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農文協トップ主張 1997年9月号
「共同体」(むら)と「農法」の思想家

守田志郎没後20年にあたって

目次
◆こんなことってありうるだろうか
◆諸悪の根源か社会の錘か
◆「木を見ずに森を見よ」を否定する
◆つぶやきのような決意


◆こんなことってありうるだろうか

 守田志郎さんが亡くなって20年たつ。
 亡くなる6年前の1971年(昭和46年)に、守田さんは『農業は農業である』という本を書いた。そして、それ以後、本誌『現代農業』を通じて直接農家に語りかける、守田さんの精力的な仕事がはじまる。
 「『農法』とタイトルの書かれた表紙、農業にも法律があるのかと思い興味半分で買う。ところが読んでみると内容がすばらしい。この本は妻も読んで、大いに感激した。父さんこれからはこれでいこうよ、となり現在に至っている」(1)
 これは『北海道新聞』の“思い出の一冊”という投稿欄に載った、北見市の農家、岡嶋司郎さんの文章だ。とりあげられている『農法』という本は守田さんが『農業は農業である』を世に問うた翌年に出版した本である。この文章をつづけて読むと、岡嶋さんはこの本から“農法は自然に出来てゆき自然に進歩するものだ”と悟って、糞尿を堆肥として自分の畑につかう分だけの家畜を飼い、冬は山で間伐や薪つくりをして稼ぐ、「農畜林の三本の矢」で暮らしを立てていることがわかる。
 あるいは、『農業は農業である』を発行直後に読んだ東北の農家、斉藤厳さんは、のちにその感想をつぎのように述べている。
 「農業することにおける基本的な考えをガラリと変える本に出会った。私はこの本との出会いによってようやく開眼させられた。その本は『農業は農業である』という変わった名前の本で(略)、この本を読むうちに、あらゆる面で村は遅れており、農家はバカで、村は封建的であるという従来の考えがまったくひっくり返ってしまった。当時としても頭の中では農村・農業は素晴らしいと考え仲間に話したりもしていたが、体のどこかにそれとはまったく逆のものが残っていた。それが、腹の底から体ごと変えられる思いだった。(略)そして昭和四十七年十二月の懇談会で守田先生の話を直接聞くことによってこれはさらに深められ、農民であることへの自信、農業することへの励み、そしてまた、農業することへの厳しい自覚となって今日まで続く」(2)
 守田さんは文章を通じてだけでなく、自ら農村に出かけ農家に泊まり農家と話した。右の文にある「懇談会」とは、このことを指している。その記録である『農家と語る農業論』のまえがきに守田さんはつぎのように書いている。
 「人生にかけても農業にかけても確実につわものといってよい感じの13人の男たちが、わたしをなかばとりかこむようにして坐っていた。こわい顔の人は一人もいないのだが、わたしは皆がこわい。こわくてもここに坐ってしまった以上、わたしは話をしなくてはならない。それも5分6分ではない。その時、ちょうど午前九時。いまから今夜の九時まで、そしてあすも午前九時から午後九時まで、そしてさらにあさって、午前九時から午後2時まで。2時間わたしが話をして1時間の懇談、また二時間話をして一時間の懇談、とやっていく」
 「体力の問題ではない。農家の人たちにむかって何をわたしが話すことができるだろうか、それを思うともう精神的に参ってしまう。それでも、なぜかわたしは耐えなければならない。13人の農家の人たちが、いまわたしとのつきあいの3日間を耐えようとしてくれているからなのである」
 「そしてとうとう三日間はすぎ、わたしは13人の人たちと別れのあいさつをした。こんなことってありうるだろうか。一人の退席者もなく……。まったく信じられない。感謝、というほかはない。参加した農家の人たちが得たものよりも、話をしたわたしの方がはるかに多くを教えてもらったことを思えば一層感謝である」
 「そして、この集まりに参加して、そのあとも直接間接にわたしに色々と教えて下さっている農家のかたがたにも、お名前はあげませんがここで御礼申上げます。そして、どのかたがたも、それぞれに豊かな農業の日々を送っておられることに感動していますし、今後もそうであることをお祈りします」(3)
 長く引用したのは、“守田さんは農家と話した”ということの中味が、尋常のものではなかったことをいいたいからである。「こんなことってありうるだろうか」と守田さんは、一人の退席者もなかったことについていうのだが、読む側としては2日半の時間を農家と共有して“はるかに多くを教えてもらった”といい、“それぞれに豊かな農業の日々を送っておられることに感動”する学者が存在したことに“こんなことってありうるだろうか”と思うわけである。

◆諸悪の根源か社会の錘か

 守田志郎 農学者 1924〜1977。シドニー生れ。46年、東京大学農学部農業経済学科卒業。従来の「近代社会では伝統的共同体は破壊されるとの学説」(いわゆる大塚久雄学説)」を実証的に否定して、日本現代農業において「共同体」の役割が大きい事を主張した。(4)
 これは、新島淳良氏が「人名辞典」風に守田さんを紹介した全文である。短い文字数で守田さんを書くとなれば、こういうことになると思う。
 「近代社会では伝統的共同体は破壊される」ということは、逆からいえば「共同体が破壊されなければ近代社会はない」ということであって、こうした見方は学問の世界でも、実践の世界でも、極めて強く働いていて、これを前提としなければ学問も、運動も成り立たないと誰もが思ったのが、戦後民主主義というものだった。その「学説」を、守田さんは「実証的に否定した」というわけである。
 だから、波紋は大きかった。
 1976年4月10日、東京四谷で〈『わが農業』発刊のつどい――創刊号で終わらせないために――〉という会合が開かれた。『わが農業』というのは、当時、農業団体の若手の人々が中心となり、“酒税法は憲法違反である”と宣言し自らドブロクを作って国税庁に挑戦した前田俊彦氏を編集代表として発行された12頁の小冊子である。「発行にあたって」という一文は次のようである。
 「農村には運動がないといわれるが果してそうであろうか。かりに運動がなくとも“うごめき”はあるだろう。これほどドラスチックに破壊されていく農村に“うごめき”がないはずはない。そのうごめきがどうして運動へと発展しないのであろうか。うごめきを抑圧するなにものかがあるに違いない。この情報誌は、うごめき、闘う人びとの連帯を深めさらに運動を発展させていくために発行する」
 1976年といえば、守田さんは農村をしげく訪れ、農家の話を聞き、前述した“2日半”に及ぶ「懇談会」の回を重ねていたころである。あるいは、急逝の1年半前、といってもよい。すでに農業から農村へと視野をひろげ、『農業は農業である』になぞらえていえば「農村は農村である」とでもいうべき内容をもつ『小さい部落』(のちに『日本の村』と改題)を上梓していた時期である。
 その守田さんがなぜこの会合に出席したのかよくわからないが、守田さん独特の律儀さだったかもしれない。守田さんに誘われて筆者も同席していた。前田氏はもちろん、作家で運動家の山代巴氏の姿もあった。
 うながされて守田さんが発言する。“たどたどしい”という調子である。
 「ひと月に2、3回は農村に行き、農家を訪れるけれども、農村調査と銘打ったようなことは、久しくしたことがない。農村を調査しても、何もわかることはないと思う。わからない農村をわかったように思って働きかけても何もかわることはない」
 「闘う人びとの連帯を深めさらに運動を発展させていくため」の雑誌の発刊を記念しての会合なのだから、発言は場違いのように聞こえ、苦笑が漏れるだけに終わった。
 それから一カ月ほどのちに、山代巴氏は次のように書いた。
 「『わが農業』の発会式のとき、来賓の守田教授は“(略)農耕をしている人に何かしてあげられるなんて思っちゃあいけない。善意にしろこういう仕事(雑誌を出すこと)などは、もう全部やめたほうがいい。やることは罪だ”。ざっとそんな意味のことをいわれました。(略)私は反発を感じます」
 「いったいお互いはどういう動機でいままで農業、または農民の問題にかかわってきたのだろう。私の場合をかいつまんでいうと、私は農家に生れながら、娘時代には農業も農家に嫁に行くことも嫌い、都会に出て油絵を描いたり、図案家になったり、昭和初頭の農村娘としては飛びきり自由奔放に生きてきたのです。それでも故里の貧しさや踏みにじられた暮らし方を忘れることができませんでした。それが社会主義への道を歩む動機となっています」
 「つまり、私においては、人権意識皆無にひとしい村落共同体の中で、一人一人の内発的な人権意識を芽ばえさせて育てること、内発的な人権意識を土台にした連帯の輪を拡げて行くこと、これが私自身の解放につながっていたのです。農民の問題は私の問題であったのです」
 「農政とは単に米や麦をどうするかというような生産だけの問題ではない。農民の生きる姿勢が第一なのだと思います。自分の住む地域を人権の砦にするというような情熱を“わが農業”の中に流したい。私はそんな意志でこれに積極的に参加しようと思っています」(5)
 “農民の問題は私の問題であった”のは山代氏に限らず、守田さんにしてもそうであった。ただ決定的に違うことは、山代氏は村落共同体をいわば“諸悪の根源”と見、守田さんはそれを“社会の錘”と見たのだった。つぎのように――
 「部落というものが「にっぽん社会」の風船のひもが求めている錘となりうる唯一の本源的な存在のようにさえ思えてくるのである。部落の外に出たあまり者達が、足りない知恵で部落をなんとかしようとする気配がしばしばみられる。(略)その知恵の足りなさが悲しいのだ(略)」(6)

◆「木を見ずに森を見よ」を否定する

 守田さんが晩年になしとげた仕事の一つは、以上かいまみたような“共同体(むら)が諸悪の根源”という考え方の否定である。それは都市と農村の関係についての試論であり、そこでは伝統社会から市民社会へと直進する発達史観への疑問が前面に出される。そして、その直進が「共同体の解体」によってもたらされたとするヨーロッパの場合での史実(?)が、倫理的な世界にまで演繹されてしまうわが国の学問への、また社会運動・文化運動への疑問である。
 「部落を解くてがかりは歴史学のなかにはないようでさえある。歴史によって今日の部落を考えようとした私は、それゆえに多くの時間を空費してきたようでもある。部落が、たとえどのように歴史的存在であろうと、それを知るよすがは過去をさかのぼることにでなく、現在ある部落そのものの歴史性のなかにのみ得ることができるようである。日本における部落を、生きている化石として見る迷妄にとざされている間の私は、いくたび部落を訪れてみても、部落について何事も知ることはできなかったように思う。そしてようやく筆をとることができるようになったとき、どうやら私は農業史の研究者としての自分を捨てることができたようにも思う」(7)
 もう一つの仕事は農業内部の問題としての農法についてである。畑のつくりまわしという農家自身がつくりあげてきた農法があり、その対極に田をつくることの権力による強制があった。この観点からするとトヨアシハラのミズホの国という既成概念は一挙に瓦解して、ムチと真綿によるイネ作りという日本農業史が忽然として浮かび上がってくる。そしていまの生産調整の政策は、この一千余年にわたる強制のうらがえしということになり、そのうらがえしに農家自身がどのように対処したらよいか、その方法もほのみえてくるというものである。
 自分のつくった米を自由に動かすこと(売ること)を禁止してきた食管法が廃止され、その禁が解かれたいま、なんらかの形で農家と直結して米を入手するという消費者が全体の30%に達しているという調査がある。それを守田さんに知らせてあげたかった。
 ところで、守田さんが『農業は農業である』を世に問うたとき、農業経済学の分野の学者たちの評判はわるかった。一言でいって“守田氏は学問を放棄した”というのである。そして「ネオ農本主義」という空虚なレッテルを貼って済ませてしまう“学者”もいたのである。
 守田さんが、農村調査というような従来の学問の方法を棄て、また“べきである”とだけ農家に呼びかける運動の方法を棄て、自らの学問を「鉛を志す社会学」と称した、そのことをもって学問の放棄としたのである。
 「鉛を志す社会学」とはつぎのような意味である。
 「科学としての社会学とするために、対象とする社会(注・たとえば農村社会)から身をはなしておかなければならないとしても、それはその社会のどこの部分にも身をおかずに気軽に外に出ることではないのではなかろうか(略)。対象とする社会に身をおくことによって全体をみる、とでもいおうか。あるいは対象とする社会に身をおくことによって知りうることを全体とする、ということかもしれない。つまり主観主義のようなものである」(8)
 「木を見ずに森を見よ、という。(略)この教訓の金しばりにあってきた半生からぬけでるべく、あれやこれやの勘考のさなかにあるというべきなのかもしれない。つまり、わたしにとっては、目のかたきの教訓それが「木を見ずに森を見よ」だったのである。だから、いま全面的に否定してしまいたいのである」(9)
 「いよいもって主観主義の権化にもみえよう。それでよいのだ。見えかつ感じられる限りの範囲において見そして考える。高く高く雲雀のように雲の上にまで上がって金(きん)のけ高さをもって確立してきた学問、それをここまで引きおろしたいのである。金銀銅と引きさげて、さらに引きさげてそれを鉛のところまで引きさげてみたいのである」(10)

◆つぶやきのような決意

 学者たちの評判がわるかった分だけ、守田さんの論を受容する農家は多かった。
 冒頭に引用した岡嶋さんや斉藤さんがその一例だ。そして、文章に記さない農家がたくさんいる。
 1980年(昭和55年)、凶作の東北の村々を取材して歩いた一新聞記者は、ある農民から突然、守田志郎の名を聞かされる。
 「渡辺重博。「あつひろ」と読む。昭和41年度、朝日新聞社主催の「米作日本一」多収穫部門の「日本一賞」を受けた」「55年12月29日、重博は出稼ぎ先の東京から(略)帰省した」「5升のモチ米を一気につくことが出来る大きなウスで、まずモチをついた。生活の簡素化だといって、印刷した紙を張って来た門松をことしはやめて、わざわざ山にマツの木を切りに行った。おせち料理用にとウサギとニワトリを一羽ずつつぶした」「自分の家で食うものは、コメだけでなく、あたうかぎり自分で作る。それが「百姓」というものの本来のありようではないか、といまの重博は信じる」(11)
 「守田志郎という大学教授の名を、重博は熱っぽく語った。(略)守田の農業への考え方は、例えば昭和49年10月4日付、朝日新聞の文化欄で、次のように述べていることからもうかがい知ることが出来る。“農業というものは、儲けようと思ってはじめた業ではない。生活のため自分で食うためにものを田畑に作り、その一部を田畑のない都会の人間が分けてもらう、そういう関係なのだと思う”と」「守田のそうした基本的な考え方は、コメの増産を叫び続けて来た国が、ある時から突然逆に減反を強制し、それをさらに強化しようとしている中で、農業の将来に動揺を感じ始めていた重博をとらえて離さない魅力を、たっぷりと持っていた」(12)
 この秋、そこここの農家のグループで守田さんを追悼する会が開かれると聞く。「常識の大系に楔を打ちこんだ思想家」(13)として、守田志郎は永遠に読み継がれるだろう。
 最後に、次のような守田さんの“つぶやき”のような決意の文を引用して、われわれの追悼の意を表わしたい。
 「古島(敏雄)氏が打ち立てたものは金の学問としての農業史であり、そういう古島氏自身とりもなおさず金の学者、ということである。それでいて、まさにそれでいてなのだが、民衆とのあいだの余り大きなへだたりをつくらずに過してきたもののように思える。多分それは、相当に意識的な努力によるのであろう。そこも氏の偉い点なのだろうとおもう。戦前の金を究めた学者となるために、意識するとしないとにかかわらず自らを民衆から隔絶することが一般的な前提となるのだから。
 そして現代にあっても、われも師をはずかしめることなき金の学問を求めるならば、自分を含めた民衆との絶縁のみがそれを可能にするにちがいない。それを師が好むのかどうか、私にはわからない。好む・好まないのどちらともいえそうな気がする。金の、ではなく鉛の学問を求める私の心境、それが師への順逆いずれを意味するのだろうか」(守田志郎「その弟子」――『古島敏雄著作集』月報三所収)

(1)「北海道新聞」88年7月10日付
(2)守田志郎『対話学習日本の農耕』315頁
(3)守田志郎『農家と語る農業論』1〜2頁
(4)新島淳良・編集発行『墳』97年2月号13頁
(5)山代巴「地域を人権の砦に」「農業共済新聞」76年5月4週号
(6)守田志郎『小さい部落』169頁
(7)同右序文
(8)守田志郎『学問の方法』188頁
(9)同右189頁
(10)同右191頁
(11)降幡賢一『日本の米――産地からの報告』(中公新書)226頁
(12)同右233頁
(13)中岡哲郎「守田志郎『農法』の解説」
(農文協論説委員会)
 次頁以降に現在入手可能な守田さんの著作の読書案内を掲載しました。
(農文協論説委員会)


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