主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食農ネット 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 1991年07月

高齢者、婦人、兼業農家を生かした新しい野菜産地づくり

目次

◆キュウリの大産地で「もう1つの産地化」をすすめる
◆高齢者、婦人の特性にあった野菜づくりとは
◆高齢者、婦人でなければできない取組みが社会的必要に合致する
◆人生80年時代の農業が豊かさを生みだす

 この冬、野菜の値段は農家にとって十分に採算があう高値になった。その原因は野菜の大産地の気象災害にあるとも言われるが、この野菜不足は、どうやら一過性のものではないようだ。兼業化の深まりや大産地の農家の後継者難、都市近郊の農地改廃などがすすむなかで、野菜不足の状態が今後、進むのではないかと国でも心配し、市場やスーパーも野菜産地の確保や育成に真剣に取り組みはじめているのである。

 しかし、一見、高齢化や兼業化で一路、農業の活力が奪われているかに見えながらそうではない。あちこちに高齢者や婦人を中心にした新しいタイプの野菜産地ができつつある。その産地づくりは、従来の産地とは異なった論理で動き、新しい質を生みだしつつある。その意味を考えてみたい。

キュウリの大産地で〈もう一つの産地化〉をすすめる

 東日本では有数のキュウリ産地でありながら、ミニトマト、ナス、イチゴ、ナバナ、アスパラナなどを取り入れて、高齢者・婦人を中心に〈もう一つの産地化〉を着実にすすめている、福島県二本松市の例を紹介しよう。

 まず雨よけ栽培のミニトマトである。これは倍々ゲームで伸びて、昨年は三四名で一億円の売上げを達成し、記念行事を開催した。このミニトマトを一一年前、二本松にもちこんだのが当時五二歳の兼業農家(観光ホテルのマイクロバス運転手)で、雑誌の記事を見て自主的に試作したのが初めてだというから面白い。それに着目して、産地化しようとしたのが農協だった。

 もちろん、すんなりと定着したわけではない。当初は露地栽培だったために病気で壊滅的打撃を受けたり、収量不安定で品質もよくないという状態がつづき、栽培者が極端に減ったりもした。そこで、雨よけハウスに切替えて、収量の安定化と品質向上に農協が取り組み、個別農家への選果機の導入、市場との交渉によるパックづめの簡略化(バラづめ化)などをすすめることによって、ここまで伸ばすことができたのである。

 露地ナスは、今年から始める。希望者を募ったら四十数名もの希望があり、二・五haをまとめることができた。農協では、苗代の一部を補助するとともに、高齢者や婦人が取り組みやすいように、出荷の荷姿を、重たい箱づめではなく小袋の定数づめにしたり、車で農協まで運んでこれない高齢者や婦人には各集落の指定場所に出荷してもらい、そこから農協に集める形にするなど、細かい配慮を施している。

 そして、アスパラナ、ナバナなどの軽量野菜の作付けをすすめ、さらに「リレー苗」と称して、冬にハウスが空くミニトマトやキュウリ農家に、他の農家がつくったイチゴ苗を供給しはじめた。

 このように作目が多様化してくると、技術の指導も、従来のような作目ごとにつくる部会や農事組合を通しての指導だけでは間に合わない。農家の一人ひとりに対する個別対応が必要だというわけで、農協では、本所に品目別の担当者を置き支所には総合担当者を置いて、ポケットベルを用意し、個別農家の要望や質問に即座に対応できる態勢をとっている。

 このような取組みによって、野菜づくりにはずみがつく。「野菜地帯に野菜なし」と言われるような単作的な野菜産地で、作目が多様化する。そして農業が豊かになるとともに、人びとが生き生きしてくる。出荷場に集まって、栽培技術の交換をしたり漬物の技術を教わったりするのが何より楽しみだという婦人もいる。あるいは長年つづけた仕事を定年で退職した人は、ミニトマトで反当四四〇万円をあげ目をかがやかせている。こうして熟年の人・高齢者・婦人らの力を引き出して、現在八億円ある野菜の売上げを当面一〇億円にまで伸ばそうと努力しているのが二本松市農協である。

 農協の営農指導員は言う。

 「ここは東日本一のキュウリ産地と言われますが、兼業農家もだいぶ増えてきています。そこで、いままでどおりキュウリ産地として頑張るとともに、いままでの発想をまったく変えた、朝晩や土日を生かして農業に取り組む兼業農家、重たいキュウリはやれない高齢者・婦人・定年退職者などの広い対象を念頭に置いた産地づくりも同時にすすめているわけです。お父さんだけでなく、おじいさん、おばあさん、お母さんというふうに、組合員の家の一人ひとりまでよく見て、野菜づくりに取り組める人を掘り起こす。定年退職が間近の人なんかにも、注意してですね。そして、一人ひとりの体力や好みにあった作目を細やかに提案していくのです」と。

 このような高齢者・婦人などを中心とした産地化は、先駆的には岐阜県の海津町農協を初め、山口県むつみ村の高俣農協、高知県の西土佐村農協、福岡県朝倉町農協など、全国さまざまの地域で成功裡にすすんでいる。風土が生かされ老若男女が生き、人びとのきずなが強まる。

高齢者・婦人の特性にあった野菜づくりとは

 このような高齢者・婦人を中心とした産地づくりの取組みは、およそ従来の発想を根本的に変えなければ成果が出ない。まず、高齢者・婦人の身体的な特性を前提にし、その特性を生かす作物が選ばれ、栽培法が考えられなければならないのである。

 その第一は、重労働がいらず軽作業でやれる作物であること、部分的に重労働が要求されても、それをカバーできる態勢がとられることである。

 第二は、高齢者・婦人がもっている根気強さやこまめさ、あるいは知恵などが生かされる作物であること。

 第三は、高齢者・婦人に合った仕立て方の工夫などが必要であること。

 第四は、農薬をたくさんかけないですむような作物や栽培法であること。

 第五は、出荷が負担にならないような工夫を加えること。

 第六は、もうかること。

 この六つの条件は、どれか一つの条件さえ満たされていればいいというものではない。それぞれが、お互いに関連をもっているのである。

 たとえば本誌一九八五年五月号で取り上げた岐阜県海津町の記事には、ナバナで一〇〇万円くらいは一冬で稼いでしまう高齢者の経営とそれを支える農協の話が載っている。ナバナは、一気に収穫するのでなく、値段の上がり下がりを見ながら葉を順繰りに一冬中摘んでいればよいという、高齢者にぴったりの軽作業作物である。しかも作付時期が冬だから病気や虫害はほとんど出ない。出荷は、結束したり箱づめしたりの面倒な調製がいらない。ただし、こんなかんたんにできるナバナ栽培にも高齢者には重労働の部分があり、その部分には組織的な支援がいるという。それは、海抜〇メートル地帯で、かつては輪中という堤防をはりめぐらして洪水から守っていた海津町にあって、ナバナを作付けるには七〇cmもの高ウネにしなくてはならないということだ。その問題を海津町の農協は、全額出資で設立した有限会社「興農社」のオペレーターに機械で高ウネを立ててもらうことによって解決している。部分的に重労働の場面があっても、それをカバーできる態勢がとられていれば、高齢者でも十分に取り組めるのである。

 ところで、植えさえすれば後はせん定と収穫だけですむ高齢者向きの作目として、イチジクもまたここで栽培されているが、そこで工夫されているのは仕立て方である。高齢者にむくように、「はいずり型」と言われるほどに低く低く仕立てている(「年寄りには年寄りのつくり方がある―岐阜県海津町の野菜づくり―」)。

 以上のような作物選定や仕立て方の工夫などは、野菜に限らず、本誌でかなりの力をさいて取り上げているので、ぜひ参照していただきたい。さまざまの軟弱野菜や果菜の栽培、アスパラガス、アサツキ、ギンナン、キノコ、シキミ、シオデ、コゴミ、タラノメ、マタタビ、コシアブラ、キイチゴ、薬草などなど、風土を生かしその人の特性を生かして高齢者や婦人、あるいは勤めに出ている熟年の人が高収益をあげている例は枚挙にいとまがない。仕立て方の工夫では、垣根仕立てにして腰をかがめなくても手入れや収穫ができるようにする工夫や、疎植にしたり、果樹であれば枝ぶりを疎にしたりして、必要労力を軽くすると同時に光や風がよく通るようにして作物を健康にし、減農薬や品質向上により高収益をあげる工夫などが至るところに載っている。

高齢者・婦人でなければできない取組みが社会的必要に合致する

 このような高齢者や婦人の野菜づくりは、よくしたもので、今日の野菜に対する社会的要望にもっとも適合しているといえよう。

 一例をあげよう。いま、無農薬や減農薬の野菜が社会的ニーズになっているが、前項でも見たように、高齢者の農業や婦人の農業は、農薬にあまり依存せず無理なく穫ることを真髄としているのである。それは高齢者・婦人の健康面=身体性という点からも言えるし、熟年者や高齢者の経済側面、つまり、子どもたちがすでに独り立ちし経済的負担が軽くなっていたり、ご本人は年金をもらっていたりという面からも言える。

 若い人でも「農薬散布がなかったら農業がどんなに楽しいことか」とよく言うが、「この年になって肥料をがんがん施し農薬をどっぷりかけて穫りまくる気はしない」という高齢者は多い。定年退職農家だったら年金をしっかりもらって、農業では体や畑に無理をかけずに確かに稼ぐ。後継者のすぐこない専業農家の高齢者だったら、どうしたら無農薬や減農薬栽培ができるかの深い観察と知恵と技術を、その農業生活の長い経験からつかんでいる。それを生かして年金以上にがっちり稼ぐ。それが高齢者農業であろう。

 あるいは婦人もまた、子どもを産み育てるというその身体性が農薬使用に対する慎重な態度を育む。いわば、高齢者や婦人の自然性・社会性が、無農薬や減農薬の野菜など社会的ニーズに合致した農業を生み出させるのである。

 また現代は豊かな社会であり、アサツキ、タラノメ、土地のキノコ等々、地域においてはなんの変哲もない山野草や作物が注目を浴び、単価の高い特産的な商品となる時代である。これまた、経験豊富な高齢者が地域生活そのものの中で接してきたものであり、栽培化するにあたっても容易に勘を働かせることができる、得意とするところの作目であろう。

 あるいはまた、添加物入りの加工食品の氾濫のなかで、素性のはっきりしたほんものの農産加工品が求められている。この必要に応えられるのも、熟年から高齢にかかる農家の女性を中心とした人たちだろう。さらにそこに農業・農村がもつ文化性まで付与することが求められるのが現代なのである。熟年のお母さんたちが中心になって地場産直を一〇年以上つづけてきた山形県金山町の夕市グループに東京の郵便局から声がかかり、年四回、山菜や旬の野菜・果物、餠・漬物などの手づくり加工品を送るほか、年に一度、金山町訪問と交流を希望する都民の受け入れをすることになったことなどは、その典型だろう。なにしろ郵便局の簡易保険の配当金をこういう形で支払うことを目玉にした新しいタイプの金融商品が開発され、それが人気をよんでいるのである。

人生八〇年時代の農業が豊かさを生みだす

 これらの生き生きとした取組みを見ていると、従来われわれは専業農家を中心に、もっと言えば青壮年男子を中心に、ものごとを考えてきたのではないかと反省させられる。つまり人生の一部分でしかない「青壮年時代」にだけ重きを置いて、子どもの時代はそこにむけての経過期間、熟年・老年の時代はもはやそこを通り過ぎてしまった余りの期間、というふうに見てしまうひどく偏った考え方や、婦女子を男子の脇役としてしまうような考えに、知らず知らずのうちに支配されてきたのではないか、と。

 最近、経済界から、婦女子の社会進出の条件づくりや、高齢者が長年かけて培った能力を生かす「エージレス社会」の創造が言われはじめたが、農業ほど性別や年齢に応じて、その人らしい形で能力が生かせる仕事はない。しかも機械や資材などが発達して農作業は軽くなってきており、その力を生かす条件は整ってきている。だからかつてのように子守や作業の手伝いといった“タダ働き”ではなく、大いに稼げるようになってきたし、いやむしろ大いに稼いでもうけることが必要なのだ。そしてそのことが従来の青壮年中心の単作的な野菜づくりと共存していけば、「野菜産地に野菜なし」といった貧しい状態を克服する契機にもなり、さらにさまざまの社会的な必要に対し積極的に応えていっているのである。

 従来、高齢者や婦人には高度な技術がいらないやさしい作物を、ハウスなど施設が不要な露地の作物を、といった見解がまかり通ってきたが、こうして見てくると、それは高齢者や婦人の力を〇・五というふうにしか見ず、小遣い銭稼ぎくらいの位置づけしかあたえない皮相な見方だと言わざるをえない。

 高齢者や婦人は条件さえあれば「一」の力、あるいはそれ以上の力を発揮する。そして「高齢者・婦人でもできる」ではなく、「高齢者・婦人でなければできない」やり方が社会的な必要を満たし、世の中を豊かにする。

 人生八〇年時代にふさわしい農業を築いていこうではないか。野菜不足、野菜の高値はそういうやり方を組み立てていく絶好の機会である。

(農文協論説委員会)

前月の主張を読む 次月の主張を読む