合わせに二〇円の付加価値をつけるといった、「値下げ→価値上《うわ》のせ」式の付加価値づくりではなく、もともと一〇〇円のものは一〇〇円で売る、さらには一二〇円で売るといった、「価値を確実に実現する」付加価値づくりを目指さなければならない。

 これまでの農産物の価格安定への努力は、多くの場合、前者の「値下げ→価値上のせ」式の取組みだった。その特徴は、一言でいえば、「中央志向型付加価値づくり」である。中央、つまり都市、とりわけ流通業者が、「これなら高く売れる」と望む方向での付加価値努力だった。

 これに対して、「価値を確実に実現する」付加価値づくりとは、中央志向でなく、「地域型付加価値」づくりである。いま、中央志向型付加価値づくりから、地域型付加価値づくりへの転換が必要な時代に入っている。

 中央志向型の付加価値づくりの、もっともわかりやすい例が、野菜の出荷にあたっての、何段階もの規格・選別だ。選別して高く売るのも、できた野菜への「価値の上のせ」、一種の付加価値づくりであり、選別作業は付加価値労働である。

 ところが、選別の結果、高く売れるのはごく一部にすぎない。曲がりキュウリを選別して、まっすぐなものをそろえれば、その分は高く売れる。しかし、他の多くのキュウリは安く買いたたかれる。生産したキュウリ全体としてみれば、選別によって高く売れることはない。むしろ、実質的値下げである。

 流通業者は一部を高く、多くを安く買って、売るときには全体を高めに売るのだから、選別という農家の付加価値労働によって潤うのは流通業者である。そしてこのことは、消費者にとっても、決して得にはならない。

またいっぽう、いま全国各地で取り組まれている、“ふるさとの味”“おふくろの味”。農産加工は、農村の付加価値型産業の代表のようなものである。しかし、これも、中央志向、流通志向ですすめれば、年中まとまった量の供給、形や品質の不変性など、外部からの要求が強くなる。加工部門が一人歩きを始める。競争が強まれば、より安価でそろった原料の確保、年中切れめない原料供給が必要になり、他産地産あるいは外国産のものの利用にいきかねない。地域の原料生産(農家)が足手まといになってしまわないという保証はない。

 曲がりキュウリを出さずまっすぐに育てるのにも、規格にあった「高品質」野菜を育てるのにも、安い加工原料を生産するのにも、中央、流通業者の求める方向での付加価値づくりは、農家にムリが重なる。肥料や農薬、高価な土壌改良資材の多投で経営的なムリ、同時に土が悪化するなど生産基盤のムリ、見返りの少ない付加価値労働をしいられる家族の体のムリ。経済(農家)、自然(土地)、人間(家族の体)の痛みが、不況時代にあっては、とくに急速に拡大する。自然と人間の痛みは、長期的な地域農業の安定を危うくする。

付加価値の源泉は「自然価値」

 「価値の上のせ」式な付加価値づくりは、地域の農産物に対して、中央志向の付加価値をつけるということである。それは、地域農産物が本来もつ地域性を、中央の、流通業者の意向に合わせて、ねじまげることにほかならない。その努力が逆作用をして、地域農業のもとのもとにある自然と人間を痛めつける。

 この方向に対して、「地域型付加価値」づくりの提案は、地域農産物の地域性を生き生きと発揮せしめよ、ということである。「価値の上のせ」ではなく、農産物の地域性そのものの中に価値が内在している。その価値を実現するための、売り方があり、農産加工である。

 山形県羽黒町農協は、新たな特産物づくりにあたり何はともあれ、羽黒町産であることを示すマーク(商標)をつけることからスタートした(五八ページ)。そこには、地域性への徹底した居直りと確信がある。

 ここから、地域産物を生かすことへのこだわりが生じる。庄内柿・平核無は名産として知られた渋柿であるが、名産品にも傷もの、余りものはつきものである。この傷ものを、いま注目されている健康飲料・柿酢にすることを考えた。そして柿酢と、やはり地域の古くからの特産である羽黒ナス、赤カブを組み合わせて、羽黒ナスの柿酢漬、羽黒カブの柿酢漬を生み出した。

 羽黒ナスの柿酢漬は、羽黒町でしかつくれない。消費者の健康志向と、一夜漬けのさわやかさとが結びついて、製造が注文に追いつかないほどの評判だというが、これは、「価値の上のせ」式付加価値づくりの結果ではなく、地域産物本来の価値の掘り起こしの結果である。それはどういうことか。

 第一に、庄内柿も羽黒ナス・カブも、羽黒町の自然にもっとも適したものとして、長年月、羽黒町の自然を生かす形でつくり続けられ、その中で、味、色、口あたりなどの品質や収量性が培われてきたものだ。他の地方で全く同じものはつくれない。羽黒町の自然と、自然を生かす伝統を背負って、そこにある。

「地域型付加価値」の原点は、その地域の自然が確実に刻印されているという、「自然価値」である。

 第二に、自然を背負って生産される農産物には必ず余りものや傷ものが出る。名産品にしてもしかりである。これをどう生かすかが食生活の知恵であり、そこまで含めて農業である。地域でとれるものを、余れば余ったなりにおいしく食べる工夫をする、これが地域型食生活の伝統である。この伝統的営みの作用を受けて、地域産物は初めて全体としての価値の実現につながる。

 第三に地域の自然を地域でよりよく食べるという伝統は、食品としてより価値の高い“産物と産物との結合”を実現してきた。食生活は、決して単品を単品として食べることでは成立しない。食べる人の体の要求や、好みなどによりよく応えるために、いくつかの食品を組み合わせることによって豊かな食事が成り立つ。地域独自な組合わせが、消費者の食べものの再評価・発見につながり、単品であるよりも地域産物の真価の実現に近づくのである。

 柿酢漬は、柿の糖分がアルコール発酵をして、次に酢酸発酵をする。このような微生物の働きを取り込んだ食品と食品との組合わせである。組み合わせる過程において、自然(微生物、気象)の働きを食品の中に引っ張り込む。本物の健康食とは、このような過程を通じて生まれるものである。「健康食○○」ブームが去ったあと、切実に求められているのは、地域自然を結集した「地域型健康食」である。

「羽黒ナスの柿酢漬」は、一袋に指頭大の小ナス二〇個ほどが柿酢につかった状態で、首都圏のスーパーで一九八円で売られている。

自然一般でなく地域独自の自然

 「地域型付加価値」とは、地域の「自然価値」、自然を豊かに生活に取り込む「伝統価値」によって実現する。いま消費者の中にある自然志向、田舎ブーム、地域ブランド志向とは、根深いところでは、そのような自然価値、伝統価値との交流への欲求があるはずである。

 そもそも自然や伝統を経済価値におきかえること、経済評価をすることは困難であるが、時代は、確実に、自然や自然を生かす伝統の中に価値を見出す、金を払う方向に動いている。その場合に重要なのは、抽象的な自然とか、自然を生かす伝統ではなく、地域独自な自然であり、伝統であるということだ。自然一般、伝統一般となったときには、すでに自然もなく、自然を生かす伝統も消え去ってしまう。

 それは、工業の世界を見れば明らかだ。近年、付加価値の高い産業とされているものが、ICとかLSIなどコンピュータ部品の製造である。それが付加価値の高いのは、豊かな自然、つまり大量のきれいな水や空気を必要とするからだ。部品の製造工程の要となるのが、処理薬品の洗浄である。そのために大量の水を必要とする。いま大問題になる先端産業による環境汚染である。

 工業は、その付加価値を高めるために、まずは交通の便のいいところ、原料確保のしやすいところに成りたち、次いで労賃の安いところを求めた。いま、豊かな自然のあるところに進出していく。工業による「自然価値」の評価である。

 しかしこの自然評価は、あくまで一般的、抽象的な自然であり、有害物質をばらまき汚染する対象としての自然評価でしかない。自然を生かす「伝統価値」などとは、全く無縁であり、むしろその営みを断ち切るものだ。

 農業あるいは食べものについても、抽象的自然、抽象的伝統を求められ、その線に乗っていけば、自然破壊につながることは、工業の場合と同様である。消費者の自然志向も、地域ブランド志向も、抽象的自然や抽象的田舎として対応する限り、先端工業の自然評価と同じような結果をまねきかねない。冒頭でのべた、「中央志向型付加価値づくり」が、地域の自然と人間の痛みを拡大するということは、工業的自然評価、抽象的自然評価の危険性そのことである。

暮しが地域自然をつくる

 いま、消費者の自然志向、地域志向は、「中央志向型付加価値づくり」を超えて、「地域志向型付加価値づくり」に転換していく可能性をもっている。それでは、地域はこれに、どう応えていくか。

 それは、「これがわが地域の自然です」「これが伝統の技です」と、個々ばらばらに商品化をすすめることではない。山形県羽黒町の「柿酢漬」の紹介にあたり、価値の源泉は地域独自の自然と、それを生かす食の伝統だと述べたが、「自然価値」と「伝統価値」は別々のものとしてあるのではなかった。自然が伝統(人為)をはぐくみ、伝統(人為)が地域自然を形成するという形で、この両者は分かちがたく結びついている。庄内柿は、伝統が加わって、庄内の地域自然として、そこにあるわけである。羽黒ナスも同様だ。

 このような、長い年月かかって形成されてきた地域自然が、いま真価を発揮するのである。くわしくは、今月号特集の各事例をお読みいただきたいが、鹿児島県大口市農協の純粋ナタネ油、これも大手メーカーものでは得られない健康油として倍の値段でも注文が殺到している。江口農協参事は、「水田地帯で農業の転換が遅れた地域」での、裏作のナタネづくり、という表現をされている。

 しかし、実は、この地域で、水田という耕地をよりよく利用していくために、イネと裏作ナタネ・レンゲの栽培が行なわれ、この土地ならではの自然が、水田においても、形成されてきた。そうした地域の「自然価値」を再評価し、発揮させようということなのである。

 島根県匹見町の、雑木林の多種多様な樹種を生かした「パズル」づくり。これも、山に手をかけられなかったという事情も含めて、土地の人びとと山との独自な長いつきあいの中で培われた雑木林が、いま「自然価値」を発揮している。地域の人びとの暮しぶりが、地域独自の自然、「自然価値」をつくるのである。

地域地域で最も付加価値の高い生活を

 地域の暮しは、同時に地域の自然づくりでもある。暮しの総体が自然を活用しつつ、自然をつくる。自然を使って自然をこわすのではなく、活用が即地域独自の自然形成につながり、「自然価値」を生み出す家産、村産として受けつがれていく。この暮しかたと家産、村産とのつながりが「伝統価値」なのである。

 だから、「自然価値」「伝統価値」をフルに発揮させる高付加価値農業とは、まずは地域の暮らしそのものにおいて実現されるはずである。この「主張」欄ではこれまで、地域の産物を地域でよりよく食べること、まず地域内の食生活を確立し、その食べものと情報で都市の食生活を変えていくことの重要さを繰り返し述べてきた。

 それは、まずは地域でもっとも付加価値の高い生活、生産を実現する、そのことを背景にして、都市の人びとの生活を、「地域型付加価値」を迎え入れるしくみに変えていく、ということにほかならない。

 九月号の「特集・コメは高く売れる」で紹介した、長野県臼田町農協の「低農薬米」は、地域の気象・土地条件にあったイネの品種を用い、地域の資源で土を養い、無理のない栽培で生み出される。野菜やその他の農産物も同様である。そして、これらをよりよく食生活に取り込むことを含めた地域健康運動が、根づよく展開されている。

 農業−たべもの−健康を一体としてとらえ、その全般におよぶ「地域型付加価値」の地域での全面発揮である。こうした暮しぶりに、消費者はひかれ、「臼田の農産物なら」と、臼田に注目し期待と信頼をよせつづける。

 ゆるぎない付加価値農業とは、地域の自然にこだわって、地域の暮しに最高の付加価値をつける営みにおいて可能となる。

(農文協論説委員会)

前月の主張を読む 次月の主張を読む