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農文協トップ主張 1993年07月

直観と類推が科学をつくる
今西生態学から農耕の世界を見ると

目次

◆環境とは生物の延長である
◆身体の延長としての環境が活性をもたらす
◆「直観と類推」でしか生きものの「生活形」は見えない
◆景観は人間の「生活形」である
◆人間は地球上で他種生物と高度に「すみ分け」できるか

今西生態学から農耕の世界を見ると

 『日本的自然観の方法―今西生態学の意味するもの』(丹羽文夫著)という本が農文協から刊行された。探険家であり、「すみ分け理論」の提唱者として著名な独創的生物学者・今西錦司の理論を体系的に検証した労作である。

 今西は生物学者であり本書でも作物や農耕については一切ふれられていない。にもかかわらず、今西理論は農耕や地域を考えるうえで大変示唆に富んでいる。今西理論を手がかりに「日本的自然観」を「農耕的自然観」と読み変えることで、現代の課題、とくに「環境と農業」について接近してみよう。(以下<>内は『日本的自然観の方法―今西生態学の意味するもの』からの引用)

環境とは生物の延長である

 今西は西欧流の分析的な自然科学、あるいは生物を物質としかみないような生理学的な生物学に真っ向から立ちむかった類いまれな生物学者である。

 <かれ(今西)は、環境あっての生物ではなく、生物あっての環境という観点から、生物存在の内部にくいこみ、できうるならば生物そのものになりきりながら、生物をいわば内側から認識しようとした。西欧の自然科学的手法が、繰りかえしのきく、分析的で、操作的実験を基にした悟性的論理を武器とすれば、今西は直観に基づく類推を手だてに、じかに、深くありのままの自然に分け入り、そこにいきづく生物を鍛えぬかれた鋭い目で丸ごと観察することを最大の武器とした。かれにとって、「見る」という行為は、単に客観的にあるいは観想的に眺めることではなく、対象である生物にのめりこみ、生物そのものになりきるということを意味している。つまるところ見ることはそのものに働きかけることだ、とかれの哲学は教えているのである>(一一頁)

 こうした姿勢を徹頭徹尾つらぬいて生物の世界に分け入っていった今西の理論の全体像は本書をごらんいただくとして、ここではまず今西が環境と生物の関係をどう考えたかをみてみよう。

 環境という言葉がやたらと使われる昨今であるが、それでは生物にとって環境とは何か。人間も生物の一員である以上、そのことは人間にとっての環境を考える前提になるはずである。

 環境というとふつうは外的なものと考えられている。大気であれ水であれ、それは生物主体とは独立に外部に存在し、生物はその外的環境に影響され、規定されて生きていく。こうした生物−環境の二元論に対し、今西は一元的な生物−環境観を結晶化させていった。

 <生物がものを認識するとはその生物がそのものを自己の延長として感ずることである。たとえば生物がそこにある食物を認めるということは、いまはじめてそこにあるから食物として認めるのではなく、すでにその食物が自己の体内で同化しうるということを知っているから何の躊躇もなくその食物を摂り入れるのである。したがって食物は単に外的環境といったよそよそしいものではなく、すでにその生物にとっては生物化の過程におかれたものであり、消化管内に入ればほとんどその生物の一部分になろうとしているものである。そこでその食物を環境の延長とみるよりはその生物の延長とみる方がはるかに都合がよい。一方、生物の身体の一部でも消化管の管内のように外界が身体にまで入り込んでいると考えた方がよいものもあり、それを身体の延長とするよりは環境の延長とみる方が理に適っている。生物は完結体系ではあるが、その身体の中に環境を担い込んでいるともいえる。

 こうした考えから今西は次の結論に到達する。

 すなわち環境とは生物が生活する生活の場であり、生物そのものの継続であり、生物的な延長である。また生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それがほんとうの具体的な生物である。>(四〇頁)

身体の延長としての環境が活性をもたらす

 生物にとって環境は自己の延長であり、生物は身体に環境をとり込んでいる、環境と生物は対立的ではなく融合的である―こうした今西の生物−環境観から農耕を考えるとき、環境をとり込む営みとしての農耕の姿が浮かび上がってくる。

 森(山)があり川があり海があり、その原自然に抱かれるように水田稲作が成立する。水田はイネの体内に自然を(環境を)呼び込む巨大な装置である。その水田は森(山)の延長であり、一方イネは水田の延長であり、食べものとしてのイネは人間の身体の延長である。こうしためぐりめぐる関係を強め、環境をより豊かにとり込むことで農耕は発展した。人間はこれを装置として行なう点で他の生物とは異なるが、環境を自己の延長としてとり込むことでその生活が成り立つことに変わりはない。もっとも今西は下等な生物にも原始的意識があり、それが生きものを生きものたらしめている統合性を発現させているとしている。

 このめぐりめぐる関係で行なわれる環境のとり込みが衰弱しているところに、土のあるいは作物の弱体化の原因を求めることができよう。岩石ミネラルや活性水などの自然物が土や作物を活性化させる資材として注目を集めるのも、そうした背景があってのことだ。

 なぜ、そうした自然物が土や作物を活性化させるのか、BMW技術協会の長崎浩氏は本誌で連載していた「新・地球農学の構想」の中で、大変興味深い指摘をされている。人間は「岩石マン」であり「海水マン」であり「バクテリアマン」であるというのである。岩石のミネラルを溶かし込んだ海水の中で誕生した原始生命、そしてバクテリアは海水を内にとり込み、植物も動物もその原始生命を自らにとり込んでいた。あらゆる生物の細胞液のミネラル組成が海水にそっくりなのは、したがって岩石のミネラル組成に類似しているのは、当然なのである。植物の葉緑体も動物のミトコンドリアも、もともとはバクテリアだったらしい。太古のバクテリアが人間や作物の細胞の一つ一つに住みついている。そのバクテリアはまた岩石や海水を自らにとり込んでいる。今西のいうとおり身体は環境の延長であり、環境は身体の延長なのだ。そして身体が環境をそのうちに含んでいるがゆえに、その活性化はまたその生物を生物たらしめた環境に依拠しなければならない。

「直観と類推」でしか生きものの「生活形」は見えない

 さて、次に考えてみたいのは農耕を支えている自然認識の方法についてである。ここにおいても今西の自然認識の方法は極めて示唆的である。

 今西は生物のかたちを何より重視した。今西にとって環境とは生活の場であり、生物は生活の場において形態(かたち)と機能(生理的働き)をもって生きていく。そして今西は、この形態と機能は別々のものではなく、形態がすなわち機能であるようなものであってはじめて生きた生物といえるとした。したがって生物の生理的しくみをいくら明らかにしても、それで生物をとらえたことにはならない。生活の場で生きているかたちをつかむことこそ、生きものを具体的に認識することであり、今西はそれを「生活形」と呼んだ。

 その目は農家と共通する。トマトの葉はなぜあんなに複雑な形をしているのだろうか。ベテランの農家はトマトの葉の微妙な動きがわかる。じっと見ていると小葉の先がわずかにゆれ、日中には間葉が立つ。こうしてトマトの葉は下へ光を通そうとするとともに、たまった熱気を逃がし、自らさわやかさをつくり出していく(ように見える)。機能が形態の変化として表現され、形態変化が機能を調整していく。

 農家の目はそうしたトマトの「生活形」をとらえ、トマトの立場に立ち働きかけるように見ることによって手だてを構想する。そこに技術が成立する。

 そこで発揮されるのが今西のいう「直観」と「類推」である。牛を見て牛の気持ちがわかるように、トマトを見てトマトが何を望んでいるかをつかもうとする、そこには言葉では 表現しきれない、いわゆる「勘」と呼ばれるような認識のしかたが根底に息づいている。それが「直観」と「類推」だ。

 なぜそうした認識が可能なのか、今西は「世界を成り立たせているいろいろなものが、もと一つのものから生成発展したものである」からだという。つまりいろいろなものは一つのものから生成発展したがゆえに類縁の関係にあり、そして人間自身もそこから発展してきたものである以上、もともと直感的に、つまり科学的な手段を使わなくても「類縁の認識」=類推によって認識できるということである。というより直観、類推こそ生きものを生きものとして把握する方法なのだ。

景観は人間の「生活形」である

 直観にもとづく類推によって、生物の実態は「生活形」として把握される。そして生活形を同じくするものがすなわち、今西にとっての種であり、種とは同じ生活形をもつ個体で構成される社会、つまり種社会なのである。そうした種同士が「すみ分け」て生きているのが生物全体社会ということになる(「種社会」とは今西自然学の“学術用語”であって、決して人間の社会を生物学に還元する社会ダーウィニズムの立場でのことばではない。すべての生物種は種社会をもち、それがすみ分けることで「生物の世界」が成り立っているとするのである)。

 今西の種社会論は「生活形」を基点に構想されている。それでは、人間にとって「生活形」とは何なのだろうか。一人一人の人間の行動、あるいは顔に刻まれたシワもたしかに生活形にはちがいない。しかし生活形は種に共通するかたちであり、人間もヒトという種として自然にかかわり生活しているのだから、人間と自然とのかかわりにおいてつくられ、かたちをなしているものがヒトの生活形ということになろう。生物において生活形は身体に表現されているが、人間の場合は人為がかかわってつくられ変容された自然にそれを求めることができよう。

 象徴的にいえば地域の“景観”が人間における「生活形」である。地域自然とかかわることで成り立つ生活空間がかたちとして成立している、それが景観である。前述した装置とは、いいかえればこの景観にほかならない。そこには山も川も水田も、イネも人間も、そのすべてが含まれて秩序だっている。環境(自然)の延長であるとともに人間の延長であるようなもの、それが真に実在するものとすれば、景観こそ実在である。

 そして景観もまた「生活形」であるがゆえに、直観にもとづく類推によってしか、その意味を把握できない。生物の生理的側面をどれだけ明らかに分析しても、「生活形」としての生物をまるごと把握できないのである。

 農文協から発行した『日本の食生活全集』(全50巻)を読んだある人が、この本を読むと、その地域の景観がリアルに思い浮かんでくると言った。古老から昭和初期の食事のしかたを聞きとり、たんたんと書きあらわしたにすぎないこの本が、結果としてその地域の景観を描いているのは、そこに地域や農家によって異なる食事の様式が「生活形」として表現されているからである。食事は環境と身体が一つに融合したかたちであり、食事を描くことは地域自然と人間のかかわりの総体を描くことにほかならないのである。

 そして「食生活全集」からイメージされる景観が魅力的なのは、そこに豊かで多様な環境のとり込み方が表現されているからである。地域自然がそれぞれちがうのだから、それをとり込むことによって成立する食事のありよう、景観はちがってくる。景観は独自なもの、特殊なものであることにその本質がある。したがって、直観にもとづく類推でしか景観は認識できない。科学は特殊を普遍的なものにおきかえて理解することはできるが、その時すでに景観は景観でなくなっている。特殊なものを特殊なままで認識するには類推という方法をもってしかできない。よく、生態学は特殊の累績であって普遍化ではないといわれるのはこのことである。

人間は地球上で他種生物と高度に「すみ分け」できるか

 今西は進化を「すみ分けの(高)密度化」とした。多様な生活形をもつ種が、その環境をとり込みつつすみ分け、その場を多様な生物世界とすること、それが進化だというのである。

 「食生活全集」が描いた世界、それは「すみ分けの密度化」の世界である。山、川、海、そして田畑からの多様な素材を多様な手法でとり込む、それがまた地域自然を豊かにしていく。それがまた、農耕の歴史でもあった。人間は人間的なやり方で「すみ分けの密度化」をはかる以外に、生きていくすべはない。生物としての原理を人間として貫徹する―その具体的で本質なかたちが農耕なのだ。

 このところ、水を守る運動が盛んになってきた。そして農家がその中心的な担い手として登場してきた。田畑を、農業を守るうえできれいな水、活性の高い水が欠かせないからである。活性の高い水とは森と結びついた水であり、したがって水系を単位としなければ水は守れない。水系を軸とした多種生物の豊富化、さらに農家と地域住民の連帯、そこに景観を回復し創造する新しい地域形成をみることができる。

 自然をとり込む農耕的認識によって、身体の延長としての環境は豊かに形成される。人類はこの地球で、他の生物とすみ分けることができるか―この現代の課題は人類が、新しい地域形成の手法を発見することによって切りひらかれる。

(農文協論説委員会)

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