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農文協トップ主張 1990年05月

農政に生活原理の導入を
国際化時代への対応の筋道

目次

◆市場原理の導入はもう古い、むしろ商品らしくしないこと
◆地域の「食べもの」ネットワークが目に見えない国境をつくる
◆地方都市のなかで「街」と「村」の結びつきを
◆定住する者としての共感をベースに「百年の計」を立てよう

 新行革審(臨時行政改革推進審議会)の最終答申が近く提出される。新聞報道によれば、農政については、「『国際化時代にあって産業として自立し得る農業の確立』を今後の農政の指針として提起。農産物の輸入規制の緩和や市場原理の導入などを提言し」ていくことになるという(「朝日新聞」三月十四日付朝刊)。

 この限りでは何ら目新しいものではない。「農産物の輸入規制の緩和」は別として、「国際化時代にふさわしい農業」とか、「産業として自立しうる農業」とか、「市場(競争)原理の導入」とかいう類《たぐい》の話は、財界人ばかりでなく、いまではわが農協の組合長の挨拶の枕言葉にすらなっているくらいなのだから。

 だが、これからの農政(農業)に求められるのはほんとうに、市場原理を導入して、産業として自立することなのだろうか。われわれは、こうした「常識」とは正反対の道を考えている。それは、農業に生活原理を導入して、地域の他産業と連携していく道である。

市場原理の導入はもう古い むしろ商品らしくしないこと

 こんなことを言えば、すぐさま「なにをのん気な!」と言う声が聞こえてきそうである。「そんなことで外国産農産物に対抗できるのか」と。

 日米構造協議にみられるように、もうけすぎの日本に対する外圧はますます強まる一方だし、その弥縫《びほう》策として、さしあたり日本ができることといえば、日本経済にとって「被害の少ない」農産物市場を切り売りしていくことぐらいだろう。農業サイドとしては、それに備えて農業の足腰を鍛えておくことこそ焦眉の課題ではないか、というわけである。

 だが、「市場原理を導入し、産業として自立する」ことでは、農業の足腰は決して強くならない。それはトレーニング方法が原理的にまちがっているからである。

 われわれはすでにこの方法を試してきた。稲作に市場原理を導入して、「うまいコメ」と「まずいコメ」に価格差を設けた。産業として自立しうる経営規模を求めて、構造改善を行なった。野菜も、果樹も、畜産もまた然りである。

 おかげで、構造改善の成否はともかく、農業への市場原理の導入はうまくいった。すなわち農産物は、より「商品らしく」なったのである。コメは江戸時代から商品だったじゃないか、という考え方もあろうが、そうとばかりもいえない。つい二〇年くらい前まで、コシヒカリとトヨニシキを比べて、どっちが好きか、どっちを高く買うか、と消費者に聞いたら、人によって答えは違っていただろう。また、同じ人でも、それをごはんのままで食べるか、寿司や炊き込みごはんにするかで、答えは違ってくる。こういうのは「商品らしくない」のである。

 それに対して、商品であるからには、テレビやワープロがそうであるように、(原理的には)○○県産のコシヒカリは五二〇〇円、××県産のトヨニシキは三五〇〇円、と全国どこに行っても決まっていなければならない。そして、いまではたいていの消費者はトヨニシキよりコシヒカリのほうが「高級」だと思っている。農産物が商品となったことが人びとの意識を変え、客観的なモノサシができたのである。このように、商品を計るモノサシは、それが商品らしくなればなるほど「客観的」(単純)になる。

 ところで「客観的」モノサシができれば、農産物に国境はなくなる。○○県産のコシヒカリとカリフォルニア産の国宝ローズを「客観的」に比べることもできる。かりに、それが同じだとしたら値段が安いに越したことはない。それが市場原理というものだ。国内で市場原理を貫いて、国境だけは残しておこうという理屈は、商品の世界では通用しないのである。ここが重要なところだ。

 だから、国際化時代に備えて農業の足腰を鍛えるというなら、そのトレーニング方法は、いままでと正反対のものでなければならない。すなわち、農産物をできるだけ「商品らしくしない」ことである。もちろん、商品経済のなかで生活を立てていく以上、コメを売って代価をいただくのは当然である。ただ、そのばあいに、同じトヨニシキでもうちのはここがちょっとちがう、というコメをつくり、なおかつ、そのちがいのわかる消費者をひとりでも多く育てることである。

 その早道は生活の場を共有する地域の消費者とつながることだ(生活の場を共にしていないと、ついつい評価のモノサシは「客観的」になってしまう。「安全性」の評価も、「味」の評価も同じことである。これは「商品」に逆戻りする道である)。多様な「主観的」なモノサシ(好み)をもった消費者が地域地域に育っていけば、それは目に見えない国境ができたと同じことである。しかも、地図の上でのニッポン国の国境は一重にすぎないが、地域地域につくられる「目に見えない国境」は幾重にもわたるものになるはずである。農業に生活原理を導入したときの強味はそこにある。日本農業の焦眉の課題とは、市場原理の導入ではなく、生活原理の導入なのである。

地域の「食べもの」ネットワークが目に見えない国境をつくる

 今度は別の声が聞こえてくる。「それじゃあ、担い手問題はどうするんだい」と。いま農村では専業農家はいよいよ少なくなり、兼業農家はムスコの代になっても、はたして農地を守るかどうか覚束ない。農業の先行きはかぎりなく暗いようにみえる。そうだろうか。

 農村開発企画委員会専務理事の石川英夫さんは、こんなふうに書いている。

「いま、日本のおおかたの農業集落では、専業的な農業者はまったく少数派になってしまった。つまり、彼らは非農家の大海に埋め込まれてしまうといった危機感にとらわれている。だが、角度を変えて考えれば、これらの非農家は、とりもなおさず、農産物とか加工品の消費者である。農村の混住社会化とは、とりもなおさず、地元での農産物の消費市場の拡大を意味する。そのような市場への農業者の接近方法としては『朝市』のような直接的なものもあるが、地元の商・工業者の知恵と協力を得る方法について、考えめぐらす時であろう。農村の地元経済を活性化に導く戦略として、第一、第二、第三次産業間の地域的なネットワークの構築が真剣に考えられなければなるまい。」(農村開発企画委員会「新しい農村計画」第五四号、一九八八年三月刊)。

 農業を、農産物を専業的に生産する独立した産業としてとらえ、その存続を考えるかぎりでは、未来は暗い。しかし、第二次産業(工業)や第三次産業(商業)と連携し、地元の消費者と結びついて、地域の「食べものネットワーク」として生き残っていけば、未来は決して暗くない。

 ただ、こうした試みはこれまであまりにも遅れていた。われわれは生鮮向けにしろ加工向けにしろ、地元の市場を常に後回しにしてきた。大産地であればあるほど、地元消費市場との結びつきは弱く、「市場原理」にしたがって、より高く買ってくれる中央市場に出荷してきたのである。

 日本農業の体質の弱さを言うなら、規模とかコストを言う前に、地元との結びつきの弱さこそ問題にすべきではなかろうか。

 市場原理に苦しめられているのは、なにも農家ばかりではない。町の豆腐屋さん(これは第二次産業)も八百屋さん(これは第三次産業)も、自分の代で家業は終わりじゃないか、と不安に思っている。こういう商・工業者は思いのほか多い。市場原理が貫く時代とは、その地域にこだわり、自分の技《わざ》にこだわって生きている人々にとって、すべからく住みにくい世の中なのである。

 地元の商・工業と結びつくとは、地域で市場原理に対抗して生きようとする人びとが結びつくことだ。そのとき、そこに生活原理にもとづく「場」ができる。そうなると思わぬ力が発揮されるものである。

地方都市のなかで「街」と「村」の結びつきを

 これを、われわれが調査した長野県飯田市知久町《ちくまち》一丁目商店街と柏原集落との提携朝市という「場」を通してみてみよう。

 知久町一丁目商店街は老舗《しにせ》の靴屋さん、お茶屋さん、呉服屋さん、漆器屋さんなどが立ち並ぶ、古くからの商店街である。しかし、駅前に大型量販店が進出した一九七四年頃から、急速に客足が遠のいていく。

 危機感をもった商店主たちはまず、安売り競争では量販店にかなわないと悟り、専門店として特色を出そうと試みる。ついで、街全体の特色を打ち出そうと、さまざまな手づくりのイベントを行なった。五年前から始めた、柏原集落との提携朝市もそのひとつである。

 現在、六月〜十一月頃までの月曜をのぞく毎日、柏原集落の野菜を積んだトラックが知久町一丁目商店街に横づけされる。朝十時の朝市「開店」前から、五〇人〜八〇人ものお客さんが待っているほどの盛況だ。トラックが着くと殺到して、品物のとり合いも起こるので、商店街の人たちが、お客さんの整理を買ってでている。商店街の人びとにとってみれば、全くのボランティアなのだが、地元の新鮮な農産物が毎朝届くことと、それを売り買いする人びとがかもしだす活気は、この街の欠かせない特色だと考えているのである。

 一方、柏原集落のほうはどうだろう。この集落はほとんどが兼業農家のむらだが、退職した農協の技術員が中心になって八二年に「柏原農業を考える会」を旗上げし、農業の技術・情報を交換したり、野菜苗の共同購入、農薬の共同調剤などの活動を行なってきた。こうして自家用の野菜づくりは盛んになったが、余った野菜の売り先がない。そんなとき、知久町一丁目との提携朝市の話が持ち上がったのである。いま、朝市に出す野菜は、むらの阿弥陀堂前の広場に集められ、トラックに積み込まれている。むらの人はここを「コミュニティ広場」と呼んでいるが、かつてのむらのたまり場が、いま新たな意味をもって活気づいているのである。

 もともと、飯田市の商店街は他の地方都市と同じく、周辺農村地帯の購買力に支えられて発展してきた。知久町一丁目の商店主たちは、自分たちが農家に支えられていることに気づきつつある。そして、柏原集落の農家もまた、朝市を支えてくれる知久町一丁目の人びとに親しみをもった。奢侈品を扱う商店街ということもあって、敷居が高かった知久町一丁目の店々に、気軽に入れるようになった。「どうせ買うなら知久町で」と嫁入り道具一式を揃えた農家もある。そのことをまた、「農家の人は義理固い」と商店街の人びとはありがたがった。

 知久町一丁目と柏原集落――いわば飯田という地方都市における「街」と「村」の人びとが、同じ、地域に定住する人としての共感によって結びつき、「場」が形成される。そこにまた、町場に住むお客さんが引き寄せられる。

 朝市の常連客には、町場に住む年配の人が多い。郊外に宅地が造成され、中央高速道開通に伴い郊外店が発達するにつれて職住分離がすすみ、旧市内は人口が減り、だんだん住みにくくなってきた。だいいち、八百屋さんが減った。スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアはもちろんあるのだが、そこの野菜の味は何となく年配の人にはあき足らない。もちろん値段の安さもあるが、朝市が人気を呼ぶのはこんな理由もあるのである。

 このように、朝市は味覚を通して、地域の住む人びとの新しいつながり(目に見えない国境)を生み出している。それは人びとが暮らしていく場所として地域を見直していくことでもある。

定住する者としての共感をベースに「百年の計」を立てよう

 地域に住む人びととの結びつきを支えるものは、地域の個性すなわちその土地の風土性にほかならない。

 それでは農業における風土性とはどういうものか。農業にかぎらず地場産業は、その土地の風土や農家の暮らしぶりと深く結びついて生まれてきた。

 飯田市の水引業を例に考えてみよう。飯田の水引業はもともと、原料の楮《こうぞ》を供給する山間地(旧村千代村など)と、半製品である紙をすく近郊農村部(旧村松尾村など)と、完成品の水引に加工する旧市内とのつながりによって成り立っていた。千代村は水田面積こそ小さかったが、高温・湿潤・無風の南向の斜面で、楮の栽培には大変適していた。この楮を近郊農村部では冬期間の副業として紙にすいた。冬の積雪は野外での活動を制約し、農家を室内での副業へと向かわせるとともに、河川が露出しないことで水を清くした。これは紙をすくうえで欠かせないことである。

 もっとも、飯田の水引業は、生水引生産の機械化以降、それを伊予や京都の産地から移入して結納品や金封などに細工するようになった。つまり、かつて旧・千代村や松尾村が担った原料生産や中間加工の部分は切り離し、旧市内で行なっていた付加価値の高い最終加工の部分に特化することで、全国最大の産地として生き残っているのである。

 しかし、このばあいも、なぜ飯田が機械化された生水引生産ではなく、機械化が難しい最終加工に特化する道を選んだかといえば、紙すきや水引生産(あるいは養蚕の糸とり)といった農家の副業を通じて、この地域の広範な人びとが手先の器用さを獲得してきたからにほかならない。それは風土に刻印された地域人の特技といえよう。この地域人の特技は、今日の飯田の主要な製造業である精密機械工業にも生かされている。

 このように、風土に根ざした諸産業の結びつきは、その土地に一〇〇年の遺産を残すのである。

 このように工業ははじめ、地域の風土性に依拠しながら発展するが、さらに付加価値を高めるなかで工程のある部分に特化し、やがて生産・流通は地域をこえていく。工業における商品生産の宿命である。

 これに対して、食べものは、風土性=地域の個性が、生産にも流通にも色濃く反映されることによって、付加価値が高まる。柏原集落の風土性が刻印された野菜を、知久町一丁目商店街の人びととそこに集まる消費者が、得がたいものとして迎えてくれる、というように。現代とは、こと食べものについては、このような関係がつくりやすい時代である。食べものを通じてこそ農家も商店も、定住性が強まる時代である。

 こうした関係を、野菜に限らず、穀物にも畜産物にも、さらにはそれらの加工食品にも拡大していくことによって、地域の風土性豊かな農産物をベースにした地域型食生活=味覚の共同体ができる。食べものについての共感=「見えない国境」が幾層にも重なりあう。

 それに支えられて、生産―加工(工業)―流通(商業)―消費の全段階を通じて付加価値が高まり、地域内を循環する。食べ物を軸とした農―商―工のたながりを強化することこそ、地域の人びとの定住を支え、地域に活力を生む。

 そしてこのことは、自治体や農協や住民の意識的な取組みがあってこそ可能となる。この点も工業とは異なるところだ。現に飯田市では街おこし、村おこし運動が公民館での学習活動を基盤にして意識的に行なわれるなかで、先述のような「街」と「村」の交流も生まれているのである。

 風土の香りを消しあらゆる産物を客観的モノサシで計れる商品とすること――それが市場原理というものである。産物を、風土の香りを残したまま流通させること――それが生産・流通に生活原理を導入する、新しいやり方なのである。生活原理の導入は同じ風土の中に生きている商業者・工業者・消費者と手を携える道にほかならない。

 新たな地域づくりが五年や一〇年で崩れ去るはかない夢に終わるか、「百年の計」となるかは、ひとえに風土に根ざした農工商の協同を創り出せるか否かにかかっているのである。

(農文協論説委員会)

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