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農文協トップ主張 1989年05月

「地球環境保護」キャンペーンの重大な欠陥

目次

◆なぜいま急に「地球環境」保護なのか
◆農産物自由化が「地球環境」をこわす
◆「地球環境」と「地域環境」は切り離せない
◆経済合理にもとづく「保護」で「地球環境」は守れるか
◆地域合理にもとづく保護が「地球環境」を守る

なぜいま急に「地球環境」保護なのか

 ちかごろ「地球」があぶない、らしい。

 この三月だけでも、ロンドンで「オゾン層保護」国際会議が開かれ、フロンガスの生産・消費の全廃をめざすことが宣言された。オランダ・ハーグでの「環境サミット」では炭酸ガス削減をめざす国際条約の締結が呼びかけられた。七月のサミットでも環境問題が主要議題となり、九月には東京で地球環境保全国際会議が開かれる。

 大気中のフロンガスや炭酸ガスの増大は、地表や海面から宇宙空間に逃れていくはずの熱を大気中に閉じ込め、「温室効果」による異常気象や海水面の上昇(南北極の氷が溶け出して)を引き起こす。またフロンガスは成層圏のオゾン層を破壊し、地表に届く有害紫外線を増やして遺伝子のDNAを傷つけ、皮膚ガンを急増させる。

 そのような危機感から、新聞・テレビなどは競って「地球環境保護」のキャンペーンを行ない、フロンや炭酸ガスの問題ばかりでなく、熱帯雨林の乱伐、焼畑による破壊や砂漠化、酸性雨などの問題に警告を発している。

 かつて水俣病や四日市ぜんそくなどをもたらした「公害」は、限定された地域の特定の企業が地域の環境を壊し、その地域の住民に健康被害を与えたものだった。いま問題にされているのは、もっと大規模で、人類社会すべてにかかわるような環境破壊だ、という。

 ところが、そのような国際会議の結果を伝える記事や、キャンペーンを読んでも、いまひとつ問題はわかりにくい。また彼らの言う「危機感」もピンと実感できない。

 問題をわかりにくくし、さらに「地球環境の危機」ということが実感できない理由は何か。それは、この問題についての国際舞台における議論からも、またマスコミのキャンペーンからも、重要なことが欠落しているからだ。つまり、農業・林業・漁業などの、それこそ「地球環境」の維持・再生産にかかわる第一次産業が、いま現実に「地球環境保護」に果たしている役割、将来果たすべき役割は何かという視点、問題提起がすっぽりと抜け落ち、「全人類的課題」といいながらも、ほとんど「先進国」の、工業分野でのみ解決していく問題であるかのように印象づけられるからだ。さらに、サミットなど国際会議ではあいかわらず農産物輸入の門戸開放が議論され、マスコミはまた「地球環境保護」キャンペーンの一方で「農産物輸入自由化」の旗を振っている。農産物自由化と「地球環境保護」とは矛盾しないのだろうか?

 またマスコミの「地球環境保護」キャンペーンからは、それぞれの地域で誰が何をすればよいのかが見えてこない。オゾン層や熱帯雨林、サンゴ礁の存亡を憂える文章はあっても、東京湾の埋め立てや雑木林の宅地化さらには減反田の荒廃など、身近な「地域環境」を憂える文章を見つけることはむずかしい(逆にそれらを不動産としてしかあつかっていない記事はよく見つかる)。「地球環境」は守るに値するが、「地域環境」は守るに値しないのだろうか?

農産物自由化が「地球環境」をこわす

 「地球環境」が危機ではないなどといっているのではない。しかし、それぞれの国の農家および第一次産業に従事する人々が、まともに暮らせる世界の経済環境であれば、ことさら保護保全を声高に叫ばなくとも、「地球環境」は守られるのではないかといいたいのである。なぜなら、農家・林家・漁家こそがそれぞれの地域環境の保護保全の担い手であり、それぞれの地域環境の重なりが「地球環境」であるからだ。

 たとえば「地球環境保護」の大きな課題のひとつは熱帯雨林など森林の保護である。それは地球に「温室効果」をもたらす大気中の炭酸ガス濃度を、森林が大きく左右するからだ。

「アマゾンだけで地球上の酸素の収支の三分の一に関与している、といわれるほどに熱帯林は重要な働きをしており、その破壊は二酸化炭素の増加につながることに異論がない」(石弘之『地球環境報告』岩波新書)

 この熱帯雨林がどうして破壊されつつあるのか。その元凶のひとつは世界の農産物市場から、第三世界の食糧輸出国を締め出すことを狙った一九八〇年代アメリカの農産物補助金つきダンピング(低価格政策)であると断言しているのは、本誌に「アメリカ農政事情」を連載しているマーク・リッチーさん(ミネソタ州農政分析官)である。

 彼の『世界の農業・食糧・環境の危機をこえる道』(「海外の市民活動」別冊)は「アメリカが輸出食糧にたっぷりと補助金をだし、世界市場にダンピングするのは、第三世界の多くの国の農民を追い払うことが主たるねらい」であることを明らかにしている(その政策は「アメリカの穀物価格をさげることによって、そして外国の生産者を廃業に追い込むことによって、海外市場を再び取り返す」「市場が拡大すれば、そのうちに需要も高まり、それによって農産物価格も容認できる水準にまであがるだろうという理屈」にもとづいている)。

 その結果、西アフリカの貧困国の米作農民は「自給をめざして生産能力を高めてきた」が、アメリカ自身のコメの生産費よりt当たり一四〇$も安く、当地の生産費より八〇$安くなるような大型補助金つきのダンピングによって競争力を失い、「廃業に追い込まれた」。またタイの米の輸出はタイの外貨の十五%を稼ぎ、米作は四〇〇万農民の唯一の収入源である。アメリカによるコメの補助金つきダンピングはタイ経済を重大な危機におとしいれたが、「タイは巨額の対外負債を抱えているので輸出を削減することは不可能」であり、「タイはアメリカと競争できるように価格をさらに引き下げ、生産量をあげ」輸出をふやした。しかし農民は低価格に苦しめられるようになった。

 そして「低価格のために自分の土地で食べていけないので、人々の多くはやむをえず、熱帯雨林に侵入」し、焼畑化する。

 またブラジルは、同じようにアメリカの農産物の補助金つきダンピングによる低国際価格によってただでさえ苦しい国際収支がさらに苦しくなったため、政府自らが対外債務の支払いに当てるために牛肉の輸出量を増やそうと、「何百エーカーもの開拓を余儀なくされ(略)、熱帯雨林は、ただ収入増加だけを目的として、米国、ヨーロッパ向け牛肉生産のため、なぎ倒されつつある」という。

 このようにアメリカの農産物輸出拡大のための補助金つきダンピングは世界の農業を競争原理のるつぼに投げ入れ、そのことが世界中の地域の農業を壊し、熱帯雨林を破壊する。

「地球環境」と「地域環境」は切り離せない

 ところがわが日本は、この政策的に低価格にされたアメリカ産農産物の自由化要求を、自国の工業製品輸出が引き起こした貿易摩擦緩和のために農家の反対を無視して受け入れてきたし、さらにその枠を拡大しようとしている(二年続きの生産者米価引下げもその文脈の中でとらえるべきであろう)。

 これから参院選などが終わり、農民票を気にする必要がなくなればさらにマスコミなどでコメの自由化についても議論が高まるだろう。それがもし実現すれば、日本の「環境」はどんな影響を受けるだろうか?

 ここでは水田と、環境としての「水」との関係を問題にしてみよう。

 雨が多いといわれる日本だが、年降水量を人口一人当たりになおせば世界平均の五分の一となり、けっして豊富とはいえない。その水を上手に使ってきたのが水田システムなのだが、いまは人口の都市集中や工業の発展によって、「使いたいとき」に「使える水の量」がたりないという「水不足」が深刻になってきている。すでに京阪神では毎年のように夏になると水不足が騒がれるし、福岡市の七八年の給水制限はひと夏どころか一〇ヵ月間にもおよんだ。

 一方、宇都宮大学の千賀裕太郎氏は、農文協の『自然の中の人間シリーズ 川と人間篇(3) 水をはぐくむ』(絵本)で、子どもたちへの語りかけとして「降った雨水をできるだけゆっくり、できるだけ道草をくいながら海へ戻すようにすること。それが、山国日本で水資源を養うただ一つの道でしたし、地域のすみずみまで水が行き渡り、動・植物が生きていける環境を広げるという目的を達成する方法だったのです」とのべ、水田の水源涵養機能を説明している。それによると、水田の地下水涵養機能は年間三九三億立方m、洪水調整機能が四七億立方mにものぼる。ちなみに地下水涵養機能は、森林が年間二三〇〇億立方m、ダムが将来の建設予定も含めて一九三億立方mだから、ダムに対して森林は一二倍、水田は二倍である。

 またよく知られるようになった千葉大学の唯是康彦氏の試算によると、日本がコメを一九八六年から段階的に自由化し、一九九〇年に完全自由化するものとして、一〇年後の二〇〇〇年には日本のコメ輸入量は七〇〇万tにのぼり、自給率は三〇%に落ちるという(その反面、消費者米価は当初半分位まで下がるが、アメリカの見通しと一致するようにほぼ一〇年後にほとんど元の価格に戻るとされている―NHK『世界の中の日本―アメリカからの警告』)。

 もしもコメ輸入を自由化し、唯是氏の試算のように自給率三〇%になるということは、このような水田の地下水涵養機能、洪水調整機能をも三分の一弱にしてしまうということである。事実、一九八一年の北海道・石狩川の洪水は、減反率五割にも達する沿岸の水田の洪水調整機能が低下していたためにおきたといわれている。

 そのように、農産物の自由化が地域環境を壊すものであることは輸出する側、される側いくらでも例をあげることができる。それらがつみ重なって地球環境の破壊となるのだから「地球環境」を守るためには、日本ばかりでなく世界中すべての国々で農産物自由化に反対しなければならないのだ。

経済合理にもとづく「保護」で「地球環境」は守れるか

 ところでこれまでの日本の「公害」問題の解決は、それを発生させた企業自身の活動にすら「公害」が悪影響を及ぼすようになったため、それを除去するために行なわれたとみることができる。その意味では「公害防止」も、国際分業論によって農産物自由化をすすめる経済合理主義と同根の経済活動なのだ。かつて「公害国会」などの時代、公害防止そのものを営利事業とする企業が雨後の筍のように生まれたことは記憶に新しい。さらに、「地球環境の保護」をいうマスコミが、一方で農産物輸入自由化の旗を振ることも、そのどちらも経済合理主義に根ざしたものであると考えれば矛盾したことではない。

 しかし、経済合理主義にもとづく環境保護が、本当に環境問題の解決につながるだろうか?

 私達はそうではないと考える。その理由の一つは、先にみたように同根の経済合理主義からくる農産物自由化が世界中の地域環境の破壊につがるということだ。もう一つの理由は、経済合理主義の「生産性」という考え方である。

 つまり、ひとつの商品を経済合理主義にもとづいて生産するとき、「生産性」をあげるためには生産過程で不用なもの、非効率なもの(廃棄物、「能力」の落ちる労働力、時代遅れの機械など)は、次々に外部に放り出す。かつて日本国内において自らの「公害」に手を焼いた企業が、次々と「公害」部門を海外に移したことはその典型的な現われである。今日の「地球環境」の危機は、その帰結でもあるのだ。

 たとえばマレーシアでは、石油精製用の触媒やカラーテレビ用の蛍光体の原料となる希土類(レア・アース)を選鉱する日本の企業が、副産物として出る放射性廃棄物を住宅地のちかくに野ざらしにし、あるいは肥料といつわって(!)農家の畑にまかせ、妊婦に死・流産が続出して訴えられる事件が起きている。そこでは裁判のたび、数千の住民が七km離れた裁判所まで歩き、裁判所をとり囲むという。インドネシアのジャカルタ湾では、湾岸に約三二〇の日系企業の工場があり、ほとんど無処理の廃液を垂れ流していて、「水俣病」に似た患者の存在が問題となっている。日本から近い韓国では、馬山に集中した日本企業によって大気汚染、廃液による沿岸の汚染が深刻になっている。

 とにかくこのような事実は枚挙にいとまがない。とかく国際社会で自らの責務をはたさない、あるいは「公害」を輸出している、と批判されがちな日本政府、および企業が、こと「地球環境保護」に関して「率先垂範」的であるのは、うがった見方をすれば、このような「公害輸出」の「免罪」を狙っているということではないか。

 このように経済合理にもとづく環境保護は、「保護」とはいってもじつは矛盾を海外へ追いやり、あるいは原子力発電所の核廃棄物処理にみられるように未来へ先送りして、眼前から見えにくくしているにすぎず、当面は解決したように見えてもいずれひと回り大きな問題となってハネ返ってくる。それでは環境問題の真の解決にはならないことは明らかである。

地域合理にもとづく保護が「地球環境」を守る

 真の解決はどこに求めたらよいだろうか?

 それは暮らしの場=家(いえ)・地域にとっての合理性である。このことは「農家」を例に家や地域を考えれば明らかである。すべてを生産の場からみる経済合理は非効率なものを外部に放り出すが、農家は家であり生産の場であるとともに生活の場である。そこには年寄りもいれば子どももいる。彼らは生産にとって非効率だからと排除はできない。年寄りや子どもが邪魔になる(参加できない)生産の仕組みならそちらのほうを改めてきた(それぞれの能力に応じて参加できるようにしてきた)。地域はまたそのような家の集まりである。

 また誤った土地(自然)の使い方はすぐに暮らしにハネ返る。川を汚せば使い水に困る。山を荒らせば崖崩れが恐ろしい。細心の注意を払って子孫によい土地(自然)を引き継がねばならない。そこに暮らし続ける以上、土地(自然)が気に入らないからと、とりかえるわけにはいかない。

 そうやってその土地土地の自然とつき合いながら生きてきた農家、林家、漁家の生産のし方、生活のし方は、一見不合理で、愚直なように見えても、地域の環境(自然)を生かしつつ保全するさまざまな再生産の英知がこめられている。世界的に考えても、その地域で何十年何百年と続けられてきた農業、林業、漁業の仕組みには、その地域で生き続ける人間が、地域の自然を何十年、何百年と観察する中で育んだ、地域の自然を守る英知がこめられている。その英知は、地域の自然が異なるように、多様であるはずだ。

 その多様な英知を、生産性の向上だけを価値尺度とする経済合理が壊してきた結果が地域環境の破壊であり、その集積が地球環境の危機である。だからこそ、再び世界中の地域環境保全の英知をよみがえらせることなしには危機は救えない。一見すれば非効率、不用なものでも、それが自分たちの家(いえ)や地域に存在するものである限り、それを生かす、さらには、自分たちで処理しきれないような廃棄物は、そもそも外部には出さない――それは企業論理や経済合理にかわる、家族農家の論理であり、地域合理の考え方である。農文協は、今月末には「現代農業」臨時増刊として地域合理の考え方に立つ「ふるさと創世特集」を、五月には世界の地域環境保全のためにも自由化に反対する、「世界の農政特集」を発行します。どうかご期待ください。

(農文協論説委員会)

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