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農文協トップ主張 1994年02月

なぜ21世紀は農林漁家の時代なのか
経済学の自己変革

目次

◆人間労働が人間存在にとって危険になりつつある
◆普遍性と階級対立視点が「自然」を忘れさせる
◆18世紀型の「自然」理解は現代に通用しない
◆重農主義を手がかりに未来の経済学を

 本誌先月号の「主張」は、「自然と人間の関係の矛盾の解決を根源的に担うのは農業、林業、漁業において他にはなく、世界史を巨視的にみれば、十九世紀は資本家の時代、二十世紀はそれに拮抗する労働者の時代、そして、二十一世紀は農林漁家の時代、という史観が浮かび上がる」と述べている。

 ではなぜ、二十一世紀に、全人類的矛盾としての自然と人間の敵対的矛盾関係があらわれ、その解決を農林漁業が担うと言えるのか、「二十一世紀は農林漁家の時代」どころか、ガット・ウルグアイラウンドの交渉経過に見られるように、各国とも農林漁業や家族農業を工業に比べて遅れた分野であり、経済発展や自由貿易のお荷物扱いされているのではないかと疑問に感じた方も多いのではないだろうか。そこで今月は、少し角度を変え、ヨーロッパの経済学者が書いた*『経済学は自然をどうとらえてきたか』という本から、二十一世紀にあらわれる自然と人間おの敵対的矛盾と、その解決をどのように農林漁業が担うのかを考えてみたい。

 そのことを考えることによって、農林漁業の全世界的な再評価なしには人類の未来を考えることなどとてもおぼつかないものであることがはっきりしてくるからである。

*『経済学は自然をどうとらえてきたか』の著者はドイツ・カッセル大学のハンス・イムラー教授(環境経済学・社会生態学教授)で、原著の出版は一九八五年だが、昨年暮れ、九州大学の栗山純教授(農政経済学)による翻訳、哲学者の内山節さんの解説で日本語版が完成した(農文協教刊)。A5判六〇〇ページの大著の表紙には、酸性雨によって白骨化したドイツの「黒い森」の写真が印刷されている。

人間労働が人間存在にとって危険になりつつある

 『経済学は自然を……』(以下、そのように略す)の原題は「経済学理論における自然(の研究)というものだが、その内容は古代ギリシャ哲学から中世の神学、そして商品(交換)経済が一般化するにつれて発展してきた原初的な経済学、資本主義の時代に突入してから今日に至るまでの「科学的経済学」、それぞれの時代の哲学や経済学にあらわれた自然観を徹底的に検証したものだ。

 イムラーは、この壮大な研究の動機を、「近年、急速かつ不気味に進行している生態系の危機、すなわち人間の自然的な生存・生活諸条件の危機を、経済学的に把握しようとする試み、つまりこの危機を特定の経済学的判断力とそれに照応した人間の行為の論理的帰結として認識しようとする試みである」と述べている。

 さらにまた、その生態系に危機をめぐる経済学的分析の核心には、「自然と労働」がなければならないという。

 「この危機は何から生じたのであろうか。人間と外的自然を仲介とする形態は多様であるが、その中心には人間労働が置かれ、これが人間と自然の間の具体的な生存諸関連をつり出す。労働なくしては人間の生存はありえない。人間外の自然は労働によって形成され、構成される。だが、人間の物象的環境が人間の生存能力を脅かしているとすれば、これが意味しうることは、人間固有の労働の結果が人間存在にかかわる危機に転化した、ということに尽きる。それゆえ生態系の危機をめぐる経済学的分析は、その核心において労働と自然の関係を反映したものでなければならない」からである。

 ところで、今日、体系だった「科学的経済学」とされる経済学の歴史は、十七、十八世紀の工業の社会的生産力の発展とともに始まったとされている。「その工業的生産様式は、歴史的には中世の終焉と市民(ブルジョア)階級によって本質的に規定される新時代の開始とに結びついていたが、この生活様式は経済学的行動様式の理論的に合理的な解明をますます強く求めてもいた」。

 工業的生産様式の発展と強く結びついた「科学的」経済学とは、いったいどのようなものであったのか。それまでの農業の生産力に限定された時代の経済学とは異なり、工業的生産様式が発展し、商品経済が活発になってくると、「価値とは何か」「価値をもたらすものは何か」をめぐる議論が活発になってくる。その場合の価値とは、多様に生産される商品の、たとえば靴と小麦というような、一人一人のとっては異なる有用性=使用価値を超え、異質の商品の交換を可能にする普遍的な合理性をもった価値=交換価値でなければならない。また、価値をめぐる議論が重要であったのは、農業生産のほとんどを手中におさえていた国王、貴族、地主などといった封建領主に対抗し、新しい資本制生産様式の時代を担うブルジョアが、その社会的正当性を主張するためにも不可欠なことであった。

 そのように、「価値」をめぐる十七、十八世紀の経済学は、一つの科学的普遍的な合理性をもった商品「交換」を可能にし、活発にするためのものとして、もう一つ上向しつつあるブルジョアの「価値生産者」としての社会的正当性を裏づけるためのものとして出発したのである。

 それならば、この「科学的」経済学の出発において、イムラーが問題にしている「自然と労働」はどのように位置づけられていたのだろうか。じつは、そこにこそ、今日の「生態系の危機」にあられているように、自然と人間の敵対的矛盾が内包されていたのである。

普遍性と階級対立視点が「自然」を忘れさせる

 イムラーは言う。

 「工業的生産様式のはじめから経済理論と経済的実践の中心には労働が置かれていた。当時の勤勉で、上向しつつある市民階級の意識の中では労働がすべてであった」「人間労働は、価値の増殖、生産諸力の上昇、人間の繁栄の原因である」「これに対して古典経済学(注…十八世紀、イギリスの工業発展を基礎におこったアダム・スミス、リカードウらの経済学)においては自然は概して経済学の範疇として存在しない。人間の物象的環境はたんに前提されているにすぎず、それゆえ物象的環境はそれに固有の経済的ないし経済学的分析を必要としない」。またこのような経済学の古典を継承して形成されてくるマルクス主義、あるいは資本主義の側の諸理論(新古典派)も、自然に対するこの基本姿勢を変えてはいけない、としたうえで、次の重大な問題を指摘する。

 「自然は間接的に、たとえば商品形態において経済学的に把握されるにすぎない。しかし、現実に生産し、消費するということはつねに外的自然をわがものにすることであったし、これが絶対に必要なことでもあったに相違ないのだから、自然に取得する経済的な方法には一つの矛盾が内在しているのである。生態系の危機、つまり自然的な生産基盤と生活基盤の漸次的な破壊は、二〇〇年以上も前に播かれた種子が今になってやっと結実しているだけのことである」

 科学的経済学以前の「経済学」、たとえば十七世紀のウィリアム・ペティは、「労働は富の父。自然(土地)はその母」と、農家なら誰でもわかる生産のパートナーとしての位置づけを自然に対して行なっていた。ところがなぜその後の経済学は、その出発点から価値生産における自然の役割をあえて忘却してしまったのか。そのことは、経済学が、商品の「交換価値」をめぐる「普遍的科学」をめざしたこと、また、封建領主とブルジョア階級の、あるいは後にブルジョア階級と労働者階級の階級的対立を色濃く反映した学問であったことの両面から説明できるのである。

 まず、前者について考えてみると、商品の「交換価値」が科学的客観的な普遍性を持つということは、その価値評価が、一定の数量的・抽象的評価によるものであり、質的あるいは具体的な価値というような、個人あるいは集団によって主観的に変化するような要素によるものであってはならないということである。そうやって商品の価値から質的なもの、具体的なものを剥ぎ取っていくと、最後にどんな異質な商品であってもそれが、労働の産物であるという属性が残り、さらにまた、その商品を生産するのにどれだけの労働時間が投入されたかという数量的な比較が可能になる。そのことはまた、土地(農地)を所有しているだけで自らは労働しない封建領主に対抗する科学的、あるいはイデオロギー的な正当性を主張することにもなる。多くはスミス、リカードウによって形成され、ブルジョア階級の十九世紀を実現したこの経済学は、その後マルクスによって批判的に引き継がれ、価値をつくる主体としての自覚を持った労働者階級がブルジョアに対抗する二十世紀へと引き継がれてきたのである。

 ところがそのことによって、それがどんなに質的・具体的に人間に有用であっても、少ない労働時間の投入で得られる「自然」(自然「資源」としての石油や石炭、森林資源など)あるいはそもそも商品形態をとらない、つまり「労働の産物」としてでなく得られる「自然」(水や大気、海や河川)は、交換価値の普遍的・抽象的な位置づけを至上命題とする科学的経済学にとっては取るに足りないもの、検討に値しないものとないものとなってしまう。

十八世紀の「自然」理解は現代に通用しない

 しかし、とイムラーは続ける。

「経済学において自然が経済的範疇としてはほとんど無視されているということは、現実の生産過程において、さらにまた自然の科学的把握と解明それ自体において、この自然の個々の要素と生産的諸力が無視されているということではけっしてない。まったく逆に、工業的生産様式に先行するすべての生産様式に比べて、前者より強く特徴づけているのは、この生産様式は自然の生産藷力を科学的・技術的に最大限に利用する卓越した能力を発展させたということである」と。

 自然は、資本制工業生産様式の生産過程に最大限に取り込まれているにもかかわらず、経済学は価値理論において「最小限」と言えるような評価すら与えていないのである。しかし、エネルギー「資源」としての「自然」であれ、水や大気のような「自然」であれ、生産に不可欠なものである以上、このような価値理論は、一方で、「根源的に与えられており、いつまでもそうであり続ける自然」「不滅の自然」を前提にしていることにほかならない。そのような十八世紀の自然理解に対応した価値理論では、もはや現代の生態系の危機の解決を期待することはできない、とイムラーは言う。

「十八世紀の自然理解は、当時の仕方での自然取得形態、すなわちきわめて小規模な個人的生産にとってはたぶん十分であったし、この枠の中では自然を「不変なもの」として想定してもよかったのであろうが、近代的工業体制の『摩天楼』は、十八世紀の経済学的な自然理解を基礎としてはならないのではないか? 工業的生産様式の巨大な建築物は、いわばもともと数戸の市民の住宅を予定し、検討されたにすぎない自然基礎の上には建築されないのではないのか?」

 にもかかわらず、工業的生産様式においては「自然の復元に対しては誰も支払いをする必要はなく、自然それ自体が自己の再生産を行なうかのように見える。したがって、生産力上昇のための資本主義的な方法は、この体系の論理の必然として、自然に対しては単に占有、利用、搾取、消尽のみが意図されることになる。工業的過程における生産諸力の変革は、自然的生産諸力の関与にかかわって言えば、ますます増大する規模で進行する自然的生産諸力の量的破壊および質的破壊を意味するのである。」

 ここにおいて、二十一世紀にあらわになるであろう自然と人間の敵対的矛盾の根源が明らかにされる。工業的生産様式における自然と労働の分裂、つまり、工業はその生産物の多くを自然から得てきたにもかかわらず、価値の源泉は労働であるとし、当然、自然の再生産、修復のための支払いをしてこなかった。これからも同じことが繰り返されるならば、すでに顕在化している生態系の危機は、極限にまで高められるであろうということである。そしてそのことを回避し、自然と人間の和解に至るためには、イムラーの言うように「自然と労働」の関係を正しくとらえ、それを核心に据えた新たな経済学の創出が必要になってくるのである。

重農主義を手がかりに未来の経済学を

 では「自然と人間の和解」ための経済学とは、いったいどのようなものであるのだろうか。ここで、農林漁家の役割が大きくクローズアップされるのだが、その前に「価値の経済学と富の経済学」、「労働価値と自然価値」というキーワードについてふれておきたい。

 科学的経済学における価値理論は、基本的に商品として交換される生産物を前提とした価値理論である。そしてこれは「交換」である以上、先にもふれたように数量的・抽象的価値基準が至上のものとなる。直接、人間に有用かどうかよりも、生産の難易がその基準となり、「希少あるいは欠乏」ゆえに「価値がある」と判断されるようになる。しかし、人間の経済学にとって、その生存をも危うくする生態系の危機を招来するような矛盾を内包する価値理論にいつまでも従っていてよいわけはない。これに対し、「富の経済学」とは、その多くが商品として交換されるようなことはないが、人間にとって有用であるところの、多くの自然の富に関する経済学である。

 さらに、「自然価値」とは、科学的経済学が一方的に「労働のみが価値の源泉」としたことの誤りを認め、価値生産における自然の役割を正しく評価した「新しい」価値理論を創造しようとするものである。労働の生産性を追求するばかりで、自然の生産力の再生産をかえりみない現状の生産様式が続けば、やがては自然の生産性が低下し、労働の生産性も低下してしまう。そして最後には生態系の危機に至ってしまう。

 そして、イムラーが、このような自然と人間の和解のための新たな経済学を構想するにあたって手がかりとしているのが、じつは十八世紀、フランス革命前夜という資本制生産様式の勃興期に「農業のみが富の唯一の源泉」という価値基準を掲げた「重農主義」なのである。この理論は、今日まで、農業のみに価値を認めるという狭さや、封建体制の部分的改良しかめざさなかったという意味で、「科学的経済学の萌芽」という歴史上の意義しか与えられない理論ではある。

「しかしその理論は、第一に労働価値説を忘れてしまった生産における自然の役割を直視していたという面において、第二に生産過程を労働過程の視点から、つまり具体的な自然と労働の関係から見るという面において、さらに第三の自然の営みと矛盾しない社会的理論や政治経済学を構想していたという面からも、『未来の経済学』に多くの示唆を与えているとイムラーは考えている」(内山節氏「解説」より)

 自然の生産性に依拠し、再生産なしには存続し得ないという、自然と人間の「つくりつくられる」関係を自覚した農業の世界観を、そのことに無自覚な工業的生産様式にも敷衍していくことなしには自然と人間の和解はありえないとイムラーは考えているようだ。

 この大著は、今後も続編が予定されているのであるが、この巻の最後を、イムラーは次ぎのように結んでいる。

「現に存在している物質的生産藷力の破壊的な発展は、抽象的生産と物象的・物質的な生産との矛盾が激化し、それが生産諸関係の社会的規定と人間の物象的・物質的生活諸条件との間に生活を脅かす危険な矛盾に転化するのが早ければ早いほど、工業的社会体制における大いなる変革を急速に強制してくるであろう。そのとき、傷つけられた自然は人間史の革命主体になるか、それとも残酷な歴史消滅の革命主体になるか、このいずれかであろう。」

(農文協論説委員会)

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