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農文協トップ主張 1988年01月

中国でほんとうの「村おこし」をみた
天津市大邱庄の農・工・商連合公司の実践

目次

◆現代の根本矛盾(農業と工業の矛盾)を解決する
◆中国の農政は1つではない
◆農・工・商が連携する村おこし
◆利益と貯金は村内に投資する
◆農村を「田園都市」にする

現代の根本矛盾(農業と工業の矛盾)を解決する

 敗戦以来、日本は未来のモデルをアメリカに求めてきた。

 しかし、そのアメリカは、今や、世界最大の借金国になった。ドルも、とめどもなく下落しつづけている。もはや日本の未来のモデルにふさわしくなくなった。

 とすると、日本の未来のモデルをどこに求めたらよいのだろうか。日本農業の未来をどう考えたらよいのだろうか。新年に当たって、日本農業の未来について考えてみよう。夢を描いてみよう。

 少しヘソを曲げて、日本人には「後進国」と思われている中国農業をモデルに日本農業の未来をみてみたいと思うのである。

 中国といっても広い。中国農業の最先端を走っていると思われる天津市郊外の農村、大邱庄(村)で、一九七八年(四人組追放の二年後)以来進められた農業改革=地域農政の事実の中に、日本農業の未来についての方向性を探ってみよう。

 現代世界の根本矛盾をどうとらえたらよいか。農業改革なり農業政策なりについて考えるには、そこを出発点にしなければならない。世界は大きく新しい時代に移りかわろうとしているのだから。

 現代世界の根本的矛盾は、農業と工業の矛盾にある。都市と農村の矛盾にある。後進国と先進国の矛盾にある。この根本的矛盾を解決する方向で農業の問題も、農政の問題も考えなければならない。農業問題は工業問題であり、都市問題は農村問題であり、後進国問題は先進国問題である。

 わかりやすくいえば、都市が栄えて、農村が衰える経済の流れをかえねばならぬということである。

 もっとわかりやすくいえば、無限にふくれあがる大都市の人口増加の流れを、農村に人口がふえる経済の流れにかえることである。

中国の農政は一つではない

 天津市の近郊農村、天津市靜海県大邱庄(以下大邱庄村と書く)では農村人口がふえつづけている。

 統計によれば、大邱庄村は一九七七年六四四戸二七八四人から、八年後の一九八五年八六三戸三三二〇人と、戸数で約三四%、人口で約一九%ふえている。

 断わっておくが、天津市近郊とはいえ大邱庄村は純農村である。中華人民共和国成立(一九四九年)前は、この村の七〇%の人々は、とうてい腹一杯食べることができなかった。革命後も決して裕福になったわけではない。「三年ヌカを食べても大邱庄に娘を嫁にやらない」という、昔から歌われていた歌が依然として歌われつづけてきたのである。貧乏な農村だった。

 その純農村で人口がふえつづけている。いったい、日本の純農村で戸数・人口ともにふえている村はあるだろうか。工業と農業の矛盾対立、都市と農村との矛盾対立を克服する経済政策なり産業政策がとられない限り、農村の人口は減り、大都市の人口はふえる。地域政策とか、「ふるさと創造」とかは、そこに根本をおいて考えない限り、まやかしなのである。

 大邱庄村で人口がふえつづけている、その秘密はどこにあるのか。根本は農業の発展を考える場合、農業を工業・商業と切り離して考えないところにある。

 大邱庄村の指導者・禹作敏さんは、村に工業を興すことによって、農業を発展させる道を選んだ。

 禹作敏さんは、一九七七年に労働者(といっても村の農民だが)一一二人規模の鉄工場を村に建てた。これが物事の始まりである。統計によれば、一九八六年までの一〇年間に、村の工場は三二にふえている。一九八六年現在、三二の工場で働く労働者は二九八〇人。うち一五〇〇人は村外からの労働者。村内の労働者は一四八〇人である。

 かつて村あげての農業労働であったが、一九八六年三二〇町歩の耕地はわずか三四人の人々による二つの生産組織によって経営されている。

 中国の農業は、集団農業から個別経営に移行したといわれる。しかし、一九八六年現在、この村には一戸の経営請負制もない。また数戸の協同による生産請負制もない。三四戸の農家は二つの経営体にわかれて、農耕を行なっている。所得は経営の純収入を土台に生産量に応じた配分が基本となっている。それでいて、全農家が万元戸なのである。社会主義的共同経営でも所得は飛躍的にふえていることに注目しておきたい(万元戸とは年収が一万元を超える農家のこと。ふつうの給与生活者の年収は一千元前後)。

 中国社会主義農業は、決して一戸経営請負制一色にぬりつぶされているのではない。生産力の低い段階の地域では明瞭に一戸請負制が行なわれている。そして、生産力の低い地域が広汎であることは事実である。しかし、事柄の本質は一戸請負制にあるのではない。それぞれの地域の生産力の発展段階に応じて、一戸請負制もあれば、集団(数戸)請負制もあり、大邱庄村のような例もある。中国の農業政策の本質はそれぞれの地域の生産力の発展の段階に応じた、多様な農業経営主体の形成にある。つまり地域農政なのである。

 天津市とは異なる発展段階にある西安市近郊の農村でみた秋耕は、馬耕あり、牛耕あり、人力耕ありで、大邱庄村とはまるで様相が異なる。地域の特産果樹であるザクロの新植がめざましい。新植のザクロの間作には小麦がまかれていた。一戸請負制で生き生きと創意工夫して働く農民の姿があった。

 極めて多様な地域。その地域地域の事情に応じて、その地域の総合的生産力を高める政策が、それぞれの地域の主体によって行なわれている。つまり、地域主義なのである。

 日本という地域を総体的に考えてみると、西安市段階ではなくて、天津市段階であろう。日本の農業政策にひきつけて、大邱庄村のうごきを考えてみたい。

農・工・商が連携する村おこし

 日本のことをまず考えてみよう。

 一〇〇〇町歩の水田を一〇〇〇戸の農家が耕している村があるとする。平均一町歩の水田経営の地域である。生産性を高めるために一戸当たり三〇町歩規模に変革するとしよう。農家は約三〇戸あれば足りる。問題は、残り九七〇戸の農家をどうするかということだ。そこのところをはっきりさせないで、農地の流動化だとか、借地制度の推進だとか、協同化とかを推進することは、三〇戸の農家にとっては経済的に合理的であろうが、九七〇戸の農家にとって経済的不合理ということになる。この問題を解決している具体例が大邱庄村の実践である。

 農業の生産力の発展は工業によって促される。地域での農工のバランスのとれた経済的発展を策することこそが、現下の国際化時代の農業問題を解決する根本的方向である。「内需拡大」というのは、人口過密の東京にやたらにビルを建てることではない。

 工業によって農業の発展を促す、などというと、読者は高度経済成長時代に安い労働力を求めて農村に進出した輸出産業の下請工場を思い浮かべることだろう。円高不況の国際的経済環境の下、真先に犠牲にされたのはこれらの農村工場であった。もともと安い労働力を求めて農村に進出した下請工場は閉鎖され、より安い労働力を求めて海外へとむかいつつある。そんな工業にどうして未来を託せるか。

 大邱庄村の指導者・禹作敏さんに会う機会があったので、直接その点について質してみた。つづめていえば町工場みたいな中小工場がたくさんあるが、どうせ天津市の大工場の下請工場に違いないと思ったからである。

 答えがなかなかふるっていた。禹作敏さんのいうところによれば、大邱庄村の工場の製品は中国全土二六の省(市)に販売されているというのである。しかも、その販売に当たっているセールスマンは大邱庄村から全国に派遣されているというのだ。つまり、売るところまで自立してやっているのである。そこが下請工場とは根本的に違う。禹作敏さんの名刺の肩書は大邱庄農工商連合公司総経理、とあった。公司を会社、総経理を社長、と読みかえると肩書の意味がわかる。

 つまり、大邱庄村では、農・工・商連携による総合的な村づくりが行なわれているのである。農業を基礎とし、工業を導き手とし、商業を軽視せず、富の実現のために商業を盛んにする。そのことを大邱庄村という地域を土台にして全国に展開する。

 ところで、大邱庄村にはどんな工場があるのだろうか。鉄工場もあれば、変圧器製造工場もある。自動車修理工場もあれば、肥料工場もある。印刷工場まであり、工業製品は九〇種あまりに及ぶという。地域を土台にしながら、販路は自立して全国にむかって開かれている。自給自足の復古趣味の地域主義とは根本的に違うのだ。

利益と貯金は村内に投資する

 日本とまるで違う肝腎な点は、工・商がもうかるからといって、それだけに傾斜しない点である。基礎は農業である点は忘れない。工・商業のもうけは農業に投資される。その投資によって農業の機械化・近代化がすすめられ、農業の生産力は高められる。生産力の高まりによって余剰になった農業労働力は村の工場に吸収され、工業の一層の発展に寄与する。村の総合的な生産力の発展段階に応じて、農業の生産組織(経営主体)が次々と変革されてきたのである。

 工場が建てられた当初の時期、一九七八年に第一回目の農業生産組織の変革が行なわれた。これまで長い間一一個の生産隊に分けられていた生産組織は、五二個の作業組に細分化されそれぞれの小単位による責任制に変革された。生産力の低い段階では、経営主体をより細分化することによって、創意工夫・積極性を発揮させ、応分の配分による刺激を与える方策がとられた。

 四年後の一九八二年には、第二の生産組織の変革が行なわれた。生産組織は、統一経営・専業請負・生産リンク責任制に変革された。公司の統一経営のもとで労働力を農・工・商の各部門の適材適所に専従的に配置し、生産量にリンクして(応じて)収益を分配する方式である。

 それから四年たった一九八六年に、農業の経営主体は二つの大きな生産組織に変わる。つまり大型機械化による高度な生産組織の形成である。

 人員三四人で三二〇町歩の畑を合計二万三千馬力の機械で耕作している。機械化によって、二〇〇町歩の小麦畑は一週間で播種を終えるという。

 驚くべき農業生産力発展のテンポであるが、もっと驚くべきことは、農工商連合公司のもうけによって、村内の未開墾地を開墾して農地をふやす計画だというのである。まさに、農業が基礎であることを忘れていない。

 農家の所得が何十倍にもふえて、いったい農家は何を買うのだろうか。北京市のサラリーマン主婦たちとの会話で、今欲しいものはテレビに電気洗濯機に電気冷蔵庫であることを聞いていたので、質問してみた。この答えもふるっていた。

 テレビも電気洗濯機も電気冷蔵庫もみんな買ってしまった、今は貯金です、というのである。各戸とも一万元以上の貯金があるという。

 なるほど、信用事業のほうも見事に連動しているのだ。この貯金もまた、地域の生産力の一層の発展に投資されてゆく。日本の農村の貯金のように中央に集められ、中央の大企業の投資に利用されるのとはわけが違う。中央に集められた金が、財テクに利用され、東京の土地価格を暴騰させたり、株を高騰させたりするのとは全く違う。地域の金は地域に生かされるのだ。

農村を“田園都市”にする

 大邱庄村では新築住宅が多い。どこの国の農家も、金がもうかったらまずは家を建てるものらしい。統計によれば、

 住宅面積は一人当たり平均二六平方m、約八坪。一世帯当たり四人平均の家族だから、三二坪位の住宅である。

 村の中心部の一隅に、ひときわ豪華な邸宅がたくさん建てられていた。ここには、外国から招いた技師たちが住むという。それから、村に功労のあった人々に与えられるとのこと。なかなかの気配りである。

 村の中心部に中学校・小学校・幼稚園が一ヶ所にまとまってある。一つだけ注目する点をあげておこう。

 中学校の教室の一つがコンピューター室であった。ここでは、日本で今はやりのコンピューターによる教育をやっているのではない。コンピューターの端末機の操作の教育、つまりコンピューターについての教育をやっているのである。ずらりと端末機が並んでいた。

 中国の小中学校では学校給食はない。昼休みは二時間。家に帰って家族とともに食べ、再び登校する。そういえば、昼休みは工場にも全く人影がなかった。家に帰って食事をするのだろう。

 村の真中に、住居地と工場地が隣接してあり集居制だ。職・住近接でもある。その周囲を広々とした耕地がとりかこむ。

 今、建設中の大きなビルはアパートかと思って尋ねてみたら、デパートだという。村の中央に賑やかにならんでいた露天市場はやがてデパートに吸収されるのだろう。

 大邱庄村で進んでいるのは、農村の都市化である。田園都市化とでもいうべきか。都市の利便さは享受できるように、村の中に街ができつつある。農村を都市にしてしまうのではない。田園をそのまま残し、開墾によりさらに拡大し、その中心部に農村都市をつくる。新しいタイプの空間づくりである。

 都市が農村を蚕食するのではなく、農村を生かした街づくり。農業生産力が高まることによって生じる余剰人口を大都市に排泄するのではなく、農村に雇用をつくり出して、定住させる。地域自然と調和した型での農・工・商の発展。この道こそが農業と工業の矛盾、都市と農村の矛盾を克服する道の一つだ。天津市靜海県大邱庄は二一世紀へむけて、人類が克服しなければならない課題に、正面から取り組んでいる。

 大邱庄村についての詳しい報告は中国の出版社と提携が成立したので、今年おそくない時期に単行本として農文協から発行する予定である。

(農文協論説委員会)

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